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『琉球王国は誰がつくったのか』沖縄は海賊の島だった?

琉球王国形成の典型イメージを変える一冊

琉球王国は誰がつくったのか 倭寇と交易の時代』(七月社 吉成直樹 著)を読みました。

文字通り沖縄の琉球王国の成立に関する著作です。

従来は、琉球王国は沖縄本土の農業社会の発展によって力をつけた支配者が、山北、中山、山南の三王国を形成し、最終的に中山の尚氏が統一を果たすと考えられてきました。

しかし本書によると、琉球王国は倭寇の大きな影響力のもとで成立した国であり、王族の尚氏も日本からの移住者、具体的には肥後の佐敷、現在の熊本県芦北町からの移住者ではないかという説が述べられています。

さらに、王国の成立には中国の政治環境が大きく関わっていたことも詳しく述べられており、琉球王国や沖縄の歴史を知る上で新たな発見がある本ではないかと思います。

 

1. 琉球列島は倭寇の影響下にあった

琉球王国の王族は熊本からの移住者説

14世紀初頭から沖縄本島には山北、中山、山南の三王国があり、三王国の鼎立は約100年近く続きました。

そこに登場した中山の尚巴志(しょうはし)が、1429年に沖縄本島を統一し、琉球王国を開きます。琉球王国は港湾施設や王宮などを整備し明との朝貢貿易をはじめ諸外国との貿易体制を確立し、交易で大いに栄えました。

ただ、琉球王国が成立する過程において、沖縄本島の諸勢力と諸外国・諸地域との関係が重要な役割を果たしていて、どのような関係の中で琉球王国が成立するに至ったかは様々な議論や説が存在します。
琉球王国の歴史をどうみなすのか歴史学会では様々な議論があり、この本も著者の主張する歴史認識を語っているので、人によっては異論反論あるかもしれません。
この本で述べられている重要な主張としてはまず、琉球王国は倭寇の大きな影響力のもとで成立した国であり、王族の尚氏も日本からの移住者、具体的には肥後の佐敷、現在の熊本県芦北町からの移住者ではないかという説を述べています。

 

従来説は沖縄の独自性を主張する傾向にある

まず問題提起として、著者は沖縄史研究や沖縄の人々が持つ特殊な状況を挙げます。

沖縄本土を中心に交易で栄えた琉球王国は、1609年に薩摩藩の侵攻を受けて薩摩藩の直轄領となり、その後日本本土に編入されました。太平洋戦争において沖縄は日本本土防衛のための要塞となり、壮絶な陸上戦が行われて島民94,000人を含む18万人以上が死亡しました。

また戦後はアメリカの占領下におかれ、日本復帰以降も日本にある米軍基地の70.6%が沖縄に集中しているという状態が続いています。

沖縄の人は、日本本土から過酷な仕打ちを受けてきたという感覚が強く、歴史においても琉球王国の形成における「外からの影響」を無視しがちであると著者は指摘します。

沖縄の独自性を強調する人は、農耕社会が発展して農業を経済基盤とした権力が生じて統一国家の基盤が作られ、琉球王国が作られたと解釈しますが、この本によると沖縄には荘園も領主も武士も現れず、農業の発展を基礎において論じることができない。もっぱら外部からの刺激、具体的には中国によって国家として成立した、というわけです。

 

2. グスク時代=農業社会の始まりではない

沖縄の歴史は大きく、11世紀に始まるグスク時代とグスク時代以前とに分けられます。グスクとは城のことで、グスク時代は有力者でありグスクの主である按司(あじ)が登場し、グスクを拠点にして人々を糾合し経済活動を含む様々な活動を執り行うようになった時代です。

それ以前は貝塚時代で、狩猟採集の段階にあったとされます。

従来では、農耕の始まりが農業社会の始まりで、グスク時代の始まりであるという解釈が主流でしたが、本書では農耕の始まりはイコール農業社会の始まりではないし、イコールグスク時代の始まりにならないと主張されます。

グスク時代の特徴は、もちろん石垣をそなえたグスクが形成されるようになるというのがありますが、人々の居住地が海岸線に沿った低地から丘陵地や斜面に移動したこと、琉球諸島全体が同一の土器文化を持つようになったこと、一つの交易圏が作られたこと、鉄器の使用が始まること、そして穀物栽培が始まること、があるとします。

