歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

歴ログ-世界史専門ブログ-は「はてなブログ」での更新を停止しました。
引き続きnoteのほうで活動を続けて参ります。引き続きよろしくお願いします。
noteはこちら

一人の死者も出なかった10の戦争

死者がでない戦争とは、理性と、話し合いと、あと何か

2020年以降にまた世界各地で凄惨な国家間戦争が増加しています。毎日ニュースを見るたびに、21世紀にこんな先祖帰りを起こすとは想像していなかったです。

戦争を起こさない知恵が一番必要なわけですが、仮に戦争を起こしても死者をどうやって出さないかという知恵もまた必要かも知れません。

過去の「死者が一人もでなかった戦争」からなにか学べる点はあるでしょうか。

 

1. ウエスカル・デンマーク戦争(1809年〜1981年)

デンマークに残されたスペイン兵をめぐり小さな町が宣戦布告

ウエスカルはスペインのグラナダ地方にある人口7000人ほどの町です。

この街は19世紀初頭、スペイン独立戦争の中でデンマークに宣戦布告したことがあります。

ナポレオン戦争中の1808年、スペイン・ブルボン朝は廃止され、ナポレオンは兄ジョゼフ・ボナパルトをスペイン王位につけました。そしてスペインはフランスの要請に応じ、イングランドの上陸を阻止するために13,000人の兵士をデンマークのユトランド半島に派遣しました。

ところがその後、スペイン本土で反フランスの反乱とスペイン独立戦争が勃発します。デンマークに残されたスペイン兵は、本土に戻ることのないよう隔離状態に置かれました。このニュースを知ったウエスカルの町議会は1809年、デンマークへ宣戦布告しました。

といっても別に町ごときがデンマークに攻撃するということはなかったのですが、宣戦布告はそのまま残されました。スペイン独立後も終戦が宣言されることはなく、172年間もの間続きました。

とある歴史家が町の公文書館で宣戦布告の原本を発見したことをきっかけに、町議会は全会一致でデンマークとの和平調印を結びました。この和平は1981年11月、スペインのデンマーク大使によって批准されました。

 

2. リハル・フランス戦争(1883年~1981年)

スペイン王が侮辱されたことに腹を立て開戦

リハルはスペイン南部アルメリア州にある人口400人未満の小さな町です。

この町があろうことか大国フランスに対して宣戦布告をしたのです。

1883年9月29日にスペイン国王アルフォンソ12世が公式訪問のためパリに滞在したとき、パリ市民はスペイン王室の訪問を快く思わず、国王に罵声を浴びせ、石を投げつけさえしました。

この事件を聞きつけたリハル町長は10月14日、町ぐるみでフランスと戦争すると宣言しました。町長は相当血の気が多い人だったようで、「シエラの恐怖」と呼ばれました。

宣戦布告は行われましたが特に重火器を使った戦闘が行われたわけではなく、一発の弾丸も撃たれず、一滴の血も流れない平和な戦争が93年も続きました。

1976年、スペイン国王フアン・カルロスがフランスを訪問し、この時は全く何も起こらず、市民からも歓迎を受け、平和裏に訪問が進みました。

その4年後、リハルの人々は自分たちの王が威厳ある良い扱いを受けたと判断し停戦を宣言し、フランスとの戦争を終結させました。

 

3.三百三十五年戦争(1651年〜1986年)

イングランド王党派の破壊工作に腹を立てたオランダが開戦

三百三十五年戦争はイギリスのコーンウォールの西岸沖に位置するシリー諸島とオランダとの間に起こった「戦争」です。

1642年にはじまったイングランド内戦で、クロムウェル率いる議会派軍は戦いを優位に進め王党派軍をコーンウォール半島に追い込みました。

一方、内戦を外から見ていたオランダは、議会派軍の勝利が近いと判断し、議会派側として内戦に加わることを決定しました。王党派はオランダの「裏切り」に憤慨し、英仏海峡を渡るオランダ船に対し破壊工作を始めました。

