歴ログ -世界史専門ブログ-

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不幸な死に方をした独裁者の妻・愛人

権力の渦中で死んだ独裁者の女たち

権力に憧れるのは男だけではありません。

豪華な宮殿や調度品に囲まれ、最高級の料理や衣服を楽しむ生活。下々の者をコマのように使える快感。常に讃えられ崇められる自己肯定感。独裁者のファーストレディであることは、何ものにも代えがたい魅力があったに違いありません。

しかし多くの国民の自由を犠牲にして得た幸せは人々の恨みも買います。幸せから一転、不幸な最期を迎えた独裁者の女は多くいます。

 

1. エレナ・チャウシェスク(ルーマニア)

夫ともに銃殺されたルーマニアの「国民の母」

エレナ・チャウシェスクはルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスクの妻で、夫とともに自身も権力を握り個人崇拝の対象となった人物として知られます。

エレナは小学校しか卒業していませんが、ルーマニア共産党ブカレスト支部に入党し、そこで21歳のニコラエ・チャウシェスクと出会い、1947年12月23日に結婚。夫がルーマニア共産党の指導者として出世をし、1965年3月のゲオルギウ・デジの死去に伴ってルーマニア共産党の第一書記、次いで国家元首となり、ファーストレディとなりました。

エレナは1971年6月、中華人民共和国を公式訪問した際、毛沢東の妻である江青が権力を握っていることに刺激を受け、自らの政界進出を画策し始めます。

1972年7月以降、ルーマニア共産党の幹部としてさまざまな役職に就くようになり、翌年6月にはルーマニア共産党内で夫に次ぐ重要人物となりました。その後も党最高機関である政治執行委員会常務局の委員となったり、国会議員や第一副首相などの要職を歴任しました。

1980年代初頭から、エレナはメディアで「国民の母」と称され、個人崇拝の域に達しました。テレビ局は彼女を画面に映し出すことに細心の注意を払うよう厳命され、大きな鼻と薄い顔が目立たないように横顔は決して映してはならず、正面から撮影しなくてはなりませんでした。

1989年12月22日、ティミシュオアラ市で起きた反体制運動において、ルーマニア軍が市民側に付いて政権の打倒を図ったため、夫婦ともにタルゴヴィシュテの町で捕らえられました。そして1989年12月25日の午後に銃で処刑されました。夫婦の銃撃シーンは前後も含めてカメラに収められ全世界に放映されました。

殺される前、エレナは兵に対して「恥を知れ、国民の母に何をするのだ」と激しく抵抗しましたが、あっけなく銃殺されています。

 

2. ナジェージダ・アリルーエワ(ソ連)

夫スターリンに殺された可能性がある女性

革命家の父のもとに生まれたナジェージダ・アリルーエワは17歳の時に、後の独裁者スターリンと結婚しました。ナジェージダはスターリンとの間に2人の子どもを儲け、モスクワで不自由ない暮らしをしますが、スターリンがレーニン後の権力闘争に打ち勝って指導者となっていくと、夫婦仲は険悪なものになっていったようです。

スターリンは政争に明け暮れて家庭を顧みなかったし、あちこちに愛人を抱えていました。ナジェージダは聡明な女性で、スターリンの反対を押し切って大学で学習をしていました。学びが深まると、ソ連の体制はウクライナやヴォルガ地方での強制的な集団化や農民の不当な追放、弾圧、飢饉などの悲惨な状態にあることを知るようになり、夫のスターリンはこれを知らないのだと思い夫を説得しようとします。しかしスターリンはナジェージダを酷い言葉で罵り、彼女を大学から追放してしまいました。

ナジェージダは知識人のニコライ・ブハーリンと懇意になり、彼や学生らとの交流の中で知識を深め、スターリンの政策に反対するようになり、庶民の暮らしを知りたいとヴォルガ地方やウクライナの飢饉、当局の弾圧政策などにも特別な関心を寄せるようになりました。このような妻の行動はスターリンにとっては見逃せない反逆と写ったのかもしれません。