 

3. 喜界島の奄美商人

グスク時代の始まりのきっかけになったのも、内的な要因ではなく、現在の鹿児島県の喜界島の影響が非常に大きいと筆者は主張します。

奄美諸島にある喜界島は硫黄島と並んで、古くから日本朝廷の支配の南限とされており、平安時代には大宰府政庁と強く連携し、南方の物品交易を行う拠点となっていました。

ところが日本朝廷の地方支配が揺らいでくると、喜界島は独自の交易活動を行うようになります。この交易というのは武力も含んだもので、当時の奄美商人は後の倭寇にも通ずる武装商人のようなものだったようです。

そしてこれも後の倭寇に通じますが、奄美海賊には多民族的な特徴がありました。具体的には朝鮮半島の高麗と連携し、朝鮮人の武装商人が多数いたようなのです。

997年には奄美島人300〜400人が大宰府を襲撃するという事件も起きており、高麗政府と奄美海賊との連携が当時の資料からも報告されています。なので当時、喜界島は半ば独立した勢力として振る舞いつつ、高麗と強く連携し、日宋貿易の末端としても機能するという境界の民というか、まつろわぬ民といったものだったようです。

ところが源頼朝が1188年に喜界島に遠征したことで、喜界島はそれまでの独自の交易ネットワークを失い、日本に組み込まれていきます

そしてそれと同時に、琉球では本格的にグスク時代がスタートしていくというのです。著者は本書で、喜界島の交易集団が琉球に移住したためではないかとしています。

琉球の伝説上の最初の王である禹天王が即位したのは1187年のこととされていて、これは頼朝の遠征の一年前のことです。そして喜界島の土器文化や鉄器製造技術が琉球にもたらされ、奄美商人の交易ネットワークが琉球にもたらされ、琉球諸島で大型のグスクが作られるようになったというわけです。

で、大型のグスクが作られるようになったのは13世紀から14世紀初頭で、時代は元王朝の時代、そしてグスクの城壁や建物がさらに大型化するのは明王朝が始まってからのことで、グスク時代は中国と密接に関連しています。

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4. 秩序が乱れる東シナ海・南シナ海

13世紀に琉球では福建産の粗製(そせい)白磁が大量に流入するようになりその交易による収入がグスクの大型化をもたらしました。

元王朝はユーラシア大陸全体をまたぐ巨大な交易圏を作り上げようとした王朝です。ムスリム海洋商人が主導する貿易船団はジャワやパタニ、アチェといった東南アジアとの交易ネットワークを広げました。

そして1世紀ほど遅れる形で、琉球にもその交易ネットワークが広がり、陶磁器交易によって琉球にも大きな富がもたらされるようになります。しかし、元末に政治混乱や農民反乱によって王朝は弱り、朱元璋が率いる反乱軍が明王朝を経て、元がモンゴル高原に撤退すると、アジアの交易システムも転換していきます。

元末の混乱によって社会は大きく乱れ、倭寇が活発化して福建や寧波といった貿易港を荒らすことが問題になっていました

当時の倭寇は肥後の菊池氏や肥前の松浦党など九州を拠点にした武装集団が主体で、彼らは琉球を中継拠点にしていました。

また明朝にとって大きな悩みの種だったのは、朱元璋が中国統一を果たす上でのライバルだった方国珍や張士誠の勢力が倭寇と結んであなどれない勢力を持っていた点です。

当時の東シナ海には明朝に反発する勢力がウヨウヨしていて、例えば済州島にはモンゴル遺民が当時住んでいました。高麗が1305年以降元に服属した後、済州島にはモンゴル人が住み馬の牧畜を行っていました。元がモンゴル高原に逃げた後、済州島のモンゴル遺民は倭寇と連携し、朝鮮王朝を建てた李成桂の軍に抵抗をしました。

こういう状態だったので、朱元璋は東アジアの周辺国を正式に冊封し、官製交易の体制を作り上げて、倭寇のような非合法の武装商人を排除して、中国皇帝の権威を中心とした経済と安全保障の秩序を作り上げようとしたわけです。

 