1651年、王党派軍はいよいよ追い詰められ、一部の王党派はコーンウォールの沖合にあるシリー諸島に逃げ込みました。オランダは王党派の襲撃による損失を取り戻そうと、12隻の軍艦をシリー諸島に派遣し、賠償金を要求しました。しかし王党派は拒否したため、オランダ提督マールテン・トロンプは1651年3月30日にシリー諸島に宣戦布告をしました。

3ヶ月後、シリー諸島も議会派の手におちたのですが、オランダは宣戦布告を撤回しなかったため、「戦争状態」がその後335年間続きました。

結局、正式に停戦合意がなされたのは1986年4月17日のことでした

PR

 

 

4. 第一次カッペル戦争(1529年)

スイス内のカトリックとプロテスタントの対立

第一次カッペル戦争はスイス諸邦内の宗教戦争です。

盟約者団をはじめとするスイス諸邦では、カトリックとプロテスタントのどちらの宗派を信仰するかはそれぞれの邦に委ねられていました。

諸邦内での宗派対立が高まる中で、チューリヒを筆頭とするプロテスタント諸邦は「キリスト教都市同盟」を結成。一方で、原初三邦(ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン)とルツェルン、ツークの「カトリック五邦」は「キリスト教連合」を結成しました。

1528年10月ベルン近郊のベルナーオーバーラントの住民が集会を開いてカトリック維持を決定し、ウンターヴァルデンの軍事支援を受けました。これは1481年にスイス諸邦間で結ばれていた「シュタンス協定」に違反していたため、チューリヒはカトリック五邦に宣戦布告をしました。

両陣営の軍はチューリヒとツークの境界で対峙しますが、中立邦グラールスの仲介で和解が成立し、戦闘は避けられました。

停戦交渉中、両軍の兵士たちが歩み寄り、国境線のちょうど上になるところで火を炊きはじめました。そしてカトリック側がミルク、チューリヒ側がパンを持ち寄り、ミルクスープを作って食べ、戦争が避けられたことを喜びあったそうです。

 

5. やかん戦争(1784年)

戦争中、唯一放たれた弾丸はやかんに当たった

オランダ独立戦争により、ネーデルラント北部(オランダ)は独自の共和国を形成しますが、南部(ベルギーとルクセンブルク)はスペインに残留することになりました。

このスペイン領オランダは1714年のラシュタット条約によってハプスブルク帝国(オーストリア)に割譲されました。

1781年、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世は進行中の第4次英蘭戦争に乗じてネーデルラント共和国による通商妨害の停止を要求。1784年にはオーヴァーマースと州フランダース州の領土返還を要求しました。

最前線にいたハプスブルク家の軍隊は大砲や補給が不足し、装備もあまり整っておらず、船にいたっては3隻(商船ル・ルイ号を含む)しかなかったものの、皇帝ヨーゼフ2世はネーデルラント共和国との戦争を決定。10月30日に皇帝は宣戦布告し、11月18日にネーデルラント共和国は軍を編成しました。

ところがこの衝突ではほとんど戦闘らしい戦闘は行われず、唯一放たれた弾丸は一発だけで、それは「やかん」に当たりました。

そのためこの戦争は「やかん戦争」と呼ばれています。

 

6. アルーストック戦争(1838~39年)

Work by Nwbeeson

交渉で終結したアメリカとカナダの領土争い

アルーストック戦争は、アメリカ・メイン州とイギリス領北アメリカ(カナダ)のニューブランズウィック州の境界をめぐる「戦争」です。

アメリカ独立戦争の1783年の講和条約では、2つの地域の分水嶺の位置は不明確なままだったため、のちに争いが起きることになります。
アメリカとカナダからそれぞれ製材業者が進出し、1838年から39年にかけて両国の役人や兵士が不法侵入者を逮捕し捕虜にするなど、対立が激化しました。

