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世界史の中の北海道史

「世界史の中での北海道」という視点

北海道はご存知の通り、アイヌ民族の居住地でありましたが、近代以降幕府や政府が経済開発を進める中でアイヌ民族は日本人の支配下に組み込まれ政治的にも経済的にも抑圧されてきた歴史があります。

そのアイヌ民族はアイヌ民族という枠組みで自分達を認識するようになるのは日本の北海道進出の影響が大きく、本来はいくつもの集団に別れ文化や言語も種類がありました。

また樺太や千島列島にも同族がいたり、大陸の狩猟採集民とも文化的な類似性を持つなど、独自の北東アジアのネットワークを有していました。

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1.北東アジアの民族集団ネットワーク

日本本土では縄文時代は紀元前10世紀くらいまで続き、大陸からの渡来民とともに稲作が入ってきて、西日本から徐々に定着し弥生時代に突入していくとされます。

ところが北海道では7世紀から8世紀まで狩猟採集と土器の縄文スタイルの文化が続きました。これを続縄文時代と言います7〜8世紀は日本本土では奈良時代で大和を中心とした王権が成立していきますが、北海道では5〜10世紀にかけて日本本土とは全く異なるオホーツク文化が浸透しました。

この文化は樺太南部、北海道北部、千島列島にかけて広がったもので、特徴としては大陸製の青銅器を利用し、また北東アジアの狩猟採集民と類似する意匠の土器を使い、漁労を中心とした生活を行う点です。

また熊の頭蓋骨を祀る点にも特徴があり、これらはアムール川下流域に住む靺鞨人、または樺太の先住民族ギリヤークとの共通性があります。この時代にすでに広範囲にわたって大陸と北海道、樺太、千島列島に人と物資の交流があったということです。

北海道の歴史を語ろうとすると日本の歴史の流れだけでなく、中国、靺鞨や女真など北東アジアの諸民族、近代以降はロシア、ソ連を抜きには語れないという点で、世界史的な広がりを持っていると思います。

 

2. 中国と日本の影響、モンゴルの襲来

東アジアは589年に成立した隋、次いで618年に成立した唐により、政治制度や文化が整備され、隋と唐にならって周辺国では王権体制が整備されていき、日本でも大和を中心に中国の諸制度に倣って国づくりを行なっていきます。

制度も魅力でしたが、もっと魅力的だったのが陶磁器や絹織物など中国製の奢侈品です。高度な技術で技巧が尽くされた中国製の奢侈品は、苦労してでも手に入れたいと周辺地域の人々に思わせるに十分な魅力を持っていたし、そのような威信物を持っている人物が集団内で尊敬され指導力を持ちました。

北海道にも中国製の産物を朝鮮半島や沿海州経由で手にいれる独自ルートがあったと思われます。

7世紀くらいから日本で編纂された文献には「えぞ」「えみし」と呼ばれる集団が登場する箇所がいくつもあり、その姿が異形であること、交易を求めて接触してきたこと、難破した渤海国の使節が略奪されたことなどが記されています。

いずれも日本の王朝には服さない北方の異民族であるという書き方をされていて、文献によっては女真や靺鞨のような大陸の諸民族とごっちゃになって語られています。

日本の王権は古代から東への拡大を行っており、坂上田村麻呂や安倍比羅夫の遠征など、蝦夷への遠征を行っており、王の権勢を広めるべく拡大していきました。

そのような日本王権の出先機関として機能したのが、津軽の安東氏です。

安東氏は鎌倉時代の初期から、日本の津軽・下北から北海道の渡島にかけて拠点を構え、内地からの流刑人の受入窓口となる一方で、北の蝦夷への抑えとしての機能を持っていました。

安東氏は自ら「蝦夷」と名乗っており、和人でありつつも半ば土着化したアイヌで、1356年に成立した『諏訪大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)』では「渡党」と呼ばれています。

