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近現代ラテン・アメリカの国家間戦争(前編)

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南アメリカ大陸でこれまで起こってきた戦争をまとめてみます

歴史の授業ではあまり習いませんが、ラテン・アメリカ諸国は結構国家間でドンパチやってます。

スペインとポルトガルから独立した直後もそうですが、南米諸国同士の領土争いもずっと激しかったし、20世紀は後半に入ってからも戦争がありました。特に南米を自分の裏庭とするアメリカ合衆国の軍事介入や、植民地時代の残滓の回復しようという動きから戦争が起きたりしています。

 今回は前後編で、19世紀〜20世紀のラテン・アメリカの国家間戦争をまとめてみます。

内戦を含めるともっと多いのですが、あくまで「国家間」の戦争のみに絞っています。

 

 1. スペインのヌエバ・グラナダ再征服

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 英雄シモン・ボリバル失意の敗戦

ヌエバ・グレナダは現在のコロンビア、パナマ、エクアドル、ベネズエラを含む地域で、カリブ海で活動するイギリスからの防衛を目的にペルー副王領から切り離され、独立した行政地域となりました。ヨーロッパに南米の製品を卸す商業地として繁栄しましたが、次第にスペイン人と現地のクリオーリョが対立。本国スペインがナポレオンに占領されブルボン朝が途絶えた1810年から事実上自立地域となりました。そのためクリオーリョはスペイン人を追放し司法権のほとんどを奪い、独立の構えを見せました。正式な独立宣言はしなかったものの、ブルボン朝が復活した後にスペインは早速ヌエバ・グレナダの再征服に乗り出します。
約1万の兵と60隻近くの船で構成されたスペイン遠征軍は、1815年4月にベネズエラに上陸。その後カタルヘナ、キト、ボゴタなど主要な都市を征服し、翌年5月に再征服を完了させ、クリオーリョの共和主義者を処刑しました。
この戦いに従軍していた共和主義者シモン・ボリバルはからくもジャマイカに逃れ、1816年からハイチの支援を受けてベネズエラに侵入。解放闘争を進め、大コロンビア、ペルー、ボリビアを独立させるに至ります。

 

2.  ポルトガルのバンダ・オリエンタル侵攻

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トルデシリャス条約が法的根拠になったスペインとポルトガルの争い

バンダ・オリエンタルは現在のウルグアイで、南米随一の良港モンテビデオのお膝元に発展した地域です。

元々は17世紀後半にポルトガル人が今のモンテビデオの西に町を建設しましたが、1720年にスペイン人がトルデシリャス条約を建前にしてポルトガル人を駆逐し、サンホセ要塞を築きました。その後ブエノスアイレス総督のブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラがサンホセ要塞を拡充してサン・フェリペ・イ・サンティアゴ・デ・モンテビデオを建設しました。

フランス革命後、イギリスはモンテビデオの領有を狙って侵攻してきますが、モンテビデオの有力一家出身のホセ・アルティガスが民兵を組織して抵抗しました。その後、南米各地で独立運動が起きると、連邦派のホセ・アルティガスも独立闘争に参加します。

アルゼンチンは1816年にスペインから独立しますが、すぐに独立後の国家像をめぐって連邦主義派と中央集権派とで激しい対立が起こりました。1820年にはカウディーヨ(軍事指導者)の実力が増して連邦主義派が力をつけ、中央集権派の筆頭ブエノス・アイレスを圧迫し一時中央政府が崩壊する事態となりました。

そのようなアルゼンチンの混乱に乗じて、1816年にポルトガルはバンダ・オリエンタルに軍事侵攻。1821年に完全占領しました。ブラジルは1822年にポルトガルより独立した際、ポルトガルよりバンダ・オリエンタルの領有を受け継ぎ、紛争の火種も受け継ぐことになりました。

 

3. シスプラティーナ戦争(ブラジル vs アルゼンチン)

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 初のラテン・アメリカ国家同士の戦争

独立したブラジル帝国はバンダ・オリエンタルを維持したため、アルゼンチン国内ではこれを奪還する声が根強くありました。しかしまだ国内の統一ができず中央政府が不在であったため、1825年にブエノス・アイレスは「中央政府が不在の際はブエノス・アイレスが外交権を行使する」という法律を制定して、かなりむりやり統一国家の体裁を整えました。そうして同年4月、ブエノス・アイレスはバンダ・オリエンタルに侵入した独立運動家アントニオ・ラバジェハを支援し、バンダ・オリエンタルのアルゼンチンへの帰属を宣言させました。

