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ノルウェーの歴史(後編)-どうやってノルウェーは先進国になったのか

中立国から西側、環境・人権先進国へ

ノルウェーの歴史の後半です。

前半では豪族が割拠する地域がキリスト教をコアにして中央集権化した後に、デンマークやスウェーデンとの協調の後に統合されていく様子をまとめました。

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後半ではナポレオン戦争を機にスウェーデンの一部になり、独立後に激動の20世紀を迎えるノルウェーの様子をまとめます。

 

9. スウェーデンとの連合結成

スカンジナビアの国際秩序が大きく変わったのがフランス革命戦争とナポレオン戦争です。
革命フランスは1792年にオーストリア、プロイセンに宣戦布告し、ナポレオンがワーテルローの戦いで敗れる1815年まで戦禍がヨーロッパを覆いました。

当初デンマーク=ノルウェーは中立政策をとりますが、これがイギリスの不信を招きます。当初最大の海運国だったノルウェーの船舶が、イギリスの敵国フランスの物資を運んでいるのではないかとの疑惑を深めたわけです。そしてイギリスはデンマーク=ノルウェーの船舶への攻撃と拿捕を開始しました。

▽フレゼリク6世

反発した国王フレゼリク6世は、ナポレオンの側に立ってイギリスを始めとする対仏大同盟諸国と開戦することを決意します。

最大の貿易国イギリスの経済封鎖によってノルウェーは物資不足に陥ります。そして次に待ち受けていたのは宿敵であるスウェーデンとの戦争です。

▽グスタフ4世

1808年、スウェーデン国王グスタフ4世は、ノルウェーの征服と併合を目指して軍を派遣しました。ここでノルウェーの農民兵は頑強な抵抗をみせ勝利を収め、1808年に和解が成立しました。ここでスウェーデン国内ではグスタフ4世に対する不満がつのり、退位に追い込まれます。

▽カール13世

次に国王として就任したのはグスタフ4世の叔父のカール13世ですが、王位についた時点で既に老齢で、しかも子供がいませんでした。そこでカール13世は、後継としてフランス軍の将軍で、イタリア戦線でスウェーデン将兵に寛大な措置を施したことで国民に人気のあったジャン=バティスト・ベルナドット将軍に国王への白羽の矢を立てました

▽カール・ユーハン

1810年、ベルナドットはカール13世の王太子となり、カール・ユーハンと改名しました。彼に始まるベルナドッテ朝は現在のスウェーデンでも続いています。彼はフランス軍時代はナポレオンから冷遇され閑職にあった人物でしたが、スウェーデン国王に就任すると水を得た魚のように活躍を始めます。

ロシア遠征でナポレオンが敗北し、フランスの敗北の雰囲気が強くなると、同盟国であるデンマーク=ノルウェーの危機感も強くなりました。

スウェーデン国王カール・ユーハンは同盟の許諾を得た上で、デンマーク侵攻を開始。すぐにフレゼリク6世は降伏し、デンマークはノルウェーの領有をスウェーデンに譲渡しました。

こうして434年続いたデンマーク=ノルウェー連合は解消され、ノルウェーはスウェーデンの一部となります

デンマークとの連合の解消は非常に大きいコンフリクトがあり、デンマーク王家のクリスチャン・フレゼリクは彼のノルウェーに対する強い思いもあって、ノルウェー国王として在位を続けることをスウェーデンにも許諾されました。クリスチャン・フレゼリクはノルウェーの独立を画策しますが、

4〜5万のスウェーデン軍に攻められ、ノルウェー農民軍は簡単に敗れ彼の独立工作は失敗に終わり、ノルウェーから追放されました。
ノルウェーはスウェーデンと連合になったわけですが、ノルウェーは独自の国旗や銀行を持つことが許され、スウェーデン人がノルウェー国内で官職につくことはできず、スウェーデンが他国に宣戦布告するにはノルウェー議会の同意が必要など、デンマーク時代よりも大きな権限を得たのでした。

