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現代ベトナム史と共に歩んだフォー
フォー(phở)は今やあちこちにあるベトナム料理店では必ず提供される麺料理です。コンビニでも売ってたりしますし、インスタント麺になっていたりもします。
あっさりだけどコクのあるスープに、ピロピロした歯ざわりが心地よい米の麺。付け合わせにライムを絞ったり、パクチーやもやしを入れたり、唐辛子酢を入れたりして、味や香りや食感を何重にも変えながら一杯の麺を心ゆくまで楽しむのがベトナム流です。
ベトナム料理の歴史は長く奥深いものがありますが、実はフォーの歴史はさほど古いものではなく、その起源は1900年頃と考えられています。
1. 多様なベトナムの麺
フォーの歴史に行く前に、「フォーだけではない」ベトナムの麺の種類を紹介します。ご存知の通り、フォーは米粉を水で溶かして固まったところを麺状にしたものです。フォーはハノイを中心としたベトナム北部が本場とされていて、南部や中部など他の地域ではフォー以外の麺のほうが好まれる場合もあります。
ブン(bún)
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いわゆるビーフンです。中国語では米粉と書き、広東料理では重要な麺の一つです。
発祥も中国南部で、溶かした米粉を容器に入れてトコロテンのように突いて麺にします。
ベトナムでは北部ハノイを中心に人気があり、名物料理も数多いです。例えば、豚肉の入った甘酸っぱいつけ汁に麺をひたして食べる「ブン・チャ(Bún chả)」。
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豚ベースのスープに様々な練り物を浮かせた「ブン・モック(bún mọc)」など、名物麺がたくさんあります。
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フーティウ(hủ tiếu)
フーティウはホーチミン(サイゴン)を中心とした南部で人気がある麺です。フォーとの違いは、フォーが半生で売られるのに対して、フーティウは乾燥させて束で売られる点です。フォーよりも太くコシが強い麺です。
フーティウもまた発祥は中国南部で、中国語では「粿条(クエティオウ)」と呼ばれます。仏領コーチシナや南ベトナム時代はフーティウは下等扱いで、「貧乏人が食うもの」とされていましたが、南北統一後に一気に価格が上がり、またカンボジア内戦でポルポトから逃げてきたカンボジア難民が南部ベトナムに流入してフーティウの需要が高まったことで、ホーチミン名物の麺料理となりました。
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バインカン(Bánh canh)
これはちょっと変わったところで、タピオカ粉を使った麺です。
バインカンは直訳すると「ケーキ・スープ」という意味で、別にこの麺が甘いということではなく、作る時にタピオカ粉を混ぜた塊を、まるでケーキを切るように切って麺にしていくことからこの名がついているようです。
タピオカティーに入っているタピオカボールのようにモチモチの食感です。
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バインダー
北部の港町ハイフォンの名物麺が、サトウキビを記事に練りこんだバインダーという麺を使った、バインダークア。カニのスープを使った豪華な海鮮麺です。
麺はきしめんのような長広の麺で、特にサトウキビを使っているからといって甘いわけではないようです。カニのスープと合わせて独特の風味を出すためにあえてこの麺にしているとのこと。凝ってますよね。
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紹介して行くときりがないのですが、そのほかにも、中華麺に似てる「ミー」、中部の町ホイアン名物の米麺「カオラウ」、中部の町ダナン名物の米麺「ミークアン」、緑豆から作った春雨「ミエン」などなど、まだまだ地方ごとや材料ごとに麺の種類は多くあります。
なぜこのような多様な麺の中でフォーが国際的に人気になっていったのでしょうか。
歴史をフォーの誕生から見ていきます。
2. フォー・ボーの誕生(1900年頃)
牛肉麺の誕生
フォーはいつ、誰によって発明されたのか?
