第5回: 朴泳孝(1861 - 1939)
李氏朝鮮末期〜大韓帝国の政治家で、親日の急進的開化派として知られる。
青年期より開化運動に参加
官職を何度も排出した名門の家に生まれたが、すでに草履売りをしなければ食っていけないほど、家は落ちぶれていた。
幼い頃より聡明だった朴少年は開国論と西欧化を唱える政治家・朴珪寿の門下生となり、後に盟友となる金玉均や尹致昊、徐載弼と共に開化思想を学ぶ。
官僚となった後は、日本との条約交渉に当たるために来日。
日本に向かう船の中で陰陽八卦を見て、いまの大韓民国の「太極旗」のモデルとなった旗のデザインを書き起こした。
日本では福沢諭吉の支援を受け、近代化のための人材の育成をサポートしたり、新聞を発行したりなど、日本の力を借りて近代化をするために奔走する。
帰国後、政府内で開化策を進めたが、旧来の冊封体制の維持を目指す事大党の抵抗にあい、彼の改革案はことごとく失敗に終わる。
甲申政変を起こすが失敗
1884年、日本軍の支援のもと甲申政変を起こし政権を掌握したが、清軍の介入で政権は3日で崩壊。日本に亡命する。
日清戦争後は大院君が実権を握っていたが、親露派の閔妃がロシア軍の力を借り実権を奪っていた。
1895年、三浦梧楼らによって閔妃が殺害された乙未事変が発生。朴もこれに加担したと見なされ、朝鮮側のスパイに追われ日本国内を転々とする。
李完用内閣で大臣になるも追放
第二次日韓条約で大韓帝国の権限が大幅に日本に委譲された後、李完用内閣の宮内府大臣に就任する。
第二次日韓条約では、反日的な態度の高宗が退位させられ、傀儡的な順宗に譲位がなされたことにより、反感が高まり各地で民衆のデモが頻発していた。
朴は「朝鮮は民度が低く、改革を通じた新しい社会の建設は難しく、警察と軍による民衆の制御が必要」と主張していた。
しかし各地で暴動は収まらなかったため、総理大臣の李完用から
「高宗の順宗へ王を譲位したことに民衆が反対しているのは、朴泳孝がその責務を全うしていないからだ」と糾弾され、済州島に島流しになってしまう。
李完用は守旧派出身の政治家であり、開化派出身の朴とは政敵であった。
日韓併合後は貴族になり要職を歴任
1910年の日韓併合後は貴族となり、朝鮮の政治・産業の発展に尽力する。
隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵(朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会会長(1911年)、朝鮮銀行理事(1918年)、朝鮮経済会会長(1919年)、朝鮮維民会会長(1919年)、東亜日報社初代社長(1920年)、朝鮮人産業大会会長(1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長、朝鮮殖産銀行理事、朝鮮総督府中枢院顧問(1921年)、東光会朝鮮支部初代会長(1922年)、貴族院議員(1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職を歴任
なぜ売国奴と呼ばれるのか
現在の韓国では、朴の近代化運動の功績をある程度認めつつも「協力を求めた相手が日本だったことがそもそも過ち」であるとして、2008年の「親日人名事典」に名前が掲載、弾劾されている。
- 朝鮮に日本を手引きして、日韓併合の種を蒔いた
- 積極的に日本の朝鮮統治に協力して財を成した