 

10. 近代ノルウェーの発展

新たな政治体制の下で、ノルウェー人の政治家や官僚は新しい国づくりに邁進していきます。彼らは物質的に豊かになることが国家にとってもよいことだという信念から産業の自由化政策を推進しました。

国民の大半を占める農民の栄養や住環境の改善、医療制度の整備により乳幼児死亡率の低下が人口の急増をもたらし、1800年に90万人だった人口は1865年には170万人、1900年には220万人となっていました。人口の増加は農村の土地不足をもたらし、新たな仕事や土地を求めて1825年からアメリカへの移民が本格化しました。1930年までに約80万人がアメリカに移住しました。現在ではノルウェー系アメリカ人の人口は、ノルウェー本国の人口とほぼ同数だそうです。

ノルウェーにおいていわゆる「産業革命」が起こるのは1840年代。繊維工業の大発達からノルウェーの近代工業化はスタートしました。

農村の余剰人口が都市に流れ込んで工場労働者となり、工業の担い手となりました。都市化と工業化はそれまでの伝統的な地縁での労働者の保護を難しくし、長時間労働や低賃金に人々は苦しめられるようになりました。

そこで1849年にノルウェーで初めての労働組合が作られ、労働環境の改善や賃上げの要求を行いました。それのみならず、男子普通選挙や国民皆兵、初等教育の質の向上、土地所有の自由化、穀物税の廃止といった多様なイシューで声をあげました。

ノルウェー政府は他のヨーロッパ諸国と同じく、関税の撤廃と輸出入の自由化、商売の自由化といった重商主義政策を推進しました。道路や港湾、電信網、郵便サービスなどの社会インフラ建設も進んでいきます。このような社会の変化によって、これまで自給自足をしていた農民も市場経済の中に取り込まれていき、農産物を市場で売って貨幣を稼ぎ、それで生活必需品を購入するというライフスタイルが普及しました。

農民の政治への進出も加速しました。伝統的にノルウェー議会は貴族やブルジョワ出身者が多かったものの、1860年代に農民友好協会が設立され議会により多くの農民が議会選挙に立候補できるように支援を行い始めました。この組織は1870年代に消滅するも、議会の過半数を農民層が獲得するようになりました。

1880年代には男女問わず労働者が労働組合に組織されるのが一般的になり、1887年に結成されたノルウェー労働総同盟は社会主義を掲げ、労働時間の短縮と男女普通選挙権を要求しました。女性の社会進出も進み、女性の初頭中等教育の権利や大学での学位取得が認められ、女性の投票権も収入制限付きではあるが認められました。1913年に全成人女性に投票権は拡大されています。1924年には初の女性議員も誕生しています。

 

11. ノルウェーの独立

19世紀後半になるとノルウェーではスウェーデンとの連合の解消が真剣に議論されるようになりました。

一民族一国家という民族自決の感覚が普及したことに加え、多くのノルウェー人が外交権を持つスウェーデンの外交はノルウェーの利益を代弁していないと感じており、ノルウェーは独自の外務大臣と在外公館を持つべきだと主張がされました。

ノルウェーは来るべき日に向けて南部の沿岸部に要塞を建設し、イギリスとドイツから武器の購入を開始しました。

1902年に領事法に関する協議が開始されましたが、スウェーデンはこれを認めませんでした。ノルウェー議会では労働党を除く広範な政党が参加した連立政権が成立し、1905年に議会はスウェーデンに領事部門の設置に関する法案を採択します。国王がこれを拒否すると内閣は総辞職し、議会は満場一致で「スウェーデンとの連合は国王がその機能を果たさなくなったために中断された」と発表。スウェーデンを驚愕させました。

ノルウェーはスウェーデンとの戦争のために国境付近に軍を集め、一触即発状態となります。スウェーデンはノルウェーとの戦争を望まず、両国の粘り強い交渉で連合は解消されることで合意がなされました。新たな国王としてデンマークからホーコン7世を迎え、1905年11月にようやく独立国家となりました。

