歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

歴ログ-世界史専門ブログ-は「はてなブログ」での更新を停止しました。
引き続きnoteのほうで活動を続けて参ります。引き続きよろしくお願いします。
noteはこちら

近代ロシア海軍の誕生−ピョートル一世の軍事戦略−

f:id:titioya:20220124164656j:plain

ピョートル一世が推進した海洋大国ロシア

大北方戦争とは、バルト海沿岸地域を支配する大国スウェーデンと、反スウェーデンの軍事同盟諸国との戦争です。

反スウェーデン連盟の主力はロシア、デンマーク、ポーランドで、これらの国々はバルト海沿岸のスウェーデン領土の獲得や軍事的脅威の排除を目指して戦いました。

この戦争に敗れたスウェーデンは地域大国の地位から後退します。代わりに、大帝と称されるロシアのピョートル一世が帝国ロシアの礎を固め、北方の大国として君臨する契機となりました。

PR

 

1. スウェーデンの覇権の拡大

三十年戦争を機に地域の軍事大国となったスウェーデンは、17世紀中頃までにバルト海沿岸に領土を広げ「バルト帝国」を形成していました。

f:id:titioya:20211003204504p:plain

The Creative Commons Attribution 3.0 Unported license. Work by Memnon335bc

1654年にはスウェーデンはヴァーサ王朝からプファルツ王朝に代わるも帝国は維持され、スウェーデン王カール10世グスタフは一部のポーランド貴族と連携し、自らポーランド王位を戴冠すべく軍事侵攻をしました。結局カール10世の野心はポーランドのレジスタンスによって挫かれ、スウェーデン軍は1659年にポーランドから撤退するも、バルト海沿岸の覇権は確立したままでした。

デンマーク=ノルウェーはスウェーデンのポーランドでの苦戦を見て宣戦布告をするも、スウェーデン軍はデンマーク軍を圧倒し降伏させました。その後戦争が再開するも、デンマークがプロイセンやオーストリアと結んだことでスウェーデン軍はデンマークからの撤退を余儀なくされました。さらには、スウェーデン王家が神聖ローマ帝国内にあるホルシュタイン公国のホルシュタイン・ゴットルプ公家と姻戚関係を結び、ホルシュタインへの領土的野心を持っていたデンマークとの関係は最悪になりました。

スウェーデンにいいようにやられていたデンマークとポーランドは1698年に対スウェーデン同盟(北方同盟)を結びます。この反スウェーデン同盟にロシアも1699年に参加しました。

ロシアは1598年にリューリク朝が断絶した後に大動乱時代を迎え、1613年に成立したロマノフ朝で荒廃した国土の再建と帝政の基盤固めが進められました。

ロシアの長年の課題は海への出口を得ること。そのためには南の黒海・アゾフ海か西のバルト海のいずれかに拡大をしなくてはなりませんでした。それは大国のオスマン帝国かスウェーデンのどちらか、または両方と対決することを意味します。

これに挑戦し成し遂げたのが、大帝と称されるピョートル1世でした。

 

2. 軍事大国化を進めたピョートル1世

f:id:titioya:20211003230841j:plain

ナルヴァの大敗

ピョートル1世は西ヨーロッパの制度やテクノロジー、文化文物を非常に好んだ人物です。イギリスなどをめぐる使節にまぎれこんで、造船所で一職人として働いたエピソードは非常に有名です。

彼はヨーロッパ諸国に黒海・アゾフ海に出るための対トルコ戦争の協力を求めますが、当時の西ヨーロッパではトルコよりもスウェーデンの脅威の方が高まっていました。

そこでピョートル1世は1700年7月にオスマン帝国と講和を結ぶと、対スウェーデン戦争に参戦。1700年9月にスウェーデンの港町ナルヴァ(現エストニア)を包囲しました。ナルヴァを包囲したロシア軍は2万7,000の歩兵、500の竜騎兵、6,500弱の騎兵、合計3万5,000。大砲も173門もあり、武装市民400を含むスウェーデン守備軍1,900を数の面で圧倒していました。

しかし突貫で作ったロシア軍は訓練不足で武器の質も悪く、兵站も不慣れで弾薬や食料がすぐに尽きてしまい苦戦を強いられます。

さらにロシアにとって不運だったのが、当時のスウェーデンの指導者が軍事の天才と言われたカール12世だったこともあります。

f:id:titioya:20211005004452j:plain

ナルヴァ包囲を聞いたカール12世は、背後の安全を確保するためデンマークに一撃を加えて講和条約を押し付け、休む間もなく海路ナルヴァに急行、11月19日に吹雪をついてロシア軍を急襲しました。