1900年前後に北部のハノイ周辺で生まれたことは確かなのですが、明確なことは分かっていません。一口にフォーと言っても、フォー・ボー(牛肉のフォー)やフォー・ガー(鶏のフォー)などいくつも種類があります。しかし、オリジナルのフォーは、牛骨スープに牛肉を浮かべた「フォー・ボー」です。
長い間ベトナムでは牛は田んぼの耕作に使う使役動物であり、積極的に食べるものではありませんでした。食べるとしても、一生鋤を引いて死ぬ直前に屠殺場送りになった痩せ牛くらいで、お世辞にも旨いものではなかったそうです。
ところが、1887年に仏領インドシナを完成させベトナム全土を植民地にしたフランス人の官吏や商人たちは、遠い異国で故郷の味である牛肉のステーキを食いたがりました。フランス人が食い残した牛の肉ガラや牛骨が大量に出るわけですが、肉屋はその処理に困ってしまいます。ベトナム人は誰も牛肉なんて食わない。
そこで誰かが、当時庶民の間で食べられていた水牛の麺「サオ・トラウ(xáo trâu)」のスープと具を水牛から牛に変更し、麺もスープに合うように春雨から米麺に変更して屋台で供するようになりました。これがフォーの原型で、当時は「サオ・ボー(xáo bò)」と言われたようです。
一方で、ハノイの南東約60マイル(100キロメートル)にあるナムディン県の貧しい村ヴァン・チュー(Van Cu)では、フランス人がやってくる前から牛肉麺を作って食べていたという説もあります。
牛肉麺はまず、トンキン湾から紅河を経て雲南に至る河川交通で働いていた雲南の労働者の人気を得ました。雲南には「过桥米线(Guòqiáomĭxiàn)」という麺料理があり、それとサオ・ボーが似ているということで人気となりました。次いで雲南人のマネをする形でベトナム人労働者にも受け入れられるようになったようです。
ブルーカラー層の人気を得た牛肉麺は、1920年前後から仏領インドシナの中心都市として発展を続けるハノイのホワイトカラー層の人々にも人気を得るようになってきました。
1925年頃には、ヴァン・チュー出身の料理人がハノイに進出して、「本家の牛肉麺」を食わせる店をオープンして話題になりました。1930年には牛肉麺はハノイの町のあちこちで食べられる人気の麺料理となっていったのでした。
「フォー」の語源とは何か
では、この牛肉麺がなぜ「フォー」と呼ばれるようになったのでしょうか。
この論争は未だに決着していないのですが、主要な説は3つあります。
まず一つ目が、フランス語で煮物を意味する「ポトフ(pot-au-feu)」の"feu(火)"が訛って"phở"になったというもの。
二つ目が、ベトナム語で「牛肉と米の麺」を意味する「Ngưu Nhục Phấn Đây」が略されてphởになったという説。「Ngưu Nhục Phấn Đây」を早口で言ううちに「Phấna」または「Phốnơ」と崩され、最終的に「phở」に落ち着いたというものです。
三つ目が、広東語の「牛肉粉(Ngàuh yuhk fán)」が略されて「phở」となったというものです。ベトナム語説と似てますが、売り子が「牛肉粉!(Ngàuh yuhk fán)」と叫んで売るうちに、次第に「肉粉!(Yuhk fán)」そして「粉!(Fán)」となり、"n"が抜け落ちて"Fá"となり、それがベトナム語の語感で近しい「phở」に落ち着いたというものです。
個人的には2番目と3番目が同時多発的に発生して「phở」になったというのが一番ある気がしますが、ベトナム、中国、フランスとフォーの成り立ちを示す興味深い議論です。
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3. フォーの広がりと発展(1920〜1950年代)
Photo from "Phở gà đùi" Lozi
発展するフォー
元祖オリジナルのフォーはスープ、米麺、煮込んだ牛肉のシンプルなものでしたが、それぞれの地域の味や中国料理・フランス料理の技法が取り入れられ、フォーはどんどん進化を遂げていきました。
1920年代後半には、中国の五香粉(ウーシャンフェン)を使ったり、落花生油を使ったり、炒めたタイワンタガメ(梨のような甘い香りがする)を使ったりなど、様々な香りを試していました。 1930年頃には、牛肉と野菜の炒め物を載せた「phở xào dòn」が登場して好評となりました。
1939年には、鶏のフォーである「フォー・ガー(phở gà)」が登場します。
牛肉の需要が高まって使役用の牛が食用に回っていたことを危惧した植民地政府が、牛の販売を制限したため代替として鶏が使われたのですが、「これはこれで旨い」として広がりました。
結果、植民地政府の禁止令が「牛でなければならない」というフォーの縛りを取っぱらい、フォーの汎用性を広げる結果となったので皮肉な話です。
北難民の南部移住
Image by File:Indochina-20 july 1954-fr.svg
第一次インドシナ戦争の終戦協定である1954年のジュネーブ協定で、南北ベトナムと、カンボジア、ラオスのフランスからの独立が認められました。
富裕層や知識人を中心に、約100万人の人々が共産化した北部から逃れ「西側」である南ベトナムに逃げました。この時南に逃れた北出身者はその後、南ベトナムの政治・経済の中心を握っていきます。その結果、ベトナム戦争は「北部人vs北部人の戦争」と揶揄されることになるのですが…。
