もしかしたら枢軸国の一翼になっていたかもしれない国
第二次世界大戦における枢軸国の主要参加国は、ドイツ、イタリア、日本の三国です。
この他に枢軸国側で参戦した国は、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、スロバキア、クロアチア、フィンランド、タイが挙げられます。その他には傀儡政権がいくつか枢軸国入りしたケースもあります。例えば、ヴィシー・フランス、ギリシャ、アルバニア、ビルマ、ベトナムなどです。
連合国も活発な外交を繰り広げ自陣の国を増やしていたわけですが、枢軸国も様々な外交チャネルや陰謀を駆使して自陣を広げるべく画策していました。
その結果いくつかの国は、何らかの条件が重なれば枢軸国入りをしていた可能性がありましたが、結局中立を保つことになりました。
1. スペイン国
最も枢軸国側での参戦が有力だった国
1936年〜1939年のスペイン内戦は後に第二次世界大戦の実験場と言われた戦いで、ナチス・ドイツとファシスト・イタリアに支援を受けたフランコ将軍が、ソ連や連合国に支援を受けた第二共和国を倒し、国家元首に就きました。
フランコ体制のスペインは、イデオロギー的には枢軸国に近い考えを有していましたが、内戦が終了したばかりで壊滅状態にある経済を立て直すためには、アメリカとイギリスを敵に回すことは得策ではない、とフランコは考えていました。特に石油はアメリカに依存しており、これを止められることは死を意味しました。
ヒトラーはスペインの枢軸国入りを目指しており、特に英領ジブラルタルの攻略と大西洋のスペイン領カナリア諸島のドイツ軍基地化を切に望んでいました。
1940年10月23日、ヒトラーとフランコはアンダイエで会談し、近い将来のスペインの参戦が合意されましたが、ドイツはスペインが望む穀物の供給を受け入れなかった上にスペイン領モロッコとカナリア諸島のドイツへの割譲への反発は根強く、翌年2月にフランコはアンダイエでの合意を破棄。
フランコは「奴(ヒトラー)と再度話すくらいなら、歯を3〜4本抜く方がマシだ」と述べ、ヒトラーへの嫌悪感を隠さなかったと言います。
ヒトラーは終戦までスペインの参戦を促し続けましたが、結局スペインは参戦することはありませんでした。
一方で約18,000人のスペイン人義勇兵が枢軸国側で戦っていたし、スペインの諜報機関は連合国の情報をドイツへ渡す働きも担っており、参戦はしなくとも準枢軸国のような形ではありました。
2. イラク王国
イギリスの支配から逃れるためにドイツと結託
イラク王国はスペインのフランコと同じく、実際にドイツ軍の支援を得て戦争を行なっているので、「準枢軸国」と言っていいかもしれません。
第一次世界大戦後の民族自決の潮流の中で、イラクも1932年にファイサル1世を国王に据えてイギリスから独立を果たしました。しかし、イギリス・イラク条約によってイギリスはイラク国内における数多くの特権を有し、特にイラク国内における石油利権の大部分を牛耳ったままでした。
イラク国民の反英感情は独立前と変わらず高かったため、ドイツと結んでイギリスを追いおとそうという意見はありましたが、ポーランド侵攻以降破竹の勢いでドイツがヨーロッパを席巻していくと、ますますドイツへの期待感は強まっていきました。
1939年9月、イギリス・イラク条約に基づいてイラクはドイツと国交を断絶するも、1940年3月には、反英派が親英派の首相ヌーリー・アッ=サイードを追い落とし、反英派ラシード・アリー・アッ=ガイラーニーが首相に就任しました。
ラシード・アリーは積極的な親枢軸ではありませんでしたが、ドイツともイタリアとも外交関係を維持し、バグダッドは枢軸国のプロパガンダの拠点となっていきました。
しかし北アフリカ戦線やバルカンで連合軍が勢いを盛り返すと、ラシード・アリーは立場を失い1941年1月にヌーリー・アッ=サイードが首相に再就任しました。
しかしわずか2ヶ月後、アラブ民族主義者の軍人がクーデターを起こし、再度ラシード・アリーが首相に就任。ラシード・アリーは摂政に自分の息のかかったシャリーフ・シャラフという男を就けて反英政策を遂行。親英政治家や市民を逮捕し始めたため、国王ファイサル2世を始め多くの人がイラクを脱出しました。
イギリスとイラクは一触即発状態となったため、4月17日にイラクはドイツへ軍事支援を求めます。これに対しイギリスは5月2日からイラクへの侵攻を開始しました。
ドイツ軍とイタリア軍はヴィシー・フランス領のシリアから航空機での輸送支援やイギリス軍への空中攻撃などで支援しますが、カイロ、パレスチナ、ヨルダン、インドなど周辺のイギリス軍による侵攻を受け約1ヶ月でイラク軍は崩壊しました。
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3. アルゼンチン
アメリカとイギリスの圧力によって枢軸との関係を破棄
アルゼンチン軍はドイツ軍を模して作られたこともあり、特に政治家や軍人に親ドイツ派が多く、大戦の初期はアルゼンチンは枢軸国との関係を保って中立を宣言しました。
アメリカは自分の裏庭に枢軸国が現れることに非常にナーバスになっており、経済的に圧力を加え枢軸国との関係を絶たせようとしました。
