良妻賢母を育成するための「女子大学」
このブログでは、李氏朝鮮王朝について何回か単独で取り上げています。
歴史の概要、地方対立、税制改革の取り組みと続き第4弾という位置づけになるでしょうか。今回は「教育」についてです。
ご存じのとおり、李氏朝鮮では儒教が国家的に庇護され、国家の枠組みも儒教の思想が元に成り立っていたため、官僚になるには儒教をトコトン勉強せねばなりませんでした。
当然、国家の最末端組織と言える家庭も儒教の体系に組み込まれて「文化的な人間が築くべき家庭像」が提示され、家庭を守る女が主導的に儒教的な家庭を築くべきであり、それにより儒教思想を持った有能な人材が多く養成され、引いては国家の安泰につながるとされました。
家庭教育において女性が期待された役割は大きく、「良妻賢母」となるべく厳しい教育を施されたのでした。
今回は国家的儒教体制の末端を担った女性が果たした役割と、その教育についてまとめていきます。
記事三行要約
- 両班は儒教の知識を持たないと没落する恐れがあったため、男子の儒教教育は大事だった
- 女子は「立派な儒教男子」を生み育てることが何よりも家のためとされ、家で厳しく教育を受けた
- 儒教教育は両班だけでなく広く一般層にも浸透し、末期には「国民総保守化」が起きた
1. 朝鮮の支配階級「両班」
李氏朝鮮時代には、国王を支える官僚を排出する支配階級として、文班と武班から成る両班(ヤンバン)という上流の階層が存在しました。
両班であることはその血統によって保証され、自分の一族が由緒正しい身分の出であることを証明する家系図が大変重んじられました。
「高貴」な血を持った両班の家は、地主として広い土地を有し、奴婢を支配する権利を得たし、税や賦役の免除など様々な特権を持っていました。
また彼らを両班たらしめたのは支配者の学問である「儒教の知識・教養」で、一族の中に科挙に合格した者がいたり、自分の詩文集を公刊した者がいたり、そこまで至らなくても朱子学の議論ができるだけの知識があると面目を保つことができて、両班として世間から認められたわけです。
没落しないために重要な儒教教育
両班という階級は法的に定められたものではないため、何代も科挙合格者が出なかったり、儒教の知識がないと世間的に認知されてしまったら没落する危険性がありました。
そのため、儒教教育というのはものすごく大事だったのです。
両班の男の子は通常7~8歳ごろから家庭か書堂で漢学や儒学の教育を徹底的に叩き込まれ、7~8年後に郷校・書院などでさらに数年勉強し、科挙の一次試験である小科を受験します。それにパスすれば成均館という官僚予備校に入学でき、そこで優秀な成績を上げれば官僚としてエリートコースを歩むことになります。
地方の郷校・書院は地域社会や在地の両班同士を結束させる役割を果たし、一種の結社のような形で地域で絶大な力を保有しました。そのような地域の両班の結社化が中央政界で不毛な派閥抗争・地域抗争をもたらすのですが、それはまた別の話。
将来出世して家柄を守るために教育は大事で、特に幼少期の教育が大事とされました。
宋時烈という学者が書いた教訓書には、
幼い時には放っておき、後になって教育しようとしても、決してうまくはいかない。早めのしつけと教育こそ、家のため子ども自身のためとなり、不名誉なことを起こさないですむのである。こういうことは母親次第だから、父親に頼んで叱ってもらうなどということはしてはいけない。
とあり、家庭内でのしつけや教育の面での母親の責任と役割がいかに大きかったかが分かります。
朝鮮時代を代表する大学者の李珥(イ・イ)は貧しい両班の家庭の生まれですが、彼が大人物に成長したその背景には母親の申師任堂(シンサイムダン)の存在が非常に大きかったことがクローズアップされ、彼女のような良妻賢母になることが朝鮮の女の理想と喧伝されたのです。
※このあたりの話は、前記事「お札に載ってるこの人だれ? - 韓国・ウォン篇」に書いています。
2. 女子が守るべき倫理観
高麗時代までの朝鮮では結構男女間の規律がゆるく、江戸時代の日本のように混浴が当たり前だったり、身内婚や多重婚が普通にあったようです。
上は政府から下は家庭まで儒教に基づいて社会を規律化するため、朝鮮政府は男女の倫理観について国家政策として定着が図られました。
2-1. 一夫一妻制
儒教的に倫理観に基づき、夫一人につき妻は一人にしなければならないとされました。
規律という点もそうですが、王が正妻をたくさん抱えて王族が大量に出現し後継者争いなどで混乱しないようにするというのと、官職が王族だけで占められないようにするという両班たちの思惑もあったようです。
2-2. 再婚禁止
儒教の重要な倫理観である「貞女は二夫をあらためず」は広く認知され、夫の死後に節を守って再婚しない女性は高く評価されました。