この時フォーの料理人も秘伝のレシピを抱えて南へ逃れ「本場」の味を南へ伝えました。
南部は北部に比べて経済的に豊かで食材も豊富で、人々の気質も自由で温厚、快楽主義なところがあります。そのためフォーにも、発酵した豆のペースト、唐辛子などのスパイス、タイバジルなどのハーブといった、様々な香りや味のフレーバーを足していき、南部独自の「香りと味が際立った」フォーを作っていくことになります。
北部人からすると、このような過剰な味や香りの付加は邪道で、繊細でシンプルで奥深い味を追求するのが本場ハノイ流とのこと。
フォーの世界の「北部人vs南部人」の争いは今でも続いています。
4. ベトナム戦争とフォー(1960〜1970年代)
一方、ベトナム労働党の指導の下に共産化した北部では、豊かな南部が切り離されたこともあり経済的な困窮に喘いでいました。
ベトナム労働党は来るべき南との戦争に備えて国家総動員体制に入ります。
北政府は貴重な米の利用を制限したため「本物」のフォーは姿を消し、ジャガイモの澱粉を含んだ代用品のフォーが食べられました。1964年以降にアメリカとの戦争が本格化したハノイでは、極度の物資不足で味を追求する余裕などなく、フォーは国営のレストランで「肉なし」で作ることを余儀なくされました。想像するに相当マズい代物だったと思われます。
戦時体制下のハノイのフォーは中国から提供された揚げパン(油条)と共に供されました。フォーと油条を共に出すのはこの時からハノイの定番となりました。
5. グローバルフードとしてのフォー
Photo by Codename5281
統一ベトナムで美味しくなるフォー
1975年にベトナム戦争が終了し、ベトナム労働党の支配の下、色々な事情で南に偏っていた富がベトナム全土に渡るようになりました。南よりも貧しい北部、そして「極貧」の中部山岳地帯に富を均等に配分することをベトナム共産党(1976年に労働党から改名)は目指したわけです。しばらくは経済的な混乱が続き、伝統のハノイのフォーも、かつての美味しさを取り戻すには時間がかかりました。
1986年から始まったドイモイ(刷新)政策により、ベトナムは次第に経済的に成長軌道に乗り、一部自由な経済活動が認められたことでフォーの味の発展に繋がることになります。
ハノイでは、家族経営の伝統的なフォーを出す店が本場の味を提供する一方で、若い世代はフォー・サラダや揚げフォーなど、伝統的ベトナム料理の枠にとらわれない斬新なアプローチのフォーを作り続けています。
ホーチミンと名を変えた南ベトナムの旧都サイゴンでは、観光客はかつてビル・クリントンが訪れたPho 2000や、玄米麺のフォーが食べられるモダン・フォーレストランのRu Pho Bar、野菜ジュースで色付けしたカラフルなフォーが楽しめるPho Hai Thienに行列を作っています。
世界に広がるフォー
共産ベトナムによる支配を嫌った人々は、南ベトナムからボート・ピープルとして逃げ出し、アメリカやカナダ、オーストラリア、フランスなど各国に亡命し、現地でベトナム人コミュニティを形成しました。遠く離れた外国の土地でもベトナム人は強くベトナム料理へ執着し、フォーを作って一緒に食べて文化的ルーツを確認し、コミュニティを維持します。
そのように亡命ベトナム人がベトナム人のために作っていた料理の美味しさが、アメリカ人やカナダ人、オーストラリア人、フランス人などに知られ、次第に人気になっていきます。
南ベトナムからのボート・ピープルが多かったため、南部風のフォーが広がることになりました。味の探求に熱心な南部人だからかは分かりませんが、フォーはベトナム人が住んだ先の食材や、その土地の人の好みに合わせて進化し、フォーのローカライズが進んでいます。
これは極端な例ですが、アメリカでは揚げ春巻きが乗ったり、フライドチキンが乗ったりする場合もあるようです。
Photo from "Philup On Food!"
一方、ベトナム政府は観光業に力を入れており、ベトナム料理の美味しさ、そしてフォーの美味しさが世界中の人に知られるにつれて、「本場」のフォーを食べたいという人がベトナムにやってきて、混じりっけのない本場のフォーを楽しむことも可能になりました。
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まとめ
一口にフォーと言っても、現代ベトナム史に密接に関連していてとても興味深いですね。
フォーが世界的に人気になり発展を続けるのは、ベトナムという国の底力を感じさせます。単なる牛肉麺ではなく、味・食感・香りが地域ごと、店ごと、食べる人ごとに異なり、皆それぞれ自信を持ち、しかも味の改善に余念がない。
フォー・ボーの成立以降は、フォーは牛肉麺という枠を取っぱらい、ベトナム風麺料理の代表としてグローバルフードの一員として発展を続けていくことでしょう。
参考サイト
"THE HISTORY OF PHO" VIET WORLD KITCHEN
"THE HISTORY AND EVOLUTION OF PHO: A HUNDRED YEARS' JOURNEY" LovingPho.com