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12. 第一次大戦後の経済不振

新生ノルウェーの外交政策は、基本的にはデンマークやスウェーデンと同じく中立政策でした。

1914年に第一次世界大戦が始まった時、ノルウェーは建前上は中立をとったものの、伝統的なイギリスとの強い経済的つながりから、イギリスからの経済封鎖を避けるためにイギリスとの交易は続けたものの、ドイツの輸出品は停止しました。

そのためドイツからは敵視され、ノルウェーの船舶はドイツ軍のUボートの攻撃対象となり、商船隊の半分が沈没し2000名以上の船員が死亡するという被害を出しています。

しかしノルウェーは最後まで中立を貫きました。同盟国は南北に縦長で主戦場とも大きく離れているノルウェーを占領するメリットが少なく、国土は戦場にならずに済みました。むしろノルウェーは戦時需要で好景気に湧き、投機で巨額の資産を手に入れる者も現れました

しかし戦時中に銀行がクローネを刷りすぎていたこともあり、戦後は急激にインフレが進み景気は不安定になり、物価と貨幣価値は変動を続けました。

クローネの暴落を受けてノルウェー銀行は通貨の流通量を減らし利子を上げる切り上げ策を実施しました。これにより借金が割高になり、人々は借金返済に苦しむようになりました。投資額も激減し農民や漁民が戦前に抱えた借金の返済ができずに生活に困窮するようになります。

ところがここにアメリカ発の世界恐慌が襲います。1930年に大恐慌がノルウェーを襲い、全人口の10%が救貧措置に依存しました。商品価格が下落し、賃金と公共料金が高騰し、多くの企業が倒産、銀行は不良債権を抱え、資産が消えることを恐れた預金者は先を争って預金を引き出したためいくつも銀行が倒産しました。

ダメージは大きかったものの、ノルウェー経済は危機を脱して再び上昇を始め、工業生産高や国民総生産は増加し、人々の給与も増えたので消費財や家具家電、奢侈品を買ったりレジャーを楽しんだりする人も増えました。

 

13. 労働問題と社会民主主義政権の誕生

第一次世界大戦後、貧富の格差や経済不振から労働運動と革命運動が盛んになります。

投機で儲かった人々が贅沢を楽しむ一方、大半の人々は今日のパンにも困る生活をしている。そんな中でロシアで革命が勃発しボリシェヴィキが率いるソビエト体制が成立したニュースが伝わると、社会主義政党ノルウェー労働党は共産主義者国際組織コミンテルンに加盟し、モスクワからの指示を受けてノルウェーでの革命を目指しました。

しかし全加盟者がモスクワからの命令に絶対服従することを命令されたため、党はコミンテルンから脱退。より穏健な社会民主主義路線を取るようになります。

1928年には労働党は初めて政権を奪取しました。ところがこの時労働党は「社会主義的社会秩序への移行」を明言したため、警戒した経営者や銀行が資金を外国に移してしまい社会的な混乱を招いたため、わずか14日で内閣が崩壊してしまいました。世界恐慌がノルウェーを襲い、労働党は「全国民に労働を」「国家は借金してでも失業対策のための大規模投資をすべき」と主張して有権者の圧倒的支持を得て、1933年の選挙で地滑り的勝利を収めました

労働党は、もともと反労働運動を掲げていた保守派の農民党とも「農業への投資拡大」を約束することで共闘することに成功。ヨーハン・ニーゴーシュヴォルを首班とする労働党内閣は、戦後も政権にとどまり長期政権を築くことになります。

実際に穏健的な政策をとった労働党は、大規模な財政出動で投資を行い労働者救済を行うと同時に、産業育成と国際貿易収支の向上を実現し、さらには社会福祉や8時間労働制の導入や年金制度、失業手当をはじめとした労働問題の解決にも力を注ぎました。

