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中国の伝統思想と共産党政権の関係

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社会主義を容易に受容できた中国の伝統思想

いわずもがなですが、共産主義やその手前の社会主義思想が作られたのはヨーロッパです。

マルクスはその著作の中で「高度に発達した資本主義はいつか必ず共産主義に到達する」と書きましたが、彼はそれを当時のイギリスを想定して書いていたのであって、すべての国・地域にあまねく適応できるとは限りません。

ところが実際に社会主義革命が起きた国の多くは、ロシア、東欧、中国、東南アジアなど高度な資本主義どころか工業化もサッパリなところばっかでした。

さて、中国は清王朝の崩壊から抗日戦争と内戦を経た後に社会主義国家となったわけですが、マルクスの言う「西欧流」の思想がそのまま当てはまったわけではありません。

服は西欧の借り物だったわけですが、その体は中国の伝統思想からなる文脈に根ざしていたのであって、ヨーロッパ思想を中国独自の思想に溶解させていたのでした。

 

 

1. 満を排し漢を回復すべし

日本は「万世一系の天皇家」という神話を持っており、天皇家に変わる皇帝一家を歴史上有しなかった、ということに一応なっています。

一方で中国はご存知の通り易姓革命の伝統を持っており、君主が暴政を働き民を虐げた場合「天に代わって悪を誅し、正義の統治を成す君主を新たに擁立させる」という王朝改廃の歴史を3000年以上に渡って繰り広げてきました。

詩経には「普天の下、王土に非ざる無く、率土の浜、王臣に非ざる無し」とあり、天下の土地は王の所有物であり、また民は全て王の臣民であるというのが建前でありました。

この伝統王朝の文脈は清王朝まで続くのですが、清末に欧米列強が進出し国内の政治システムが機能不全に陥り、これまでのやり方だけでは刷新もできない状態になることを悟り、様々な思想改革と文脈の作り直しの試みが見られるようになっていきます。

 

1-1. 地方分権化の流れ 

支配者の清王朝を打倒し新たな体制を作ろうとする試みは19世紀から見られ、それは伝統的な易姓革命の「反君主権の行使」の文脈が勿論根本にありますが、中央権力に対抗する地方分権の趨勢にも乗ったものでありました。

 17世紀末ごろから中国は清朝の拡大政策に伴い未曾有の好景気に沸くのですが、消費ブームで各地方に大地主や大商人が多く現れ、郷紳と呼ばれる地方のエリート層を形成していきます。 

 

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地方エリート層はこれまで中央政府が担っていた事業、例えば土木インフラ、教育、徴税、裁判、そして治安維持など末端の行政を肩代わりしていきます。

以降200年近く地方の権限は高まっていくのですが、その代表的な例が太平天国期に出現した曾国藩の私兵・湘軍や、李鴻章の私兵・淮軍です。地方行政が自立度を増していき、清末に議会開設の世論に押されて清朝は各省の諮議会を開くのですが、これは地方の官と郷紳の集合機関で、隠然と兵権を含んでいました。

 

1-2. ヨーロッパ的国家感の導入

伝統的な易姓革命の思想がある上に、中央に対抗する地方分権の流れがあった。しかしこれだけだと地方の勢力が力をつけて中央の王朝を潰してきたこれまでの伝統と変わりません。

ここに加わったのはヨーロッパから入ってきた近代的な「国家」「国民」という概念

ヨーロッパ的な国家感から中国の現状を眺めるに、中国はまともな国家とは言えない。土地も民も皇帝の私物であり、しかもその皇帝は満人で大多数の漢人がその支配に甘んじている。満人の君主から漢人の民の元に国家を取り戻し、外国の侵略から国を守らないといけない!

伝統的に中国人は国家を朝廷の私物とみなしており、国家の興亡も朝廷の私事としか認識していない。国が滅びようと全く自分ごと化しないから、異民族の支配になろうがどうでもいい。

近代的な国家の概念を持たない中国で、「国家の存亡に責任を持つ国民が主権者になり、君主・政府をその代理人とする政体」を創設しようとする主張が語られていくようになります。

しかしこのヨーロッパ的な政体は伝統的な天民思想の延長線上に語られた。すはなち

「天の民を生ずるは、君の為めにするに非ず、天の君を立つるは、以て民の為めにするなり(荀子)」

のような中国の伝統的な思想を以って裏付けがなされ、先述の地方の実力者がその実行者となって展開されていくことになりました。

 

 

2. 中国流の「近代的国民権」とは

このように、伝統的な文脈にヨーロッパの概念が組み合わせって中国の国民権というものができていったのですが、ここでいう「国民権」は我々が想像する「個人一人一人が持つ国民の権利」と少し違います。

 

結論から言うと近代中国の国民権は「国民全体の権利」であり「国民という集団としての権利」でありました。陳天華が

われらは総体の自由を求めるものであって個人を自由を求めるものではない。個体の自由をもって共和を解するのは、以って余りに非である。共和とは多数者のために図るものであるから、少数者の自由は制限されざるをえない

と言ったように、総体としての自由を獲得するには個人の自由は制限されるべきであり、逆に個人の自由は「国家に責任を持たない無責任さ」につながるため放逐されるべきものとされたのでした。

 