1839年3月、イギリス軍がアメリカ領マダワスカに侵入すると、メイン州議会は1万人の義勇民兵を招集しアールーストックに派遣し戦闘準備をとらせました。

一方でアメリカ議会はウィンフィールド・スコット将軍を派遣。スコット将軍は1839年3月21日、イギリスのジョン・ハーヴェイ卿と停戦を取り決め、妥協点が見つかるまで係争中の領土を共同で占有することになりました。

結局争いは一人の死者も出すことなく終わり、領土争いはその後、1842年のウェブスター=アシュバートン条約で境界が確定しました。

 

7. レッドリバー橋戦争

新旧の橋をめぐる争い

オクラホマ州とテキサス州の境界にかかる橋を巡った「戦争」です。

レッド・リバー・ブリッジ社は、オクラホマ州コルバートとテキサス州デニソンの間を結ぶ有料の橋を経営する会社でした。

ところが1931年、テキサス州とオクラホマ州は共同で、有料橋の北西に新たに無料の公共の橋を建設してしまいました。

1931年7月10日、レッド・リバー・ブリッジ社は「1930年7月に有料橋を60,000ドルでテキサス・ハイウェイ・コミッションが買い取ると約束していた」という過去の契約を持ち出し、無料橋の通行停止を求めました。テキサス州知事スターリングはこれを受けて、新しい無料橋をテキサス州側でバリケードで封鎖するよう命じました。

これにオクラホマ州知事マレーが激しく反発しました。

マレー知事は、1819年の条約により川の両岸の土地はオクラホマに属するという理由で、新しい橋の開通とバリケードを破壊を命じました。

スターリング知事は州兵を新しい橋に派遣しバリケードを再建します。一方でマレー知事は作業員に命令し有料橋のオクラホマ側の破壊させました。

テキサス州議会が7月23日に臨時議会を招集し、この問題で会社側がオクラホマ州を訴えることを認める法案を可決した翌日、マレー知事は戒厳令を宣言し、自ら武装して橋を訪れ、どちらの橋も渡れるように指示しました。

最終的に、新旧両方とも橋は開通されることにになりました。

 

8.英瑞戦争(1810年〜1812年)

Photo by Joshua06

フランスに強制され、嫌々宣戦布告したスウェーデン

ナポレオン戦争中、スウェーデンは第4次対仏大同盟に加わったものの、フランス軍に敗北しました。スウェーデンは1810年1月6日にパリ条約を結び、イギリスに対する通商禁止措置である「大陸封鎖令」への参加を強制されました。また同年11月17日、スウェーデン政府はイギリスに対して宣戦布告をしました。

宣戦布告をしたものの、スウェーデンにとってイギリスは最大の貿易相手国であったため、経済的に切っても切れるものではなく、フランスの目を盗んだ密貿易が続けられました。

また戦いも行われず、スウェーデンはハノ島にイギリス船を駐留させ、貿易継続のため島を「占領」することさえ許しました。

1810年8月21日、ナポレオン軍の将軍ジャン=バティスト・ベルナドットがスウェーデンの皇太子に選出されると、彼はナポレオンの傀儡になるどころか、反仏政策をとりました。スウェーデンとフランスとの関係は悪化し、とうとう1812年にフランスがスウェーデンのポメラニアとリューゲン島を占領する事態になります。

スウェーデンは親英・反仏を明確化すべく、イギリスとの和平を求めました。1812年7月18日にエーレブロ条約が調印され、一人の死者も出さずに戦争は終了しました。

 

9. タラ戦争(1958年〜1972年)

排他的漁業水域をめぐるイギリスとアイスランドの争い

第二次世界大戦後、ノルウェーやアイスランドといった漁業依存度が高い国は、イギリスやフランスといった海洋大国が自国の沿岸地域で大規模に漁業を行うため、資源が枯渇し始めたことを問題視しました。

そこでノルウェーとアイスランドは12カイリの水域を独自に排他的漁業水域に設定。

イギリスは排他的漁業水域の設定に反対し、漁船に艦艇を護衛させるなどして示威行動をとりました。 アイスランドの沿岸警備隊は、「違法操業」をする他国漁船の網の切断や摘発を行います。対立はエスカレートし、アイスランド沿岸警備隊は、護衛に入ったイギリス海軍のタグボートを砲撃したり、艦艇に体当たり攻撃をするなどして抵抗しました。