5. 明朝と琉球の「バーター取引」

そのような方針の一環で、1396年、朱元璋は、後醍醐天皇の皇子で九州の南朝方の勢力を持っていた兼良親王に国書を送りました。当時明朝は、どうも九州の兼良親王が日本のトップだと思っていたらしく、「日本国王・良兼親王」に対して、倭寇を取り締まれ、さもなくば明軍を送り込むといったものでした。兼良親王は倭寇数十人を捕虜にして明に送り、明に冊封したのですが、本格的に倭寇の本拠地である肥後や肥前を制圧することはしませんでした。
そこで朱元璋は、目を琉球に向けました。当時琉球には山北、中山、山南の三王国があり、この山王に対して冊封を求めたわけです。

冊封して明皇帝に忠誠を誓えば、ものすごく有利な条件で交易することを許しました。なぜ琉球かというと、倭寇の活動拠点の一つが琉球だったからです。特に山北は倭寇活動自体を行なっていたと考えられています。

ある種琉球は、明に倭寇の一味を抱え込むように押し付けられ、その代わりに旨みのある商売をさせてやるということで、バーター取引が成立したというわけです。こうして三王国は中国の冊封体制に入り、九州〜琉球〜中国〜東南アジアの間の交易で莫大な富を得て経済的に繁栄をすることになるわけです。

 

ちなみに山北についてこの本ではとても面白いことが書かれています。

山北はしばらく明からの冊封要請に応じずに朝貢をしなかったのですが、その理由は済州島のモンゴル遺民に加えて、明の成立後に亡命してきたアラン人が居住していて、アンチ明の国だったという説が挙げられています。

アラン人というのは、現在のロシアの北オセチア共和国とジョージアの南オセチア地方に住むイラン系遊牧民のオセット人のことで、彼らは元の時代に皇帝の親衛隊として仕えていました。実際に山北の拠点だった今帰仁(なきじん)のグスクからは古代イランの流れを汲んだ意匠の遺物が多数発掘されています。なので山北は親元・反明の人々を惹きつけた牙城のようなところだったのが、中山王の父・尚思紹と息子・尚巴志に征服されたことで明の冊封に入ったのではないかと考えられるということです。

 

6. 尚親子の王統乗っ取り

明に冊封した中山王の察度(さっと)という人物は、朝鮮半島に強い関係を持つ人物でした。

李成桂が朝鮮王朝を建てた際には倭寇に拉致された朝鮮人を送還するなどしていて、政治的に関係が近かったと考えられ、もしかしたら察度自身が朝鮮出身者だった可能性も示唆されています。

そして察度の王統だった中山の王国は、父・尚思紹と息子・尚巴志によって乗っ取られてしまい、山北、山南の王国が統一され琉球王国が成立することになります。

で、この親子はどこからやってきたかということなんですが、本書によると彼らは日本、具体的には肥後から渡ってきた人物だと説明されます。

尚巴志は大型グスクに頼ることなく、明に朝貢することもなく、登場してからたった14年で三山を統一してしまうのですが、その資金源はどこにあったのかというところは謎に包まれています。

筆者によればおそらく、それは倭寇的活動から得たものであったのだろうと。で、なんで肥後出身者だったとされるのかというと、肥後と琉球の地名の類似、具体的には肥後の「佐敷」と国頭の「謝敷(じゃしき)」、や、民俗学的な伝承からそうではないかと推測されています。ここのところは細かく説明すると大変なので、興味ある方は読んでみてください。

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まとめ

琉球王国は倭寇の国だった、と言うとかなり語弊がありますが、倭寇的性格を持った人が建国に携わり、建国の前から倭寇の活動の拠点があって、かつ明王朝の倭寇対策の方針の中に組み込まれて、有利な貿易条件が与えられたという諸々の諸条件が重なった上に琉球王国という国家は成立したのだとよく分かります。

現在はだいぶ状況が違うと思いますが、かつては沖縄は土地の狭さや土壌の問題で、農業の発展は不向きで、漁労や交易で食って行かざるを得ない場所で、また地理的な関係から、中国、日本、朝鮮、またジャワや台湾、ミンダナオ、ルソンなど南方からの人の往来も盛んだっただろうことは容易に想像がつきます。

現代の沖縄は、拡大する中国の覇権の最前線にあって、これはもう土地が持っている宿命というか、あまり地政学という言葉は使いたくないのですが、歴史的に国家の力というのが拡大したときにぶつかってくる場所だと、そういうことを実感します。