▽ヴィドクン・クヴィスリング

ところがこのような社会改良が気に食わない連中がいました。それが、当時のヨーロッパを席巻していたファシズムを支持する人々です。強力な反共産主義、伝統への回帰、民族の団結を支持する人々は、ヴィドクン・クヴィスリングが1933年に結成した国民統一党を支持しました。

▽国民統一党の集会

国民統一党はドイツのナチス、イタリアのファシスト、フィンランドのラプア運動の影響を受け、世界恐慌後の国家の危機を、労働党の現実的なアプローチではなくより過激で戦闘的な手法で達成することを目指しました。しかし1930年代の選挙では国民統一党は2~3%の支持しか得られない泡沫政党で、一議席すら獲得できませんでした。ところがこの弱小政党が、第二次世界大戦の勃発で政権をとることになるのです。

 

14. ナチ政党による天下と国民のレジスタンス

1939年9月、ドイツがポーランドに電撃作戦をしかけ、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告を行いました。第二次世界大戦の勃発です。

当初ノルウェーは伝統的な中立策を守ろうとしましたが、ノルウェー北部の北海をドイツ戦艦や潜水艦が活動しイギリス船舶を攻撃する通商破壊を行なっていたことから、イギリスはノルウェーに領海内でのドイツの行動を制限するように圧力をかけました。

さらにはノルウェー沿岸に機雷を敷設して沿岸部にドイツ船舶が近寄れないようにしました。ですがイギリスもフランスもドイツ軍がノルウェーに進駐する可能性は低いと考えていました。そのため、ノルウェーにイギリス軍を派遣しますが、その規模は小さなものでした。

ところが、国民統一党のクヴィスリングが1939年12月にベルリンでヒトラーと会談した際、彼はドイツとノルウェーは協力して共産主義者とユダヤ人と戦うことができると進言しました。これによりヒトラーは部下にノルウェー進撃作戦を練るように指示を出しました。

1940年4月9日、ドイツ軍はノルウェー沿岸部の軍事拠点に奇襲をかけ占領します。この時、オスロ近郊のオスカーシュヴォル要塞から放たれた砲弾が巡洋艦ブリューヘルに着弾し沈没させ、乗船していた軍幹部と特別部隊隊員に多数の被害が出ました。この隙に国王と政府の要人はオスロを脱出しエルヴェルムに避難。その後ロンドンに脱出して亡命政権を建てました。ノルウェーは中立策を捨て、明確に連合軍の側につきます

▽亡命する国王オーラヴ5世とオーラヴ皇太子


ノルウェーでの戦闘では、作戦開始から3週間でドイツ軍は南部を制圧しますが、北部のナルヴィク周辺ではイギリス軍、フランス軍、ノルウェー軍、ポーランド軍が激しく戦い、ナルヴィク市からドイツ軍を追い出し山岳地帯に包囲することに成功していました。

ところがフランスとベネルクス三国がドイツ軍の奇襲を受けたことで、これらの兵が欧州戦線に回され、包囲は解除されました。こうしてノルウェーはドイツに占領されてしまいます。

ドイツ支配下で政権に就いたのは国民統一党のクヴィスリングです。

クヴィスリング支配下のノルウェーでは国民統一党以外の政党は非合法化され、行政評議会が解散されました。ヒトラーはノルウェーを死活領域と考え、ノルウェーに最大で約4万3000人のドイツ兵を駐留させ沿岸部全域で強固な防衛体制を敷きました

またノルウェーの空港や港湾施設は独ソ戦の物資補給において戦略的な地位を占めていました。またノルウェーは積極的にドイツ軍に参加する人物が多かったのも特徴です。独ソ戦には約7000人もの志願兵が参戦し、そのうち800から1000名が死亡しています。