この水域でとれるシーフードといえばタラなので、この争いを「第一次タラ戦争」と呼びます。

1971年に再びアイスランドの沿岸警備隊とイギリス海軍の衝突が起こり(第二次タラ戦争)、その後の国連海洋法会議では、排他的経済水域が50カイリと認められました。

1975年には、アイスランドが一方的に排他的経済水域を200カイリと宣言したことで、アイスランドの沿岸警備隊とイギリス海軍の衝突が起こりました。(第三次タラ戦争)

その後の国連海洋法会議の枠組み協議の中で、排他的経済水域は200カイリと定められることになりました。

一連の武力衝突で死者は発生していません。

reki.hatenablog.com

 

10. ロブスター戦争(1961年〜1964年)

ロブスター漁をめぐるフランスとブラジルの争い

ロブスター戦争はブラジルとフランスとの間に起こった漁業水域をめぐる争いで、タラ戦争と似ています。

1960年以降、フランスはアフリカのほぼすべての植民地を失い、モーリタニアやアルジェリアで操業していたフランスの水産業者は締め出されてしまいました。

1961年、フランスのロブスター漁船は新たな資源の獲得を目指してブラジル・ペルナンブーコ州の沖合で資源の探索を始めました。地元の漁師たちはフランスの大型漁船が来ていると当局に通報。ブラジル軍は2隻のコルベット艦を派遣し、フランス漁船を水深の深いところにまで追い出しました。フランス漁船は諦めきれず当局に通報し、海軍の駆逐艦を派遣して護衛をするように要求しました。

フランスのシャルル・ド・ゴール大統領は、2月21日に駆逐艦タルトゥの派遣を決定。 その後、ブラジル大統領ジョアン・グラールはフランスに48時間以内にフランス漁船の撤収を要求しますが拒否されたため、ブラジル海軍は1962年1月2日にフランス漁船1隻を拿捕しました。

ブラジル政府は、「ロブスターは大陸棚を這う」ためブラジルの資源と主張。フランス政府は「ロブスターは魚のように泳ぐ」のでどの国の漁船でも捕獲できると主張しました。

1963年、ブラジルは一方的に自国の領海を200カイリに拡大し、強制的にフランス漁船の排除を行いました。翌年、両国の協議の結果「操業料」をブラジルに払えば、特定の期間中のみ操業する権利を26隻の船に与えることで合意がなされました。

そういう取り決めさえなかったのかと驚きますが、昔はどんな傍若無人なことをしても許されるほど「列強」の力は強かったことが垣間見える話です。

PR

 

 

まとめ

緊張のきっかけは様々で、死者が出なかった理由も様々です。

単にポーズとしての宣戦布告だったり、戦端を開く意志がなかったり、そもそも戦いを始める能力がなかったり。一方で指導者による理性的な話し合いや仲介によって平和が保たれた例もあります。そっちのほうが合理的判断ということだったのだと思います。

現在の戦争指導者は犠牲がでても経済にダメージを与えても軍事的目標を達成することが「合理的」だと考えているのかも知れませんが、そういう「前例」を作ってしまうことが後の世界にどれだけ悪影響を与えるかまで全然考えてないのではと思います。

誰かが授業中に漫画を読み始めたら、絶対に真似する奴がでてくるものです。

 

参考サイト

「図説スイスの歴史」踊 共二 著 河出書房新社 2011年8月30日初版発行

"タラ戦争と漁業水域の変遷に関する研究" 荻原 祥輔 東京海洋大学, 2021

"Huéscar, the town that was two centuries at war with Denmark" Fachinating Spain

Kettle War - Wikipedia

"Aroostook War" Britannica

"The 335 Year War – The Isles of Scilly vs the Netherlands" Historic UK

Lobster War - Wikipedia