これに激怒したブラジルがアルゼンチンへの宣戦を布告し、1825年12月にシスプラティーナ戦争、別名ブラジル・アルゼンチン戦争が勃発します。戦いはアルゼンチン優位に進んでいましたが、アルゼンチン大統領ベルナルディーノ・リバダビアの中央集権的な政策に地方州が反発し、再び国家解体の危機に瀕したため、リバダビアはブラジルとの停戦を決めてしまいます。

リバダビアは焦るあまり、勝っていたのにバンダ・オリエンタルのブラジルの領有を認めようとしたため、全土で大反対が起きてリバダビアは辞職。またもや中央政府は崩壊しました。

戦争はブエノス・アイレス州長マヌエル・ドレゴが継続しますが、1828年8月に元々この地に野心のあるイギリスが停戦に介入。バンダ・オリエンタルを「ウルグアイ東方共和国」という名で独立させることで両国は合意しました。結局、イギリスが漁夫の利を持っていってしまったのでした。

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4. 大戦争(コロラド党&ブラジル vs ブランコ党&アルゼンチン)

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ブラジルが支援するコロラド党 vs アルゼンチンが支援するブランコ党

 1828年8月に独立したウルグアイは、共に独立を戦ったフルクトゥオソ・リベラとマヌエル・オリベの確執が激しくなり、リベラ派が赤の記章のコロラド党、オリベ派が白の記章のブランコ党を結成。コロラド党は都市部、ブランコ党派農村部を支持基盤とするようになりました。

そしてこのウルグアイの党派抗争が、アルゼンチンの中央集権派と連邦派の争いと連動。コロラド党は中央集権派、ブランコ党は連邦派の大統領フアン・マヌエル・デ・ロサスと結合しました。

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コロラド党はまたこの地域への進出を目指すフランスの支援を得ており、1838年7月にはコロラド党のリベラが大統領に就任。しかしアルゼンチンのロサス大統領はこの政権を承認しようとしなかったため、リベラはフランスの支援を得た上でアルゼンチンに宣戦布告。これが「大戦争」と呼ばれる戦いです。

この戦いでは、序盤はリベラ軍がオリベ軍をアルゼンチン領に追い詰めるも、アルゼンチン軍の介入でリベラ軍はウルグアイ領内に追い詰められていきました。オリベ軍は1845年2月に首都モンテビデオを包囲。リベラは3月にブラジルに亡命しました。

ここでバンダ・オリエンタルへの野心を未だに持つブラジルが戦争に介入。ロサスのウルグアイ影響強化を嫌って介入し、自由主義者フスト・ホセ・デ・ウルキーサを支援しウルグアイに侵攻させ、1846年2月にロサス軍を撃破しました。

一方、アルゼンチンのロサスはウルグアイのアルゼンチンへの併合決議を実施したため、ブラジルは先手を打って1851年にウルグアイに介入しコロラド党のリベラを政権に就け、またアルゼンチンにも介入し反ロサスの自由主義者フスト・ホセ・デ・ウルキーサを支援。ウルキーサは1852年にロサスを敗走させ政権に就きました。内戦ではコロラド党が勝利するも、その後もコロラド党とブランコ党の争いは終わりをみせず、アルゼンチンとブラジルの介入もあって内乱状態に突入していきます。 

 

5. パラグアイ戦争(パラグアイ vs アルゼンチン&ブラジル&ウルグアイ)

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潰えた大国パラグアイ建設の野望

 大戦争とウルグアイ戦争で見られた一連のブラジルによる介入は隣国パラグアイを大いに警戒させ、パラグアイ大統領フランシス・ソラーノ・ロペスは「パラグアイを大国化し、ブラジルやアルゼンチンに操られない自存自衛の国家」を目指し、鎖国体制を作り男たちに軍事訓練を施し、南米で最も精強な陸軍を構築。来るべき戦争に備えました。