運悪くピョートルは不在で、ロシア軍は中央を突破され左右に分断され、約8,000の兵と砲145門を失い完敗。ロシア軍は壊滅状態となりました。

▽降伏するロシア兵

f:id:titioya:20211005000310j:plain

この時のピョートル1世の絶望たるや、凄まじいものがあったことでしょう。

しかし彼はすぐに軍を再建すると共に、軍需関連産業の抜本的な改革に取り組みました。過去以上にスピーディーに、そして徹底的にやるのがピョートル流であります。

 

軍需工業の成立

ピョートル1世がロシアの君主になった時、ロシアの財源は非常に貧しいものでした。1709年にイギリスが使った軍事予算は当時のロシアの国家予算のおよそ10倍。

ピョートル一1世はまず軍事力を備える前に、財源をかき集めなくてはなりませんでした。彼が生かしたのは臣民に対し強制的な権力を行使できる封建的なロシア国家システムです。

ロシアでは土地の私的所有権が未発達であったため、ピョートル1世は国内の森林や鉱物資源を自由に使うことができ、君主の号令以下軍事産業育成のための資源を好きなだけ入手できました。 1701年から順次、ウラルやリペック、オネガ湖の周囲に軍需工場が建設されていきました。 ロシアでは軍事の必要から工業化が進展したのです。

さらにピョートル1世にとって優位だったのは、ロシアの農奴制システムです。必要な時、必要なだけ、必要な場所に、安価な労働力を投入できるのは大きなメリットでした。

他の西ヨーロッパの諸国と比べると、君主の意志さえあれば大きな抵抗なく大規模かつスピーディーに工業化を推進することができたのでした。

 

常備軍の創設

このアドバンテージは軍隊編成にもありました。

1699年11月、ピョートル1世は一般民衆から軍隊に新兵を「強制的」に徴集する布告を発しました。徴集された兵士は陸軍および海軍に振り分けられ、常備軍を形成しました。徴集された兵士は農奴出身者で、徴集されると農奴身分から解放される上に俸給ももらえるし、活躍すれば出世するチャンスすらありました。

当時の人々にとって軍隊に入隊することは社会的身分を向上させる唯一に近い機会であり、彼らはに非常に熱心に任務にあたりました。

後々も問題になるロシア社会の「後進性」がこの時は大きなメリットになったのでした。

PR

 

 

3. ポルタヴァの戦い

ピョートル1世は1703年には、ネヴァ河河口の荒れた沼地に新しい都ペテルブルクを建設。また本格的な艦隊の整備も開始しました。

同年、ロシアのバルチック艦隊の建造計画が実行に移され、フリゲート艦12隻、ガレー船・小型船10隻が建造されました。さらに新都ペテルブルクを防衛するためのクロンシュロット堡塁とコトリン堡塁が1704年に建設され、ロシアの海の攻守が確実に作られていきました。1704年、ロシア軍は再びナルヴァを攻めてここを占領します。

ロシア軍の軍備拡張はさらに続き、1705年には年に三万人以上の兵を確保する新制度を成立させ、軍官学校を新設して貴族出身の指揮官を要請。ナルヴァ敗北時には約4万だったロシア軍は、1708年には11万3,000人に急拡大していました。

脅威が高まるロシア軍に対し、カール12世も手をこまねいたわけではありません。

難敵だったポーランド国王アウグスト2世を屈服させたカール12世は、1708年秋からモスクワ攻略を目指して軍を進めます。ウクライナではヘーチマン国家の独立を目指すウクライナ・コサックの頭領イヴァン・マゼッパと合流する予定でした。

しかしスウェーデン軍はレスナヤの戦いでロシア軍の攻撃を受けて打撃を受け、しかも冬将軍の到来で多くの将兵が凍死。何とかウクライナ平原で冬越しをして春を迎え、スウェーデン軍はロシア兵4,200が守るポルタヴァ要塞を包囲しました。

f:id:titioya:20211003152745p:plain

ポルタヴァを包囲したスウェーデン軍は2万6,650人の兵と大砲 41門。一方、ポルタヴァ救援のロシア軍は約8万人、大砲は282門も有していました。

この時のロシア軍は数だけでなく、砲兵もよく訓練され、砲自体の質も向上しており、スウェーデン軍を圧倒しました。スウェーデン軍は9,234名を失い、約3,000名が捕虜になり、約1万6,000名が降伏をする大敗。

カール12世自身も腿に傷を負いながらも、騎兵1,500名を引き連れてオスマン帝国に逃れました。この後5年間は帰国することができず、異国の地で再起を図ることになります。

一方のロシア軍は死者1,600、負傷者3,000と比較的軽く、今度はロシア軍がスウェーデン軍を壊滅させたのでした。

こうしてロシア軍はラトヴィア、エストニアを併合し、ロシア艦隊の本格的な運用に乗り出すことになります。

 

