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正月料理に飽きたらタイ料理はいかがでしょ
タイ料理、旨いですよね。大好き。
国内のタイ料理屋さんもいいですけど、やっぱり現地は一味違います。
米が軽いせいか、いくらでも食える。1日5食ぐらい食える。せっかく来たのだから、とあれこれ欲張って色々食べてもほとんど胃にもたれないのが嬉しい。
ヨーロッパに行くと「肉!バター!ジャガイモ!」が連日続き閉口する人は多いですが、タイは米が基本だし肉も野菜も魚の種類が豊富で食べ続けても飽きない。とても親しみやすいですよね。
そんなタイですが実はかなりのハイブリッド文化で、ローカルなタイ民族の料理にエスニック料理が融け合って今のタイ料理ができています。
記事三行要約
- 伝統のタイ料理に西洋のエッセンスを加えた王宮料理が発展
- 中国商人のニーズに応えて中華料理が発展
- 長らく変化のなかった大衆料理も、中華料理に影響を受けて変化していった
1. 地方色豊かなタイ料理
Photo by Takeaway
タイは南北に細長い国で、北はラオス・ミャンマー国境の山岳地帯、南は海に面したマレー半島にまで達し、地方によって食材は様々。
国土の大半を占める平野では米が大量に採れ、ゆったり流れるメコン川では肥えた川魚が多く採れます。まことに豊かな土地です。
1-1. 中部タイ(バンコク近辺)
首都バンコクと旧王都アユタヤがある中部タイでは、後に述べるように王族のお膝元で宮廷料理が栄えたと同時に、様々な外国料理が流入しました。
タイ人なら誰でも大好きなトムヤムクンは、海に面しているだけありエビが入ることが多いです。味は他の地方に比べて味の輪郭がはっきりしていて、酸っぱさと甘さと辛さが同時に主張します。レモングラスの香りがたまらないです。
Photo by Takeaway
タイカレー(ゲーン)も各地にありますが、タイ中部ではココナッツを入れたものが一般的です。タイカレーも、レッド、グリーン、イエローと様々で、これだけ食べ歩けるくらい種類がたくさんあります。個人的にはグリーンが好きです。
揚げた魚も旨いものです。海の魚も美味しいですが、タイに来たからには川魚を食したい。上記の写真は屋台で食べた、川魚の揚げ物。青唐辛子のソースに浸して食べます。
中部タイでは中国料理の影響が強く、揚げて餡をかけたり、醤油蒸しにしたりすることも多いです。
1-2. 北部タイ
ミャンマー国境に近い北部タイでは、南部のように様々な外国料理が入ってこなかった関係で、あまり華やかさはなく素朴な田舎料理といった感じです。
肉とか野菜の炒めたり煮たりしたんでご飯をかっこむってスタイルです。
Photo from แกงฮังเลซี่โครงหมูอ่อน, bloggang.com
これはタイ北部名物のゲーンハンレー。カレーというより豚バラ煮込みといった感じで、ミャンマーが起源という説もあるそうです。
1-3. 東北部タイ
タイ東北部はラオスに接しており、ラオ族の文化が濃い地域です。
タイ東北部は政治・経済的に冷遇されてきた歴史があり、バンコクっ子からしたら「貧しい」地域とされています。バンコクのカオサン通りに行けば、コオロギやイナゴ、セミの屋台が出ていますが、あれを売っているのは東北部の人たち。さらには、ネズミ、トカゲ、ヘビなど中部や南部の人から見たらゲテモノとされる食材も食べます。
Photo by An-d
もちろんそればかりじゃなくて、現在全国的にポピュラーになった食べ物でタイ東北部の料理はたくさんあります。
Photo by Heinrich Damm
バンコクでよく見るタイ風焼き鳥のガイヤーンは東北部の名物料理。小腹が空いた時に、焼き鳥をかじってチャーンビールをグビってのもオツなもんです。
Photo by Takeaway
タイに行った人なら1回は食べたであろうソムタム(青パパイヤの和え物)も東北料理。唐辛子がピリッとして、パパイヤがシャキシャキして、良い箸休めです。
1-4. 南部タイ
マレー半島が大部を占める南部タイは、古来からインドや中国の商人が行き交う海の交易ルートで、さらにマレー人の文化が混在しています。
海に面していることもあり海産物をたくさん食べるのと、インドの影響が強く香辛料をたくさん使う。そのため、南部が一番味が濃く、辛い料理が多いそうです。ウコンをたくさん使うので、全体的に色が黄色いのが南部料理。
Photo by Xufanc
