根が深い韓国の地方対立
韓国という国・集団に対面するとき、表現が難しいですが、「捉えがたく揺れ動く固まり」に向き合っているような気になります。
個人レベルではいい連中が多いのですが、集団になると互いの利害や感情が揺れ動き、微笑みかけてくるのやら刺してくるのやら、どのような「固まり」になっているのか想像もつかない。
政治ポスト・有力者とのアライアンス・資金力・外部の事件・内部の不祥事…そういった諸々の要素が変化しているために、集団の色や形が常に変わっていく。
そしてその内部の構成要素として重要なものの1つに「出身地方」があります。
有力者の出身地方によって、集団内部の構成因子ががらりと変わってしまう場合が往々にしてあります。しかもそれが、伝統的な地方対立に依っている場合があるから始末に負えません。
1. 大統領選を左右する地方票
全羅道と慶尚道の対立
最も先鋭化しているのが、韓国南東部の全羅道(チョラルド) と慶尚道(キョンサンド)の対立です。
毎回の選挙では左派候補が強い全羅道と、右派候補が強い慶尚道で常に得票率に露骨な差が出ます。
例えば、2012年の第18代大統領選の得票率は以下の通り。
全羅道 慶尚道
朴槿恵(右派・セヌリ党) 10.3% 68.7%
文在寅(左派・進歩統合党)89.1% 30.8%
日本でも、和歌山で自民党が強かったり、大分・沖縄で社民・共産が強かったりとかはありますが、ここまで広範囲の地域で露骨に得票数に差が出るのはないことです。
こういう地域の偏りがあるため、政治家たちは地域感情を利用した選挙キャンペーンを展開し、地方の力の差がそのまま議席に反映されるようなことになります。
このような政治における地域の対立が先鋭化したのは、後述する「光州事件」以降だとされますが、その根ははるかに深く長いものがあります。
2. 三国時代の地図と現在の行政地図
全羅道=百済 慶尚道=新羅
上記の図(小さくてスイマセン)の左は現在の韓国の行政地図。右は1〜7世紀のいわゆる「三国時代」の地図です。
ざっくり言うと、現在の全羅道は百済にあたり、慶尚道は新羅と伽耶にあたります。
ちなみにソウルを含む京畿道(キョンギド)や江原道(カンウォンド)は高句麗にあたります。
新羅=辰韓
新羅の建国神話によると、三韓時代の辰韓の斯盧(シロ)族を中心とした12部族を統合して形成されました。この部族は北方ツーングース系の古朝鮮とは異なった文化を持った、南方の農耕文化を持った人たちでした。
百済=馬韓
一方、百済はもともと新羅と同じ南方農耕民族の国でしたが、北方の衛満朝鮮に敗れた古朝鮮の準王が家来を引き連れて馬韓を乗っ取ってしまいました。
後に準王の子孫は滅びますが、そのような経緯もあり百済は北方ツングースの文化を受容する国となりました。
伽耶=弁韓
伽耶は南方農耕民族の韓族を中心に、倭族(日本)や北方ツングースの部族が混在する、かなり開かれた場所であったらしいです。
高句麗
高句麗の始祖・朱蒙は北方ツングース系の濊貊(ワイハク)族。
騎馬民族スキタイの文化を受け継いだ、南方の韓族とは全く異なる人々です。
この人たちは古朝鮮・衛満朝鮮といった古代の朝鮮の王国を建て、現在の中国東北部から半島中部にかけて居住していました。
3. 後三国時代・後百済の抵抗
後三国時代
668年、三国時代は新羅が半島を統一することで幕を閉じます。
統一新羅時代は約250年間続きますが、末期には地方の豪族たちが中央政府に対して反旗を翻します。
それが、旧百済人が作った「後百済」と、旧高句麗人が作った「後高句麗」です。
結局、新羅は「後高句麗」の武将だった王健によって滅ぼされ、高麗が建国されます。
後百済の抵抗
935年に新羅は高麗の王健に帰順しますが、後百済は最期まで王健に抵抗。
結局936年に完山州(現・全羅北道全州)の後百済の拠点を武力で滅ぼし、ようやく統一を果たします。
王健が発令した全羅道差別
王健は王位を継承する子孫たちが肝に命じるべきこととして「訓要十条」という教えをまとめていますが、その第八条にこうあります。
車嶺(チョリョン)山脈の南、錦江(クムガン)の外は山形と地勢が背逆に走っているから、人心もまたそうだろう
その下の州群の人たちが朝廷に参与して王侯やその姻族たちと婚姻して国政をとれば、あるいは国家に反乱を起こし、あるいは統合の恨みをいだいて乱を起こすであろう。たとえ良民といえども、官職をあたえて使うことなかれ