1932年11月9日、十月革命15周年のイベントの後、ナジェージダは寝室で遺体で発見されました。

リボルバーがすぐそばから発見されたことから、スターリンが殺害したという説と、自殺したという説があります。しかし公式にはナジェージダは「中耳炎」で死亡したと発表されました。

 

3. キュー・ポナリー(カンボジア)

精神を病み独裁者の夫に捨てられた妻

キュー・ポナリーはクメール・ルージュ時代のカンボジアの独裁者ポル・ポトの最初の妻として知られる人物です。

上流階級の娘として生まれ、プノンペンのエリート校、リセ・シソワスに通い、1940年にはカンボジア人女性として初めて学士号を取得。その後妹のキュー・ティリスとともにパリに渡りました。そこで出会ったのが、後にクメール・ルージュの指導者となるポル・ポトことサロット・サルでした。二人はマルクス・レーニン主義の研究サークルに所属し、フランスによる支配を終わらせるための策謀に明け暮れました。

カンボジアに戻るとポナリーは高校教師の職を得て、サロット・サルと結婚。革命のための組織作りを始めた夫を支えました。当時のカンボジア指導者ノロドム・シアヌーク殿下が共産主義者狩りを開始すると首都を脱出し、ジャングルに逃れゲリラ戦争を開始しました。

1975年、クメール・ルージュが政権を獲得し、170万人の死者を出した無謀な社会革命を起こしたとき、彼女は既に病魔に侵されていました。

ポル・ポトはポナリーと別居して別の女性を住むようになり、彼女はほとんど公式の場には姿を現すことはありませんでした。

1998年のポル・ポトの死後、ポナリーは姉と義兄と一緒に暮らし、2003年に死去しました。初期のクメール・ルージュを支え、夫に見捨てられたものの、晩年は穏やかに暮らしました。不幸だったかどうかは本人にしか分かりません。

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4. エヴァ・ブラウン(ドイツ)

ヒトラーと第三帝国と運命を共にした女性

エヴァ・ブラウンはナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーの伴侶だった女性としてよく知られています。1945年4月29日、連合軍がベルリンに侵入する中で、政権幹部がこもる地下壕でヒトラーと結婚し、その後自殺をしています。

写真店の店員で、ごく普通の庶民の生まれでした。様々な証言や彼女自身の発言から、エヴァとヒトラーはお互いにひかれあい交際に至っていることが分かっています。

長年、エヴァ・ブラウンは人間としてのヒトラーに恋をしていただけでナチスのイデオロギーや戦争犯罪とは無関係だったのか、あるいは政権で積極的に自分の役割を果たそうとしたのかは議論があります。

『エヴァ・ブラウン:ヒトラーとの生涯』の著者であるハイケ・B・ゲルトメーカーは、ブラウンの地下壕での最後の数週間の行動や、ヒトラーと共に死のうとする意志から、ブラウンが政権下での自分の役割を認識し、明確な行動をしようとしていたと主張しています。

しかし、彼女は恋する女性だったのか、忠実なヒトラー・シンパだったのか、それとも総統と一緒に歴史の一部になりたいと願う狂信者だったのかまでは分かりません。

そして死の際に自分の運命を呪ったのか、最愛の人と共に死ねると笑って死んだのかも、永久に分かりません。

 

5. 江青(中国)

死刑判決を受けた毛沢東の4番目の妻

江青は毛沢東4番目の妻として、そして毛沢東が起こした権力闘争である文化大革命を推進した人物として有名です。

本名は李雲鶴で、芸名藍蘋(ランピン)という名前で映画女優としてキャリアをスタートさせた彼女は、1933年に共産党に入党し、1937年に延安で毛沢東と出会い、翌年結婚。江青と名を変えました。当時毛沢東は既に賀子珍という妻がいましたが、彼女がソ連に渡っている時に江青と結婚。江青は賀子珍が毛沢東に会うのを妨害し続けました。