名物の魚の内臓のカレー、ゲーンタイプラー。口の中で辛いだけでなく、腹に収めてもカーッと湧き上がってくるほど辛い。猛烈に辛い。
Photo from แกงส้มดอกแค THAIFOOD4
もうひとつ、南部名物のゲーンソム。さっぱりと酸っぱい味のゲーンで、海水魚やエビが入っていることが多いです。
さて浅くざざっと概要をサマリましたがここから本編です。
いかにタイ料理が現在の形になったかですが、タイ族の王朝は中部タイを中心に栄えてきた歴史があり、ここからタイ中部の歴史の歩みとなります。
タイ料理は幅が広く、これまで挙げたものも全てではないし、これからの歴史もタイ料理の全てを包括するものではないことをご承知おきください。
2. スコータイ王朝時代の料理
タイにおける最古の食べ物の記録は、13世紀に栄えたスコータイ王朝第3代のラーマカムヘーン王が記したとされる、スコータイ第一碑文にあります。
ラーマカムヘーン王の御大、スコータイのくにやよきかな、田には米あり、水には魚あり
非常に素朴な国の豊かさの誇示というか。
昔チェンマイにあったラーンナー王朝は「100万の田んぼ」という意味で、昔は田んぼが多ければ多いほど国が豊かであると考えられました。
セットで出てくる魚(川魚)もタイ人にとっては食の基本となるもので、食事をすることを「キン・カーオ、キン・プラー(米を食う、魚を食う)」と言います。そういえば、日本でも食事をすることを「ご飯を食べる」といいますよね。
3. アユタヤ王朝時代
1350年から始まったアユタヤ王朝は、豊かな林産品と米を背景に交易が栄え、中国、日本、インド、アラブはもちろん、ポルトガル、フランスなどのヨーロッパからも交易船が訪れ大いに栄えました。
東南アジアの王朝は、アユタヤのような強大なムアン(都市)が地方の中小のムアンを従属させる形で成立します。力関係で従属と非従属の関係が逆転することもあるのですが、このアユタヤ王朝の時代に先に述べた北部、東北部、南部といった地方のムアンの基本的枠組みが成立し、現在のタイの地方が定まったと考えられています。
アユタヤの王朝で大きな力を持っていたのは中国人の商人で、17世紀の記録によると中国人専用の市場や中国菓子の市場もあったそうなので、タイ料理にも大きく中国料理の影響が及びました。
また、諸外国からの使者も王宮に様々な料理を献上したであろうから、コスモポリタンな宮廷料理が発達したものと考えられます。
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4. ラーマ1世の時代
アユタヤ王朝がコンバウン朝ビルマによって滅亡された後、アユタヤの武将だったタクシンは東部沿岸のチャンタブリーに都を移し、旧領復古のための戦いに明け暮れました。おかげで旧アユタヤ領の大部分を回復しますが、貴族のクーデーターによって王朝は覆され、タクシン朝はわずか15年で崩壊。
次に王朝を作ったのは同じくアユタヤの武将チャオプラヤ・チャックリー(ラーマ1世)で、彼は都をチャオプラヤ川の対岸、現在のバンコクに遷都します。これが現在も続くチャックリー王朝です。
チャックリー王朝はアユタヤと同じく中国の冊封体制に進んで入りました。何よりラーマ1世自身が半分中国人だったので、政治・経済共に引き続き中国の強い影響下にありました。
またラーマ1世はバンコクの都を作るにあたり、ラオ人、モン人、クメール人、ベトナム人を大量に移民させ、バンコクに住まわせて王都建設のために働かせました。
そのため、周辺各国の料理が王都バンコクに流入したのもこの時代です。
Photo by Mattes
モン人はカノム・ジーンという、そうめんみたいな米の細麺をもたらしたし、ベトナム人はポピヤ・ソット(生春巻き)などタイ人にも馴染み深いベトナム料理をもたらしました。
5. ラーマ2世の時代
1809年、ラーマ2世が即位した頃には戦乱の雰囲気も薄らぎ、人びとも生活を楽しむ余裕が出てきました。
それを象徴するように、詩人でもあったラーマ2世は自作の料理のポエムをいくつも残しています。王自身が相当なグルメだったようです。
まずはマッサマンカレーの詩。
Photo by Takeaway
鶏カレー 肉のマッサマンカレー
この私のすばらしき人
イーラー(茴香)の香りは高く ツンと来る味
暑く辛く
男なら誰でも このカレーを食べれば
愛し、求めたくなる
力が湧き出る 腕をもって
胸を叩き、さがしもとめる
マッサマン麗しきそなたのカレーよ
イーラー(茴香)の香りは高く 味は力強い