建国の父である孫文も三民主義の中で以下のように述べています。

中国人はどうして一握りの散沙になってしまったのか。各人に自由が多すぎるからである。中国人には自由が多すぎるから革命が必要なのだ

(自由という概念は)もはや個人の上に使ってはならない。国家の上に使うべきものである。個人が自由すぎるのはいけないが、国家は完全な自由を得なくてはならない

ここでいう「国家の自由」とは民の集合体の組織としての自由であり、国民の力で専制者を排除する必要がある。そのため国家の自由を阻害する「民の自由」は制限されねばならない。「民の自由」は伝統的な天民思想の産物であり、「国家と国民」を作るにはそれを打ち破る必要があったのでした。

 

 孫文が作った中国国民党が結局完全に全土を掌握できず各地に地方軍閥が跋扈し、また日本やイギリスなどの列強が侵略を強めていき、地方分権が極度に進行し分裂の危機にある中で、最終的に最も共和的で過激的である中国共産党の政府が出来ますが、それはこういった中国伝統文脈からの脱却と国民統合を、完全ではないにせよ実現できたのが共産党だったからと言えると思います。

  

 

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3. 伝統文脈の延長にある「プロレタリア独裁」

中華人民共和国憲法の第14条に

「国家はなにびとに対しても、私有財産を利用して公共の利益を破壊することを禁止する」

とあります。

マルクス思想では「私有財産を多く持ち多数の貧者を苦しめるブルジョワ」と「貧しく富裕層から搾取されるプロレタリア」という、ブルジョワとプロレタリアの対立の構造が発明されたのですが、中国ではこのような富者と貧者の対立構造は古代以来持ち続けてきた伝統的な通念でありました。

万民は天の生ずるところである。天はその生ずるところを愛し、…一物としてその所を得ないものがあれば、天の自然現象もこれがために舛錯(せんさく)する(資治通鑑)

 天は一人を私富させず…一人を私貴させない(切問斎文鈔)

民は皆天の下に平等であり、生存する権利があると古代の書物からあり、康有為も著作の中で

天が人を生ずるのは本来平等であるから、孔子は均しからざるを患え、「大学」は平天下を言った。…平の政とは人人平等の政のことで、井田制がその一端である。孔子や孟子は天下の人が一夫だに所を失することがないようにと欲したのだ

と記したように、古代王朝の周で施行されたとされる「井田制」のような平等思想からなる経済上の施策は歴代の王朝は検討をしてきたし、それは最終的な目的が王朝の延命のためではありましたが、「民を安んずる」ための方策の一つでありました。

 

民に平等に田を分配する均田は理想的な政策であるとされ、実際に北魏から唐までの時代で導入されていましたが、清朝時代は先述したように17世紀末から経済発展を遂げ、大地主による土地経営は安定を見せ農業生産高は上昇していきました。

そういった背景の中では、均田論は批判され、政府の中でも「富者より田を取り上げて貧者に分配すれば国家財政は危機に瀕する」など反対論が多くありました。

しかし中国同盟会は「革命後の社会の改良進歩によって上昇した地価分は国家に帰属させ、国民が共同で享受する」とあるように、反地主・反私有の国有化、言わば共産化を掲げ、少数の専有を否定し階級としての豪農(=地主)を排除するという階級闘争的な性格を帯びるようになった。

つまり、持つ者と持たざる者の対立というマルキズムが描く構図は、中国では古代からずっと存在した伝統的対立構造であり、そこに西洋からの借り物である国家いう概念を取り入れるのには何ら違和感がなかったのです。

 

 

 

まとめ

日本と中国は同じように西洋の近代的な制度や思想を取り入れて国政の近代化を図り、方や立憲君主制となり、方や内戦を経て共産党による一党独裁体制になりました。

そうなるに至る背景として、日本は有史以来一つの権威がありそれを奉ることで権力を統合できた。それに加え従順で大人しい国民、裏を返せば盲目で扇動されやすい国民がいた。なので、文脈が無茶苦茶でも天皇の名で号令をかければ国民を糾合しやすかった。

一方で中国は権力は奉るものではなく、壊して作るものであるという認識があった。それに能力は高いが自由で御しがたい国民を近代的枠組みの中でコントールせなばならなかった。そのためには、長い歴史の中で育まれた伝統的な「道徳」の体に、近代的な服を着せて国家としての形を作ろうとした。

そんな背景を見てみると、「一つの中国」を「近代的国家」の中に収めようとするには、共産党のような強権的で上から無理やり押さえつけるような政権でないと、すぐに空中分解するであろうことは容易に想像がつきます。 

現在の中国は南シナ海でまるで無法者のように振舞っていますが、きっとこれも国家統合のための手段の一つのアウトプットでしかなく、アメリカや日本などのプレッシャーに負けて押し込まれると、そのパワーが国内に行って分離や内部闘争の力に働く。

だからといって中国の論理を国際社会に押し通すわけにはいかない。そのために中国は今、AIIBなど中国の論理が通用しやすい国際秩序を作って国内のパワーを海外に逃がしてやろうとしているわけですが、果たしてはちきれんばかりの国内のパワーを御することができるのか…。

 

参考文献

シリーズ世界史への問い10 国家と革命 岩波書店

第7章 中国の民権思想 溝口雄三