しかし、1940年7月に大統領となったラモン・カスティーヨは親枢軸政策をさらに推進し、ドイツから飛行機や武器などをドイツから購入しました。カスティーヨは戦争でのドイツの勝利を信じており、「アルゼンチンは地理的に戦争に耐えることができる」と言い近い将来の枢軸国入りを匂わせる発言すらしていました。
しかし1943年、軍部によるクーデターが発生しカスティーヨは追い落とされ、軍人ペドリ・パブロ・ラミレス率いる軍事政権が樹立されますが、中立は維持され続けました。
1944年、アメリカはアルゼンチンを「ファシスト」と分類し、財政と貿易を厳しくしました。イギリスはアルゼンチンのドイツ特使を拘束するなど、外交的圧力を強めていきました。
そしてとうとう1944年1月、ラミレスは枢軸軍とのすべての関係を断つことに同意しました。戦争が終わる1ヶ月前に形ばかりドイツに宣戦布告をしたものの、それまではずっと中立を維持し続けました。
4. イラン帝国
イギリス・ソ連に対抗するためにドイツに接近
ペルシア湾の要地・イラン帝国は独立を保っていたものの、経済的にはイギリスの半植民地状態に置かれ、北は強大なソ連が南下の機会を伺っていました。
そこで皇帝レジャー・シャーは両大国に対抗するためにドイツへの接近を長年図っており、政治的友好を保つとともに、経済的な協力関係を築いていました。
ドイツがポーランドへ侵攻を開始し戦争が始まると、イランは中立を宣言しドイツとの関係を維持し、輸出量の40%をドイツ向けにするなどドイツとの関係を強化しました。
イギリスとソ連はイランに対し圧力を強めますが、却って反英・反ソ感情を強め、親独意識を強めるばかりでした。
ドイツはイラン国内で「ヒトラーは復活した十二イマームでありマフディーである」「この戦いはユダヤ人やイギリス、ソ連とのジハード(聖戦)である」といったプロパガンダを流し世論を煽っていました。
独ソ戦開始後、ドイツ軍はカフカスを通過してイラク、そしてイランに進駐し、中東地域の石油を確保しつつ、ペルシア湾を抑えてソ連と連合軍の海の補給ルートを断ち、大英帝国の要であるインドへの圧力を強める戦略を描いていました。
そうなったら、イラン軍もアゼルバイジャンやアルメニアなどソ連に割譲させられた旧領を回復するために参戦を決意したかもしれません。
1941年8月25日、イギリス軍とソ連軍はイランに電撃的に侵攻。イギリス軍は海軍を無力化し航空勢力を破壊した後、戦車と歩兵で西部からなだれ込み、ソ連軍も北から攻撃を開始。わずか1週間ほどでイラン軍は壊滅し、皇帝レザー・シャーは息子のモハンマド・レザー・シャーに帝位を譲り、南アフリカに亡命しました。
5. アフガニスタン王国
パキスタンへの領土的野心から枢軸国へ接近
1933年に実権を握りアフガニスタンの近代化に務めたモハメド・ザイール・シャーは、国のさらなる発展のために海へのアクセスを模索しており、現在のパキスタンへの領土的野心を持っていました。
ですがアフガニスタン軍は弱く、とてもじゃないけどイギリス軍相手に戦いを挑む体力はない。そこで彼はドイツへ接近し、水力発電プロジェクトや工場の建設をドイツ企業に委託したり、ドイツ製の武器を購入するなどして親ドイツ政策を推進しました。
アブドゥル・マジド外務大臣はおそらく非公式に、ドイツに対しアフガニスタンはドイツ軍の進駐を受け入れる、という打診すらしていました。
インドへの野心を持っていたドイツからしても、目と鼻の先のアフガニスタンに軍事基地を構えることができるのは好都合だったでしょう。
反英・親枢軸のインド独立家のスバス・チャンドラ・ボースのインド脱出を支援したのもアフガニスタンです。
ところが 1941年中頃、独ソ戦が開始されたこと、イラクで連合軍が勝利したことでアフガニスタンは連合軍の海の中に放り込まれてしまうことになります。
1941年10月、イギリスとソ連は、アフガニスタンにドイツとイタリアの国民を追放するよう要求。やむなくアフガニスタンの指導者たちは、外交官の小グループだけを残し他のドイツ人とイタリア人を国から追放してしまいました。
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まとめ
ヒトラーとナチス・ドイツが掲げた理念や思想はとても共感できるものではありませんが、今回挙げた国もそれぞれの事情で枢軸国と結ぼうとしたんだなと、しみじみします。
大国の脅威に抵抗するために別の国と結ぶのは定石ではありますが、選んだ相手が悪かった、というのはあるかもしれません。
じゃあドイツと結ばずにイギリスやソ連の言う通りにすれば良かったんだ、というとそれはそれで別の悲劇が待ってたはずで、国際社会のサバイバルは本当にえげつないし、救いようがありません…。
参考サイト
"Was Spain really neutral in World War Two?" History is NOW magazine
"Afghanistan" World War 2 Database
Argentina during World War II - Wikipedia
"IRAN DURING WORLD WAR II" HOLOCAUST ENCYCLOPEDIA
"National Socialism and the German (mixed- race) Diasporas in Oceania, 2015"