津軽や下北、北海道南部に居住していたアイヌは和人の文化を受け入れつつ、和人は厳しい環境に適応するためにアイヌの生活を採用するなど、文化の混合が起きていたようです。安東氏は現在の青森県にある十三湊を抑えていました。

十三湊は内地と交易をするのみならず、日本海を横断して沿海州・朝鮮半島、樺太西岸をたどってアムール川流域にまで交易路を広げ、西の博多と呼ばれるほど非常に栄えていました。

ちなみに、『諏訪大明神絵詞』によると、北海道東部〜千島列島の人々は、東の蝦夷という意味で「日ノ本蝦夷」、北海道北西部から樺太にかけての人々は、中国の影響を強く受けていたという意味で「唐子蝦夷」と区分して呼ばれています。

この唐子という言葉は樺太という地名につながる呼称です。同じアイヌでも居住地によって微妙に異なる文化、風俗があったことが分かります。

アイヌは13世紀半ば以降、樺太にも進出していったようです。

もともと樺太には先住民ギリヤークが住んでいましたが、アイヌの進出によって居住地や狩場・漁場などをめぐって争いが起きていたと考えられています。

この樺太アイヌは、中国の文献では「骨嵬(クイ)」または「骨嵬(グウエイ)」と呼ばれ、ギリヤークは「吉里迷(ギリミ)」または「吉烈迷(ギレミ)」と称されています。

この時代、大陸ではモンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻している時代です。

元のアムール・樺太方面への侵入はフビライの時代に始まりました。元は沿海州南部からアムール川河口までを制圧し、アムール川とアムグン川が交わる奴児干(ヌルガン)に東征元帥府(とうせいげんすいふ)を設置し、吉烈迷を支配下に置きました。ギリヤークは大陸側にもいたわけです。

1264年、吉烈迷は元に対して、骨嵬の進出に困っていると助けを求める要望があり、これに応える形でモンゴル軍は樺太に渡り彼らを制圧しました。骨嵬は元に服属しますが、1284年に離反し、たびたび元に抵抗を繰り広げました。

『元分類』という書物によると、1297年に骨嵬王が率いる一隊が樺太から海を渡って大陸側に攻め込み、元の守備隊を攻撃したとあります。これは元軍に撃退され、再び1308年に元に服属して毎年毛皮をもって来貢するようになったそうです。

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3.江戸時代の経済発展を支えた蝦夷

安東氏は1442年、新興の南部氏に十三湊を落とされ北海道に逃げ、政治的混乱の中でコシャマインを中心としたアイヌの大反乱が起きます。これを制圧した客将(かくしょう)武田信広が娘婿として蠣崎氏の家督を継ぎ、蠣崎氏、後の松前氏が津軽、渡島を支配し、アイヌと対立しながらも権力基盤を強化していきます。

江戸幕府の幕藩体制では、蠣崎氏、松前氏による経営により北海道の日本化プロセスが進むことに加え、日本の内的植民地として北海道が位置付けられることになっていきます。

この時代の世界史的な出来事でいうと、日本の統一を成し遂げた豊臣秀吉による朝鮮侵略、文禄・慶長の役があります。ご存知の通り日本の遠征軍は明の援軍と朝鮮ゲリラ、李舜臣が率いる水軍の活躍で撤退に終わっています。この時、蠣崎氏も動員され、毒矢で武装したアイヌ人部隊300人を率いて肥前名古屋に赴き、秀吉に謁見したそうです。

当時秀吉は、朝鮮の北方と北海道が陸続きになっていると考えていたようで、朝鮮北部に住む女真族の動向が気がかりだった秀吉は、蠣崎氏を介してアイヌに対し日本人に刃向かうなと恫喝しました。秀吉は蠣崎氏が北海道の実質的な支配者であることを認め、日本の内地と北海道の交易は必ず松前で商売をするよう定めました。

江戸幕府を開いた徳川家康も基本的にこの方針を継承しており、また秀吉同様に北海道と朝鮮北部の地理的な関係に興味を持っていたようで、1599年に蠣崎慶広は蝦夷地の地図を家康に献上しています。