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1863年、ブラジル政府はウルグアイ大統領ベーロに「ブランコ党による牛泥棒による被害の賠償と責任者の処罰」を求める最後通牒を送りました。ブランコ党であるベーロはパラグアイのロペスに支援を求めてパラグアイ軍の介入を求めますが、ブラジル軍はウルグアイの港を封鎖しブラジル軍をウルグアイに展開させたため、ベーロ大統領は失脚し、親ブラジル派のコロラド党フローレスが大統領に就任。ブランコ党の処罰と賠償金の支払いに応じたのでした。

ここにおいて、パラグアイ大統領ロペスはブラジル軍の戦線の乱れを突いて一気攻勢をかけることを決意。1864年11月12日、パラグアイ軍はパラグアイ川を封鎖しブラジル軍を拿捕し、精強な陸軍をブラジルのマット・グロッソに侵入させました。パラグアイ戦争(三国同盟戦争)の勃発です。

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Work by Hoodinski

パラグアイ軍は要衝コインブラやコルンバを占領し圧力を高めると同時に、南下してアルゼンチン領コリエンテスに侵攻しました。ウルグアイの反ブラジル派を支援すると共に、アルゼンチンの反体制派ウルキーサに対し「クーデターを起こしアルゼンチン大統領に就き、ブラジルと共に戦おう」というメッセージでもありました。

しかしウルキーサはこの求めに応じなかったため、ブラジルはアルゼンチンのバルトロメ・ミトレ大統領とウルグアイのフローレス大統領と三国同盟を結び、1865年5月1日にパラグアイに宣戦布告しました。

パラグアイ・ウルグアイ・アルゼンチン連合軍と共にブラジルに攻め入り首都リオ・デ・ジャネイロを占領するというロペスの構想は瓦解し、逆に三国に攻め入られることになってしまいました。

しかしパラグアイ軍は少数精鋭で手強く、戦線が長いためブラジル軍は苦戦し、戦線は長期化します。1866年に激戦の末にブラジル軍を主力とする連合軍がパラグアイ川を封鎖すると内陸国パラグアイは不利になり、4月に初めて連合軍はパラグアイ領に侵攻。しかしパラグアイ軍は「国土防衛戦」として女子どもも含め総力で抵抗を続けたため、連合軍の被害も甚大なものがありました。

 1868年8月にパラグアイ防衛の最後の砦ウマイター要塞が陥落し、パラグアイ軍は総崩れとなって首都アスンシオンに退却。1869年1月5日、アスンシオンは連合軍の攻勢の前に陥落。ロペス大統領は自分に従う部下を率いて首都を脱出し北部に逃亡し戦いを継続しましたが、翌年3月にセロ・コラーの地で壮絶に戦死しました。

 ブラジルはパラグアイと講和を結び、国境をブラジル優位に書き換えました。アルゼンチンは武器を大量にブラジルに輸出することで儲けることができました。

一方でパラグアイは国民の約半分が死亡するという大きすぎる犠牲を払い、社会インフラや人的資源も崩壊し、二度と強国として立ち直れないほどのダメージを受けたのでした。 

  

6. 連合戦争(ペルー=ボリビア連合 vs チリ&アルゼンチン)

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 大国を目指すペルー=ボリビア連合の野望

ボリビアは1825年に独立した後、建国の父シモン・ボリバルの意志を受け継ぎ、強力な中央集権、教会財産の没収、などの各種自由主義政策を実行しました。

一方ペルーは元々ペルー副王領が置かれた南米大陸の政治・経済の中心でありましたが、ボリバルの政策の下で中心地の地位を奪われ、ボリビアと大コロンビアに統合されて辺境の地位に落ちてしまうとい警戒感が強まりました。一方でボリバルの理想に共感する者も多く、ボリバル派と反ボリバル派の争いや軍人の反乱など混乱が続きました。これに乗じて1835年にボリビア大統領サンタ・クルスがペルーを占領。ペルー=ボリビア連合を成立させました。

 

▽サンタ・クルス

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ペルー=ボリビア連合の大統領サンタ・クルスはスペイン人とインカ人のハーフで、アルゼンチンのようなアンデスの大国を目指して自ら終身独裁官となります。北方に突然現れた大国に対し、チリでは反ペルー=ボリビア意識が募っていきます。1836年、亡命中の元チリ大統領フレイリがペルー=ボリビアの支援を受けてチリに侵攻する事件が発生。チリはこれに対する報復としてペルー=ボリビアに宣戦布告しました。

チリ遠征軍は1837年9月、バルパライソを出港しアレキーパに進軍しますがペルー軍の反撃にあい敗北。態勢を立て直したチリ軍のマヌエル・ブルネス将軍は1838年8月にペルー領内に攻め込みリマを占領し、ユンガイの戦いでペルー=ボリビア連合軍を降しました。この敗北によって連合は崩壊し、サンタ・クルスはヨーロッパに亡命しました。このボリビア、ペルー、チリの太平洋岸の三カ国は、1879年に太平洋戦争で再び相まみえることになります。

 

7. エクアドル・コロンビア戦争

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Work by David C. S.