国内では失職することを恐れて国民統一党に入党する者が続出し、クヴィスリングは国民総動員体制を演出しました。一方で、職場放棄や組合からの離脱、ナチ体制の協会参加の拒否といった市民レベルのレジスタンスが相次ぎました。農民からは国家社会主義青年運動に若者を送ることに対する抗議の手紙が殺到します。こうしてクヴィスリングの手腕のまずさもあって、ノルウェーでナチ体制の構築に失敗しヒトラーはクヴィスリングに失望したと言います。

ロンドンに亡命していた労働党政権は、ノルウェー軍をイギリスで再建し、陸軍や海軍を西部戦線や北海、大西洋の戦闘で参加させました。国内で結成されていた地下レジスタンス活動も亡命政府の指揮下に統合され、破壊活動を繰り広げました。一部の共産主義者は積極的にゲリラ戦を敢行しました。1944年秋には北からソ連軍が侵入し、一部の町を開放します。しかし南部を中心にノルウェーはドイツ軍が降伏する1944年9月まで占領されたままでした。

戦後はドイツに協力した「売国奴」に対する大規模な訴追が始まり、クヴィスリングをはじめ25人のノルウェー人が戦犯として死刑に処せられました。民間でも約5万3000人が反逆罪の判決をうけ、約2万3000人が投獄されました。

 

15. 産業先進国、環境先進国

ナチスやクヴィスリングとの戦いを通じてノルウェー国民の結束力が高まり、その団結心のもと、国民的な共同マニフェストが作られました。

これは社会民主主義的な傾向をもっており、国家は社会発展のための責任があり、民間企業と協力の下、国民の生活水準の向上と社会的安定に寄与する健全な経済成長を推進せねばならない、というものです。
労働党がイニシアチブを発揮し、戦後のノルウェー国家の進むべき道が提示されたわけです。

戦後、ノルウェー経済は順調に発展を遂げます。アメリカのマーシャルプラン援助で得た4億ドルは大きく、工業や海運業が飛躍的に成長。1950年までノルウェーの経済成長はヨーロッパで最高水準を誇りました。

1960年から1973年までは産業の黄金期で、EFTA(欧州自由貿易連合)内の自由貿易で利益が増大。ノルウェーはヨーロッパ最大のアルミニウムと輸出国、そして合金鉄の世界最大の輸出国となりました。

順調な経済を背景に、マニフェストに基づき福祉国家の道が開かれました。児童手当の支給が1946年に始まり、1950年代には健康保険が義務化され、1964年に成立した社会福祉法では自治体の社会福祉サービス部門が地域の社会支援を必要とする人への援助と、その人が自立して暮らしていけるまでの支援をすることが盛り込まれました。

一方で戦前の中立政策は放棄され、ノルウェーは明確に西側陣営に属すことを決意します。東西冷戦が始まると、ノルウェーは隣国ソ連への警戒感を強め、1949年にNATO(北大西洋条約機構)へも加盟。オーランド空軍基地をはじめ、国内の基地にはアメリカ軍が駐留し、西側にとって重要な橋頭堡となりました。

ノルウェーは環境先進国として知られますが、その取り組みが始まったのは1960年代のことです。乱獲によりニシンやサバの漁獲量が激減し、工場から垂れ流される汚水や農地から流れる農薬によってフィヨルドや河川の生態系が脅かされ、酸性雨が森林を破壊し、滝や湖、河川も発電所建設などで開発され豊かな自然環境の破壊が問題視されました。

1962年、国会はロンダーネ山岳地帯を国立公園に指定し、その後も自然保護や水質汚染に関する先進的な法案が制定されました。1972年には世界初の環境省を設置しています。

 

16. 現代ノルウェーの課題

イシュー①:EU加盟問題

戦後のノルウェーで最も大きな議論になったのが、EC(欧州共同体)、EU(欧州連合)への加盟問題です。

歴代のノルウェーの政権は域内での自由貿易からもたらされる利益の大きさからECとEUへの加入を目指してきましたが、議会でも民衆レベルでも反対派が多くいます。その理由は、主権の一部をブリュッセルのEC、EU議会に渡さなければならないことです。