よっぽど後百済への恨みが強かったらしく、全羅道出身者とは結婚するな、官職も与えるな、という徹底した敵視政策です。
それが守られたかまでは分かりませんが、歴史的に全羅道からは有力者が出ず、つまり教育も行き届かず、経済政策の恩恵も受けられず、ただ中央に搾取される時代が長く続いたであろうことは想像に堅くありません。
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5. 李氏朝鮮時代・官僚の地方対立
士林派内の派閥争い
1392年に成立した李氏朝鮮は長命な王朝で、日本に併合される直前の1910年まで続きます。
現在の朝鮮半島の文化の大部分が作られた時代ですが、度重なる失政、外国の侵入、そして内部の派閥争いのために社会発展が著しく阻害されてしまいます。
(過去記事「なぜ李氏朝鮮は社会発展が停滞したか」も併せてご覧ください)
宮廷ではエリート階級である両班(ヤンバン)が官僚グループを形成、執政を担いました。
1568年、朱子学をもって至高とする官僚一派・士林派(サムリパ)が、敵対する勲旧派(フングパ)を駆逐し、宮廷内における地位を独占しました。ところが士林派は具体的な議論や政策を行うでなく、「西人派」と「東人派」に別れてひたすら不毛な内部抗争を繰り広げました。
実はこの派閥は学閥とともに地域対立も含んでおり、
西人派は主に京畿道、忠清道の出身。
東人は慶尚道の出身。
で構成されていました。これら西人派と東人派はどんどん分裂していき、
西人派 → 少論派(忠清道出身)
老論派(京畿道出身)
東人派 → 北人派(慶尚道北部出身)
南人派(慶尚道南部出身)
…書いていてウンザリしますが、出身別に派閥を形成して政治的イニシアチブをとろうとする泥仕合が、それこそ500年以上も続いたのでした。
ちなみに、全羅道出身者はそもそもこの泥仕合に参加すらできていません。
6. 光州事件 - 地方対立の先鋭化
引用:shzq.net
朴正煕に冷遇された全羅道
時は下って1963年。
朴正煕(パクチョンヒ)の軍事クーデーターによって第二共和国が打倒され、新憲法の元で大統領選挙が実施されました。
候補者は民主共和党の朴正煕と、民政党の尹潽善。
多い得票を得た地域を色づけしたのが下記。青が朴正煕で、黄色が尹潽善。
朴正煕は慶尚道の出身ですが、この時全羅道は朴正煕への票が多い結果となっています。ところが朴正煕は、任期中に出身地である慶尚道を、インフラ面、人材面、開発面で優先し、全羅道は冷遇されました。
ここに朴正煕の意図的なものがあったのかどうか分かりません。単に最も効率のいい方法をとったらそうなっただけのことかもしれません。
その恨みややっかみが高まり、全羅道と慶尚道の対立がにわかにクローズアップされることになったのです。
光州事件勃発
1979年にストロングマン・朴正煕が暗殺され、国内は雪解けムードに満ちていました。全羅道では地元の星・金大中が大統領になるのでは?という期待感が高まっていました。
ところが、陸軍少将の全斗煥(慶尚道出身)がクーデーターを敢行し全土に戒厳令を敷くと、野党指導者の金泳山と金大中を逮捕。
全羅道・光州市ではこれに反発した市民と学生が暴動を起こし、バスやタクシーを倒してバリケードを作り、銃・火炎瓶・鉄パイプ・角材で武装し市内に立てこもった。
軍はこれに対し光州市を封鎖し、徹底抗戦する市民を容赦なく射殺して鎮圧しました。
これは韓国の戦後の黒歴史とでも言える事件で、以降の韓国の地域対立を決定的なものにしてしまいました。
まとめ
全羅道に対する差別と、地域の対立は相当根深いものがありそうです。
朝鮮半島では、「出自」は我々日本人が想像する以上に重要なもので、政治以外にも就職や結婚など、人生のあらゆる局面についてまわります。
高麗時代に始まる地域の阻害は、あらゆる面でそこに住む人に不利をもたらしたでしょうし、中央に対する反感をつのらせることは当然のことのように思えます。
しかし韓国の若者が集うネット掲示板では、全羅道は「パスポートなしで行ける海外」などと言われ差別の対象になっています。
また、2015年3月6日に駐韓米大使が襲撃された事件の犯人が全羅道出身者だったこともあったり、
差別と軽蔑がいつになったらなくなるのやら、見通しすら立ちません。
参考文献:「歴史物語 朝鮮半島」朝日新聞出版 姜在彦