夫が死ぬと妻は3年間の喪に服すのですが、墓の横に掘っ立て小屋を作ってそこに住み、1日も欠かさずに亡き夫を守るのが義務とされたし、「悲しみのあまり」夫を追って自殺する場合もありました。
そのような女性が烈女として尊敬され、そのような女性を出した家は高い徳を持つとして社会的に評価されました。家に「箔」がついたわけです。
そのために強制的に自殺に追い込まれたり、賊にさらわれたため節を亡くしたとみなされて家の者から冷たくあしらわれたり、様々な悲劇が生じることにもなりました。
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3. 家庭内女子教育の実態
では、申師任堂(シンサイムダン)のような良妻賢母になるための女子教育とはどのようなものだったか。
当然 女子のための公的な学校があるわけではなかったので、「夫を献身的に支え、子のために身を削り、全てを家のために尽くす」女子を家庭で教育し育てていく必要がありました。
「できた女性」の人格を形成するためには具体的に、婚家での親兄弟との人間関係の維持の方法、接客方法、子女の育成方法、祭祀の方法、衣食管理の方法、家庭経済に関する方法など。
これらを娘は母親や祖母から手とり足とり、実際の生活の中で素養を磨いていきます。
女子の教育のための徳目
女子教育は基本的には親の代から代々受け継がれるものでしたが、女性が持つべき儒教倫理をまとめた本も刊行され、特に上流階級では読まれたと思われます。
例えば、昭恵王の后・韓氏は、宮中や両班の女性が読むべき教訓書がないとして「内訓書」をまとめました。
これは中国の儒教書「小学」「烈女伝」「女誡」などから適切なものをピックアップしてハングル化したもので、言行・孝親・昏礼・夫婦・母儀・敦睦・廉倹の7章からなりました。
その他にも、宋時烈が自分の娘にハングルで書いて渡した「尤庵先生戒女書」は、簡潔で分かりやすくまとまっており、女子への教訓書として優れたものとされています。
具体的には以下の通り。
- 父母につかえること
- 夫につかえること
- 舅姑につかえること
- 兄弟と仲良くすること
- 親戚と仲良くすること
- 子どもをしつけること
- 祭祀を行うこと
- 客を接待すること
- 嫉妬をしないこと
- 言葉に気を付けること
- 金品を節約すること
- 家事をまめに行うこと
- 病人を看護すること
- 衣食を整えること
- 奴婢を使うこと
- 金の貸し借りをすること
- 物の売買をすること
- 祈祷をすること
このような項目をしっかりと守ることが妻であり母としての役割とされました。
またこれらはあくまで家を守るための手法にすぎないわけで、世継ぎたる「男の子」を出産しないと、いかに出来た妻でも無能扱いされました。
男の子を生まない妻は離婚され、嫁ぎ先はもちろん実家からも疎外され、死後も魂を鎮めるための祭祀すら行ってもらえないほどでした。
ただ、上記のような項目をしっかり守り、男の子をちゃんと生むことができれば、妻は家庭内のことに関しては絶対的な権力をふるい、外で偉そうにしている夫が一切口を出せないほど家内を取り仕切りました。
実際に、両班の男は儒教の小難しいリクツはたくさん知っているくせに、家庭内のことに関してはからきしダメで、生活者としては無能に近かったと思われます。
女は世継ぎの男子を生み育て、他家から嫁が嫁いでくると、今度は逆に敬われる立場になるので、そうなればもう我が世の春だったでしょう。
まとめ
ぼくは韓流ドラマは一切見たことがないのでよく分からないのですが、多分今日書いたようなこと映像でが生々しく描かれていると思われます。
家庭も国家に所属する最小単位の組織であって、つま先からテッペンまで儒教で固めて異論は許さない、李氏朝鮮時代の社会の凄まじさが分かります。
このような儒教による教化政策はもともとは両班だけのものでしたが、朝鮮後期になると広く末端の庶民にまで浸透し、支配階級たる両班の生活を真似して進んで儒教教育を施すようになります。
その結果、庶民の中から勝手に両班を名乗るものが大量に出現。特に経済力を持った者は両班が持つ特権をカネで買い取るなどし、行動も生活も両班になることを目指しました。
朝鮮末期には、国民の大半が自分を両班だと自称する異常な事態になり、財政の不健全化が進むのはもちろん、国民総保守化が起きて新しい時代への対応が遅れる結果となったのでした。
健全化を目指して異論を許さない組織を作ると、柔軟性を欠いて却って不健全化に向かうという反面教師の良い事例と言えないでしょうか。
参考文献:シリーズ世界史への問い5 規範と統合
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