長年、デンマークやスウェーデンに主権が奪われていたノルウェーの歴史的な経緯からくる反発なのかもしれません。また、経済原理を最優先に考えるEC、EUの方針に対する反感もあり、非合理であっても環境や国内の雇用や安定を守る方が優先的だと考える人も多くいました。

そしてドイツなどの強い資本が真捨してきて天然資源を乱獲したり環境破壊が促されることへの懸念でもあります。1972年の国民投票では、53%がEC加盟を否決。1994年の再度の国民投票でも、またも加盟は否決されました。

 

イシュー②:石油問題

ノルウェーは環境問題に非常に先進的な一方で、欧州随一の産油国・天然ガス産出国でもあります。北海の油田の採掘が開始されたのが1966年のこと。1970年に油田を掘り当てることに成功し、ノルウェーは産油国となりました。生産量は増加し、1990年にはイギリスを抜いて最大の石油産油国となり、1990年代半ばにはサウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国となりました。

石油産業は多くの雇用をもたらすものではないですが、石油輸出からもたらされる収入は莫大なものがあります。

現在は欧州は石油・天然ガスをロシアに過度に依存しすぎていたという反省から、ノルウェーからの調達を目指し、ノルウェーもこれに応えて増産と安定供給を行おうとしています。ただし化石燃料の増加は地球温暖化を招く温室効果ガスの増加も招くため、環境先進国としてどこにラインを引くのかが難しいところです。ノルウェー経済のドル箱を今後どうするのか、大きな課題です。

 

イシュー③:移民問題

また現在のノルウェーで大きなイシューが移民問題です。

ノルウェーで移民の受け入れが始まったのは1960年代。当時高度経済成長時代で労働力不足に陥ったノルウェーでは、西ヨーロッパやアメリカ出身の特に石油産業の専門家の移民を受け入れました。

その後1970年代になると、バルカン半島やアジア、アフリカからの移民が増加していきました。非熟練労働者の増加は国内でも問題になり、新規登録者数は減少しましたが、移民は自分の家族や親類を故郷から次々にノルウェーに招き入れたため、雪だるま式に移民は増えていきました。1980年代にはベトナム戦争終結で社会主義ベトナムから逃れた南出身者のボートピープルをノルウェーは多く受け入れました。

その後も戦争や内戦から逃れてきた人を中心に、2000年までノルウェーへの移民は増加の一途をたどります。現在ではオスロに住む人の5人に1人は外国にルーツがある人です。ただ急激に増えた移民は、国内の一部で反発を招いています

2011年に極右の男が爆破テロや銃乱射で77名を殺害して世界中を騒然と刺せた「ノルウェー連続テロ事件」の容疑者もイスラムによる西欧への侵略のためにやったと供述しています。

隣国スウェーデンではノルウェーよりも移民政策が進んだ結果、社会の分断と移民の貧困化と犯罪率の増加が起こったとして、より厳しい移民政策を求める声が高まりつつあります。

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まとめ

全2回にわたってノルウェーの歴史を解説してきました。

スカンジナビア半島の西に南北に長く伸びる特殊な地理的環境から、他の欧州や近隣のデンマークやスウェーデンと比べると中央集権体制や国民国家形成が遅れ、長い間人々は自給自足の生活をしていて、忠誠心のようなものは薄いので軍事面でも歴史上お世辞にも強いといえないです。

しかしその分、地域や社会に向き合い、一人ひとりができることを最大限やるという個の力がすごく強く、しかも国民的合意形成ができた後は特に、集になって個のポテンシャルを発揮してくるので、ものすごく国としての集合体として強いなという印象を持ちました。

参考文献

「ノルウェーの歴史 氷河期から今日まで」エイヴィン・ステーネション, イヴァール・リーベク 著 岡沢憲芙, 小森裕宏美 訳 早稲田大学出版部 2005年8月15日初版第1刷発行