5. ロシア艦隊の衝撃

1707年から、ピョートル一世の大号令のもとで対スウェーデンのためのバルト艦隊の集中的な建設が開始されました。

ロシアの工業やリソースの大部分はこちらに割かれるのですが、この時まさにスウェーデン軍がモスクワヘと進軍し、ポルタヴァに陣取っていました。

常識的には、モスクワ防衛のための兵や砲弾を製造するほうが優先順位が高いはずで、こんなタイミングで艦隊建設にリソースを割くなどありえないことです。しかしピョートル一世の読みは当たって、ポルタヴァでロシア軍は決定的な勝利を得て、スウェーデン軍を壊滅させたのでした。

1710から1724年までの間に、ロシアは34隻の主力艦を製造し、その他にも外国への発注で5隻、鹵獲した13隻を保有する海軍大国に成長しました。その他にも、海岸近くの軍事行動を可能にするガレー船艦隊も創設し、すでに1704年には約100隻のガレー船を有していました。1714年のハンウー半島沖海戦、1720年のグレンハム島沖海戦でこのガレー船艦隊は勝利に大きく貢献しました。

 

6. 海洋大国ロシアの出現

ピョートル一世が大きなリスクを冒してまで創設したバルチック艦隊は、その歴史的意義について議論があります。

イギリスの歴史家 M.S. アンダーソンは、端的に言うと「その創設に関わる膨大なエネルギーと資源の割には、その成果は1696年のアゾフ占領と、1713~1714年のフィンランド占領くらい」であり、「ピョートル一世の彼の情熱のみで艦隊を創設したにすぎず、そもそも需要がなかったので、彼の死後バルチック艦隊は衰退した」と評価しています。

しかし、実際のところ1713~1721年までロシア艦隊は対スウェーデン軍事行動で主要な役割を果たしていました。

1719年、ナウーマ・セニャヴィン率いるロシア艦隊は 8時間におよぶ戦闘で 3隻のスウェー デン艦船を捕獲。1721年には ロシアは28隻の主力艦をバルト海で移動させた一方で、スウェーデンは11隻の主力艦しか派遣できませんでした。これはバルト海の海上覇権がスウェーデンからロシアに移動したことを意味する象徴的な出来事でした。

さらにはロシアが交易や人的交流を含めた「海洋帝国」となるのは、ロシアが常備軍としての海軍を持ち、軍港を構えることでようやく可能になったのです。

ピョートル一世は、バルチック艦隊は軍事面のみならず、政治経済にも必要不可欠なものと考えていました。航海訓練を積んだ艦隊の行先として、ピョートル一世はインド、中国、日本までもその視野に入れていました。またアメリカ大陸の進出も考えられており、実際にカリブ海のトバゴ島を購入する計画も検討していました。

通常、このような海上勢力の発展は暫時的なものです。

まずは漁業、次いで商業、その後海洋での利益保護・安全確保のための海軍力の創設が必要になる、というステップですが、それとはまったく異なるフローを経ました。

すなはちピョートルー世はまず、「ロシアを海洋大国する」というゴールを設定し、艦隊建造から始め、その後ロシアの港に外国の商船を引き付け、漁業などの周辺産業を発展させるというまったく逆のプロセスを行わせました。

そういう点で、ペテルブルクはロシア海軍、ひいてはロシアの海上戦略の中心であり象徴的な存在でした。

スウェーデンとの戦争が終結すると、ペテルブルクには交易船が数多く到来し、1722年には120隻、1723年には383隻の商船がやって来ました。ペテルブルクはバルト海最大の港となり、ロシアはスウェーデンから軍事のみならず経済の点でも覇権を奪い取ったのでした。

PR

 

 

まとめ

ピョートル一世のエピソードは数多くありますが、彼の「こうであるはずだ」という確信から逆算して物事を作っていく意志は凄いものがあります。

現在のロシア連邦もピョートル一世が構想した「強いロシア」の延長線上にあるとは思うのですが、今のロシアの為政者がちゃんと考えているのか首を傾げたくなる部分も多くあります。

ウクライナやベラルーシを始めとした旧ソ連諸国への政治・武力介入。アサド政権のシリアへの軍事介入。アメリカやヨーロッパへのサイバー戦・情報戦。

「強いロシア」を示せてはいるものの、それが経済的なメリットをどれだけ実現できているか甚だ疑問です。むしろ経済制裁を喰らって泡くって、ますます強固になってきています。

プーチン大統領の尊敬する人物はピョートル一世らしいですが、もしタイムマシンでピョートル一世がやってきて今のロシアを見たら何というでしょうか。

 

参考文献

「ピョートル一世の軍事改革」 P.A.クロートフ著 駿台史學 第161号 26-Sep-2017

"世界の戦争・革命・反乱 総解説" 自由国民社 「北方戦争」