蠣崎氏は松前氏と名を変え、アイヌ交易を一手に握りました。

1618年に松前城に来たイエズス会の宣教師アンジェリスの報告によると、アイヌが松前に持ってきた品は干鮭、鰊、白鳥、鶴、鷹、鯨、トドの皮、トドの油、ラッコの皮などで、内地からは米、小袖、木綿の着物などがもたらされていたとあります。

当初は松前城で行われていた交易は、17世紀中頃には松前藩が家臣に商い場を与えそこで交易や漁を行う形式に変化しています。

ただし日本人の商いは横暴で、アイヌのルールを守らずに漁をしたり、アイヌから物品をタダ同然で買い叩こうとしたり、アイヌが抗議するとぶん殴ったり、粗暴な奴らが多かったようです。

不満をつのらせたアイヌ社会では、松前藩の支配と日本人への抗議から1669年にシャクシャインの乱が起きています。


日本人の北海道での商売はどんどん巨大化していきました。特に大きなビジネスになったのが当時「秋味」と言われた鮭です。

17世紀後半になると日本の商人が石狩川などで大量に鮭漁をおこない塩鮭を作って江戸や大阪など大都市に供給しました。

塩鮭は贈答品のほかに日常の食料としても好まれ、江戸の人々の重要な食べ物となりました。また鰊の取扱量も大きく、背の部分を割いて身欠き鰊に加工したり、背と頭、腹の部分は肥料となりました。

また鰊油も肥料になり、本土の農業開発を下支えしました。また北海道産の昆布が上方を中心に普及したのもこの頃です。

日本料理の基礎といってもいい昆布だしですが、北海道の開発がなければできなかったし、現在世界的にも評価の高い日本料理ですが、北海道の歴史的な貢献は非常に大きなものがあるわけです。

 

4. ロシアとの最前線へ

松前藩、ついで内地の商人が北海道の開拓を進めていた17世紀は、大陸ではロシア人のシベリア征服が行われていた時代です。

コサックのエルマーク・チモフェービチがウラル山脈を超えシビリ・ハン国を征服したのが1582年。そして探検家のイヴァン・モクスヴィチンがオホーツク海に到達したのが1639年です。ロシアのシベリア征服は主にクロテン、ギンギツネ、オコジョ、ラッコなどの毛皮を求め東へ東へと進んでいきました。

ロシア人の東進はとどまらず少なとも1733年にはアラスカに到達しているので、樺太や千島列島にももっと早く18世紀初頭にはロシア人がやってきていたと思われます。

松前藩は1759年、エトロフアイヌからの情報で赤い服の外国人が千島列島に基地を作っているという報告を受けています。ここから当時の日本人はロシア人のことを「赤蝦夷」と呼びました。

当時の千島列島は強力なアイヌ勢力があり、アイヌ部族同士の抗争が繰り広げられていて、18世紀中ごろでも松前藩や内地の商人も手を出せない状態でした。

1770年ごろには千島列島に進出しラッコ漁をするロシア人と、漁場を荒らされたエトロフアイヌとの抗争があり、ロシア人がエトロフアイヌの長老を殺害し、その報復としてエトロフアイヌがロシア人21人を殺害する事件が起こり、ロシア人はウルップ島から撤退しています。

この騒乱は日本人との争いにも発展し、1789年に日本の商人がクナシリ島と北海道東部メナシ地方でアイヌに襲撃され71人が殺害されています。

松前藩は鎮圧軍を送りますが、幕府はアイヌの背後にロシアがいることを恐れて手を出せず、結局アイヌの首長たちと妥協して首謀者を死刑にすることで落とし前をつけさせました。
この時代から北海道は日本とロシアとの最前線となっていきます。1792年には根室にロシア遣日使節ラクスマンが来航し、その6年後にはイギリス船ブロートン号が日本沿岸を航行し、緊張が高まりました。