江青は権力欲が非常に強い女でした。毛沢東が文化大革命を開始して劉少奇・鄧小平の実務派から権力の奪取に乗り出すと、江青は彼ら「走資派」を非難し罪状をでっちあげて政界から追放することに成功。劉少奇の代わりに毛沢東の個人崇拝を推進した林彪が国家主席に就任し、江青は張春橋、姚文元、王洪文らと「四人組」と称されるグループで権力の中枢を独占しました。

江青は実力者の周恩来を葬ろうとして様々な政治キャンペーンを繰り広げますが、結局叶わず、周恩来死後に四人組の権力独占を危惧する声が共産党内で生まれました。江青の後ろ盾となっていた毛沢東の死後、華国鋒によって四人組は逮捕されました。

1980年、「林彪・江青反革命集団」裁判が行われ、江青は死刑判決を受けます。江青は裁判中も鄧小平や華国鋒を大声で非難し、自らの無罪を主張しました。結局死刑が行われることはなく、1991年に自殺しました。

 

6. クラーラ・ペタッチ(イタリア)

ムッソリーニと共に銃殺された女

クラーラ・ペタッチはイタリアの独裁者ムッソリーニの愛人で、逃亡中にパルチザンに捕まりムッソリーニと共に銃殺されたことで知られます。

ぺタッチは上流階級の生まれですが、10代前半の頃からムッソリーニの「ファン」であったようです。

1932年4月、ムッソリーニが側近を連れてオスティアに向かう途中、当時20歳でドライブ中のペタッチと出会い、それがきっかけで愛人となりました。

ムッソリーニは連合軍によるシチリア上陸とローマ空爆により立場を失い自宅軟禁されますが、1943年9月にナチスの空挺部隊により救出されドイツ占領下の北イタリアにあるナチスの傀儡国家、イタリア社会共和国(サロ共和国)の首相に据えられ、形式上は抵抗を続けました。

しかし1945年4月25日、ムッソリーニは自分が知らない間にナチス・ドイツがサロを明け渡そうとしていることを知ると、クララ・ペタッチとともにアルファロメオに乗って逃走。スイス国境を目指しますが、4月27日に共産パルチザンによって逮捕され、翌日二人はコモ湖畔のジュリーノ・ディ・メッツェグラという小さな村で機関銃で処刑されました。

その2日後、ムッソリーニとペタッチに加え14人のファシストの死体がトラックに乗せられ、ミラノのロレート広場に捨てられると、ミラノ市民は死体に罵詈雑言や野菜を投げつけ、蹴ったり、叩いたり、唾を吐きかけたりしました。ある女性は、ムッソリーニがまだ死んでいないとして「殺された5人の息子の恨み」と叫んで5発の弾丸を撃ちこみました。

遺体は原型をとどめないほどぐちゃぐちゃになったのですが、ペタッチはファシストではなく単なるムッソリーニのファンであっただけなので、ペタッチを殺害し遺体に傷をつけた点は後に議論となりました。

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まとめ

独裁者の妻という点を利用して自ら権力を得ようとした者もいれば、特に権力は望まなかったものの不幸な方向に流れていった者まで様々です。もちろん、幸せな死に方をした人々も大勢いますが、大量虐殺、人権弾圧、職権乱用など人類史に名を残す悪行を働いた独裁者の傍にいること自体、大なり小なり無事では済まされないだろうと思います。ただ本人がそれを望んだか、望んでいなかったかは時には第三者からは判断が難しいし、本人の魂に聞いてみないと永久に分からないこともあります。

 

参考サイト

"Elena Ceauşescu" Britannica

"The mysterious death of Nadezhda Alliluyeva"

"Khieu Ponnary, 83, First Wife Of Pol Pot, Cambodian Despot" NewYork Times

"Eva Braun: life with Adolf Hitler" History Extra

"Mussolini’s Final Hours" HISTORY