男なら誰でも このカレーを呑み込めば
夢をみる心地になる
マッサマンカレーを食べて元気モリモリになる王様。いいですねー。「がんばって!」とエールを送りたくなる。
次は、ゲーン・クワ(豚肉のグリーンカレー)の詩。
Photo from 51 Explicit Thai Food Pictures that Will Make Your Mouth Water, eatthaifood.com
想像をこえた野豚の煮物よ
ゲーン・クワ・ソムにラカム(トゲサラサ)を入れて
その愛らしさを伝えるようだ
悩み悲しみに胸が痛む
テーポー(ナマズ)の腹肉のスープ
脂がのって スープに脂が浮かぶ
すすりたくなる、その香り
極上の気持ちを味わうよう
スープの酸っぱさ、甘さ、苦さを感情に、スープの具を女性の肉体に例えた、なんかラグジュアリーな歌です。
6. ヨーロッパ料理の流入
モンクット王(ラーマ4世)の時代、タイはイギリス・フランスの圧力に屈し開国。弱肉強食の帝国主義の時代に突入していきます。
(これ移行の歴史は過去記事「タイの近代化と立憲主義の歩み」にまとめていますので、興味がありましたらご覧ください)
政治・経済・文化・思想など、ヨーロッパ製のありとあらゆるモノが流入しました。
西洋人も多数タイに住むようになり、西洋人向けのホテルやレストランも開業しました。庶民にはまったく無縁でしたが、特に国王は西洋人の食文化に非常な関心を持ちました。
近代化を推し進めるラーマ4世は、これまでのようなタイの作法だと西洋の価値観では不作法にあたると考え、自ら西洋風のマナやー食器を使った食べ方を実践。料理も西洋流アレンジのものが増えていきました。
例えばラーマ5世が食したレシピのサンプルは以下のとおり。
- すっぽんのゲーン・クワ
- エビとパイナップルのゲーン・クワ
- 黄色カボチャの鶏カレー
- 牡蠣の塩漬け
- 大エビの煮込み
- ラオス風スープ
- 舌平目のソット・チアン
- キャベツとエビの炒めもの
なんか急にお上品かつ洗練された感じになりましたね。
7. 中国料理の影響
Photo by Takoradee
7-1. 豪華中華レストランのオープン
20世紀に入り、大規模なインフラ開発プロジェクトを牛耳った中国商人の中から多数の大富豪が排出されることになりました。
成金中国人たちは夜な夜なナイトクラブに繰り出しては遊びふけり、店のネエチャンを連れだして豪勢な中国料理をたらふく食らうわけです。
このような大富豪のニーズに応え、豪華中華レストランが次々と開店。1912年にホイティエンラオ「海天楼」、ついでゴックチーラオ「国際楼」、ヤオワユーン、キーチャンラオ、ライキーなど次々にオープン。
これらは一部の大富豪しか入れない超高級店でしたが、小中金持ちの中国人が入る中華レストランもあちこちに出来ていきました。現在もバンコクらしくないほど値段が張るけど味は最高な中華レストランが数多くありますが、この時に出来たものか後継店なのでしょう。
7-2. 庶民料理と中国料理の融合
一方、1900年に鉄道が全面開業し、バンコクと東北部コーラートが結ばれると、労働者が次々にバンコクにやってくると同時に、豚が大量に運ばれてくるようになりました。
それまで中部タイの庶民はあまり豚を食べる習慣はありませんでしたが、増加する中国人のニーズに応えてなのでしょう。市場にも中国人向けの食材が溢れるようになり、屋台でも簡単な中国料理が売られるようになりました。
当のタイ人は何を食っていたかというと、どうも当時もアユタヤ自体からあまり変わっていなかったようです。家の近くで釣ったサカナに、ちょっとした野菜、そして米とナンプラーでさくっと家庭料理を作ってしまう。
さらに時代が進み、庶民も市場でモノを買うようになると、中国人の食材や屋台メシを食べるようになり、庶民料理にも中国料理が入っていくようになりました。
まとめ
以上のように、バンコク周辺では、
- 西洋のエッセンスを取り入れたタイ王宮料理
- 豪華絢爛な中国料理
- 中華風にアレンジが入った庶民料理
の3つの軸で料理が区分されるのですが、近年はタイの地方料理がバンコクでも定着したり、ファーストフードが普及したり、日本料理が人気になったり、市民は様々なスタイルの食を楽しんでいるようです。
さて、いかがでしょうか。タイ料理食べたくなりましたか?ぼくも食べたくなりました。ぜひ、明日のランチに美味しいタイ料理を食べてみるのはいかがでしょうか?
参考文献 世界の食文化5 タイ 石毛直道監修,山田均著 農文協