ロシア人の接近は幕府に危機感を持たせ、幕府は北方の警備を強化しています。ただしこの時のロシアの目的は修好を交わすことと交易を行うことで、領土的野心がどこまであったかはよく分かりません。

1792年には、ラクスマンが今度は日本人漂流民の大黒屋光太夫を連れて根室と函館に入りやはり修好と通商を求めました。

1804年にはニコライ=レザノフがロシア皇帝アレクサンドル1世の書簡をもって長崎に来航し、かなり格式の高い全権大使として来日しますがこれも幕府は拒否しています。相次ぐ異国船の到来に、幕府は異国船打払令を布告し、北海道でも異国船と交戦状態になることもありました。そこで幕府は北方警備強化のために北海道を幕府領として体制を強化しています。

1853年にはアメリカ遣日使マシュー・ペリーが浦賀に来航し、翌年日米和親条約が締結されました。正式に開国した日本は正式に北海道の領有を宣言しますが、樺太についてはすでに進出を始めているロシアとの交渉が必要でした。

一方ロシアはアメリカやイギリスの日本進出に刺激を受けて、クリミア戦争終結後の1857年から樺太への進出を本格的に開始しました。

1859年、ロシア使節ムラヴィヨフは軍艦六隻を率いて品川に来航し、樺太の国境交渉を行いました。この時ロシア側は樺太は全島ロシア領とするという強固な主張で、日本側はアイヌが居住する北緯50度あたりまでが日本領とする幕府側と折り合いがつかず、明確に確定しませんでした。

この樺太領土問題が確定するのは、1875年の樺太・千島交換条約で樺太が全島ロシア領となってとされてからです。その後日露戦争終了後のポーツマス条約で南樺太は日本領とされ、太平洋戦争後はソ連、ついでロシアの実質的な領土となっています。

北海道は明治以降、日本本土の北方の防衛を担いつつ、政府や民間の投資、全国各地からの開拓民の導入により農業、水産業、鉱工業、牧畜業が発展していきます。

明治政府はアイヌに対し生活、言語、文化の同化政策をとり、強制移住や同化教育により日本人化を進めていきました。明治政府のこの内国植民地・北海道でのやり方は、のちに台湾や朝鮮半島といった海外植民地でも実施されることになるわけです。

 

5.戦時体制と北海道

昭和に入り日本は軍備拡張と領土拡大に突き進んでいきます。

第一次世界大戦中、日本はヨーロッパ諸国がアジアから手を引いた隙に乗じて急速に経済発展し、軍需物資の輸出で好景気に湧きますが、戦争終了後の需要の縮小により、経済は苦境に陥ります。

そこに1927年、関東大震災の震災手形の処理に端を発した昭和恐慌が始まり、1929年にニューヨークではじまった世界恐慌が不況に追い打ちをかけました。クビ切りや凶作、農作物の価格下落により人々は生活苦にあえぎ、労働争議が多発するようになります。そんな中で軍部は事態打開を図ろうと満州事変、満州国建国、さらには日中戦争と軍事力を用いて強制的な資源と土地の分捕りに乗り出していきます。

軍需生産の拡大により、北海道の工業生産は急速に発展し、軍部への供出のための農産物の需要も高まりました。また満州開拓のため北海道からも移民が送り出され、1913年に満蒙開拓青少年義勇軍が出発しています。

1941年12月8日択捉島単冠湾(ひとかっぷわん)から出港した連合艦隊の機動部隊はハワイ真珠湾を攻撃し、太平洋戦争がはじまりました。

北海道も戦時下に入り、大政翼賛会が発足して無政党状態が生じ、道内の市、町も全面的に国家統制されました。生活必需品も配給体制になり、戦地への動員、軍需工場や農場への勤労奉仕が課せられ、国民が総動員されました。