謎が多い「大コロンビア復活」のための戦争

英雄シモン・ボリバルが独立させた「大コロンビア」は、1830年にベネズエラとエクアドルが脱退し、翌年にはコロンビアとパナマはヌエバ・グラナダ共和国として独立。ボリバルが夢見た大コロンビア構想はあえなく瓦解しました。

その後ヌエバ・グラナダ共和国は1858年にグラナダ連合、1863年にはコロンビア合衆国と名前をコロコロ変えていきました。コロンビアと隣国エクアドル国境問題が残り、またコロンビアにはシモン・ボリバルの大コロンビアを再度実現しようとする勢力も根強くありました。

1861年、エクアドルで保守派の大統領ガブリエル・ガルシア・モレノが就任し、カトリックを中心とした国内勢力の統一を開始すると、コロンビアのトマス・チプリアーノ・デ・モスケラ大統領はエクアドルのリベラル勢力を支援し、エクアドルの統一を妨害させました。1863年、モスケラはモレノに国境沿いでの会談を呼びかけますが、モレノが現れなかったため、コロンビア軍は約6,000の兵でエクアドルに侵入。併合を企みました。

コロンビア軍はクアスパッドの戦いでエクアドル軍を打ち破り、北部の町イバラまで到達しますが、ここでコロンビア軍の侵攻の足が止まり、同年12月に停戦合意が結ばれ、国境線は戦前のまま据え置かれました。

なぜ停戦合意に至ったかのか、資料が少なくよく分かりません。モレノはもっとスピーディーにエクアドルを併合するつもりだったのかもしれません。 

 

8. アクレ紛争(ボリビア vs ブラジル)

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 ブラジル人ゴム採集人が乗っ取ったボリビアのアクレ県

19世紀後半、ボリビア東部のアクレ県はゴム採集で活気に沸いており、周辺各国から一攫千金を求めてゴム採集人が集まってきていましたが、中でも多数のブラジル人採集人がアマゾンを鉄道で超えて働きに来ていました。

こうした中1899年7月、スペイン人のルイス・ガルベス率いるゴム業者らが、政治家、企業家、知識人などの支援を受けて、アクレ県のボリビアからの分離独立と「アクレ共和国」の樹立を一方的に宣言してしまいました。

この時は1901年までに沈静化するも、翌年にはブラジル人ゴム業者のプラシド・デ・カストロが煽動し、アクレ県の分離独立運動が発生しました。再びボリビア軍が出動しますが、ブラジルは自国民の保護を名目にブラジル軍をアクレ県に送り1903年に同地を占領しました。
この紛争の講和は1903年11月から始まり、「ペトロポリス条約」の締結によってアクレ県はブラジルに割譲されました。その見返りに、ブラジルはボリビアに賠償金200万ポンドを支払い、マデイラ・マモレ鉄道の建設を約束したのでした。

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つなぎ

 スペインとポルトガルの植民地争いからスターとしているものもがかなり多い印象です。なんも考えずにとりあえず決めたトルデシリャス条約が後になってこんな禍根を残すなんて。ほんとに法律はその場のノリと思い切りで決めては絶対ダメで、あらゆる観点からの検証、将来に渡ってどういう懸念があるかも含めて、をしなくては子々孫々に不幸を撒き散らすのだなとこれを見て痛感します。

次回は後編です。主に20世紀のラテン・アメリカの戦争を紹介します。

reki.hatenablog.com

 

 参考文献・サイト

 ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史) 増田義郎 山川出版

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史)

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史)

 

 "Viceroyalty of New Granada" Encyclopedia Britannica

"ECUADORAN-NEW GRANADIAN WAR 1863" ONWAR

"マデイラ・マモレ鉄道建設の政治・経済・社会的意義 : ブラジル旧共和制期における国土開発の試練 (創設50周年記念号)" 丸山 浩明