戦地への青年の動員により労働力が慢性的に不足した北海道では、朝鮮人と中国人が動員されました。北海道では朝鮮人が約14万5000人で、炭鉱や鉱山、土木工事など過酷な労働に従事されました。

中国人は1944年3月から本格動員され、約1万5051人が特に劣悪な条件の現場で働かされました。これら朝鮮人と中国人の動員は最初は募集、次に官斡旋、最後には徴用と、労働力不足を補う形で強制力を伴う動員がなされ、いわゆる強制連行に近いものがありました。
次に将兵についでですが、北海道で編成された師団も各地で転戦しています。旭川第七師団はもともと対ソ連のため設置された部隊でしたが、満州事変以降は満州に派兵され、ノモンハン事件で1505人の死者を出しています。

太平洋戦争勃発後は北のアメリカへの押さえとしてアリューシャン列島を占領し、アッツ島とキスカ島に北海守備隊が置かれました。しかし1943年5月のアメリカ軍の反攻でアッツ島守備隊は玉砕しています。

1945年4月から始まった沖縄戦では、主力師団の第24師団は北海道出身の兵で構成されていました。沖縄戦では北海道出身兵は1万85名が戦死しています。

大戦も末期になると、北海道の各地がアメリカ軍の空爆を受け、室蘭、根室、函館などの沿岸の都市部を中心に、78市町村で爆撃機による空襲で1925人の死者が出ています。

1944年2月、連合国首脳のルーズベルト、チャーチル、スターリンはクリミア半島のヤルタで会談し、戦後処理に関するヤルタ協定を結んでいました。

この時アメリカとイギリスはソ連に対して、中国大陸の日本軍を攻撃する見返りに、千島列島と南樺太の領有を約束していました。

もはや満州駐在の日本軍は脆弱だったわけですが、ソ連は日ソ中立条約を破棄して1945年8月8日から満州に侵入し、千島列島では14日から攻撃が始まり、8月28日に択捉、9月1日に国後と色丹、9月3日に歯舞に上陸しました。

また主に満州でとらえた日本人将兵と軍属をシベリアに抑留し、強制労働にあたらせました。抑留されたのは約57万5000人で、死亡したのは約5万8000人のものぼります。北海道から動員された将兵の死者数は、シベリア抑留も含めると10万9500名にもなります。
そしてこの時、日本のポツダム宣言受諾以降にソ連が占領した北方4島は、1951年の日ソ共同宣言以降も返還されておらず、ロシアの軍事基地が置かれ、ロシア化が年々進行し、返還されるのはかなり厳しい状態になっています。

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まとめ

北海道は歴史的に明確に、日本とは異なる環北日本海の文化圏にあり、日本はもちろんですが、中国や朝鮮、女真、靺鞨、ギリヤークなど様々な民族の影響を受けてきました。

北海道の歴史を語ろうとすると、どうしても北海道が鎌倉時代以降、内地の日本人の政治経済的進出、搾取、圧政に見舞われてきたか、そして日本の政治・経済・文化が、アイヌの人たちの犠牲の上に成り立っていることを、どうしても強調せざるを得ません。

世界史の中でみたら、日本という世界でも稀有な発展の仕方をした国が、その発展の過程でどのように北海道を利用してきたかというのは、これは世界史的な視点があると思います。

また、いわゆる辺境地としての土地に、ロシアをはじめとした欧米のパワーが及んできた時に、在地勢力としての江戸幕府がどう対応したかという点もあります。

辺境への欧米勢力の到来というのは世界中にケーススタディがあります。他国・地域とのケースを比較分析してみると面白いものがあると思います。

 

参考文献

『岩波講座日本通史 第10巻 中世4』 特論 北海の交易-大陸の情勢と中世蝦夷の動向- 佐々木 史郎 著 岩波書店 『北海道の歴史』桑原真人, 田端宏, 船津功, 関口明 著 山川出版社 『アイヌ民族と日本人: 東アジアのなかの蝦夷地』菊池勇夫 著 吉川弘文館

 

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