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なぜ「内モンゴル」と「外モンゴル」は分裂しているのか?

1921年モンゴル革命と「二つのモンゴル」の成立

我々が「モンゴル」と言うと、通常それはウランバートルを首都とするモンゴル国のことを指します。

しかし中華人民共和国の北部には「内モンゴル自治区」という自治区があります。

いわばモンゴルは二つに分割されている格好です。現在では目立った統一運動はないのですが、かつては統一を目指す動きがありました。

モンゴルは清朝の支配下にあった時、内モンゴルは中国の強い影響下におかれましたが、外モンゴルは間接統治の状態にありました。1921年外モンゴルで起きた革命によってモンゴル人民共和国が成立しますが、内モンゴルは中国側に据え置かれ、統一モンゴル国家を作る運動があったものの、太平洋戦争後に現在の「内モンゴル」と「外モンゴル」に分裂された形が定着しています。

 

1. 清朝によるモンゴル高原支配

かつて恐れられたモンゴルの強大な軍事力は17世紀から衰え始め、満洲民族が建てた清朝の影響下に入っていきました。

比較的北京に近い内モンゴル(現・内モンゴル自治区)では、蒙古八旗を中心に清朝の軍事力の中心的存在になるなど体制に取り込まれました。一方で距離のある外モンゴル(現・モンゴル国)では間接統治が行われ、清朝とも比較的距離感がありました。

清朝の政権と内モンゴルのモンゴル人との関係が親密なうちは、まだ清朝はモンゴル人の利益保護を尊重して漢人のモンゴル進出を制限していましたが、19世紀末になると漢人の商人や農民が大挙して内モンゴルに進出していきました。これには、ロシア人の南下に備えて漢人を北方に住まわせて防波堤にしようという狙いがありました。

進出した漢人はモンゴル高原の人々の生活を一変させました。土地は農民によって開墾され遊牧民の放牧地が姿を消していき、金貸しは高利で無知なモンゴル人に金を貸し、返済できないと家畜や家財を奪っていきました。

牧畜民の貧困化が進み、漢人こそが富の収奪の原因として反清朝感情が高まりました。

モンゴル人が漢人と自分達を相対化して見れたのは、宗教の力もあります。モンゴルでは16世紀以降、チベット仏教が定着しており、清朝はモンゴルでチベット仏教を保護し、活仏による転生も認めました。篤い信仰を集める活仏は人々の結束の中心的な存在となりました。

 

2. 辛亥革命と内蒙古・外蒙古の分割

1906年、清朝の行政改革の一環で、モンゴルの資源の開発推進や新式軍の配備を行う政策が打ち出され、1910年からは北京から満州人官吏が責任者として着任しました。既に反清感情が高まっていたモンゴルでは独立運動が高揚しました。
そんな中で、1911年10月に辛亥革命が発生。これを好機として、外モンゴルは同年12月に独立を宣言。活仏ボグド・ハーンが帝位に推薦され、「大モンゴル国」が成立しました

 

▽ボグド・ハーン

ボグド・ハーンは中国の強い影響下にある内モンゴルの統一を目指し、ロシアの援助を受けようと使節を送りました。しかし当時のロシアは中国との軍事衝突を恐れていた上、日本とも密約を交わし外モンゴルをロシア、内モンゴルを中国の勢力圏にすると確定させていました。1913年にはロシアは中国とも覚書を交わし、中国は外モンゴルの自治とロシアの権益を認める代わりに、ロシアは外モンゴルに対する中国の宗主権を認めることになりました。1915年のキャフタ条約でこの覚書は確定され、中国の宗主権下での自治のみが外モンゴルに承認されました。

内外モンゴルの統一運動は内モンゴルでもあったものの、漢民族の支配が強くなっていた内モンゴルでは既に実現は困難になっており、中国も絶対に内モンゴルを手放そうとはしませんでした。こうしてこの時代に既に、内モンゴルと外モンゴルの政治的な分離が進んでいきました。

外モンゴルでは、中国とロシアの資本の進出に加え、モンゴル封建諸侯やラマ僧による民衆の搾取は苛烈になり、遊牧民らの貧困化は一層深刻になっていきました。

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3. モンゴル革命の成就

自治の撤廃

後のモンゴル革命の中心的存在となるホルローギン・チョイバルサンは、ウランバートルの運輸労働者として働いていたところ、新しく開かれたロシア語学校の生徒となり、1914年に留学生に選ばれイルクーツクの学校に送られました。
その地でチョイバルサンは、1917年のロシア二月革命を目の当たりにします。

労働者の革命集会を目撃した彼はその熱気と興奮に感化され、革命思想に傾倒するようになりました。

一方で外モンゴルではロシア革命の勃発によりロシアの影響が低下し、中国勢力が増大していました。1919年11月、安徽派の軍人徐樹錚が率いる軍がボグド・ハーンの宮殿を包囲し、自治の放棄を迫りました。ボグド・ハーンはこれを飲み、こうして外モンゴルは中華民国の一部となりました。

絶望する諸侯の中には独立回復のために日本に期待する向きもありました。しかし当時日本はシベリア出兵を機にコサックのグレゴリー・セミョーノフと部下のロマン・ウンゲルンを支援してバイカル湖東部に傀儡国家であるザバイカル共和国を作らせ、モンゴルの奪取を狙っていました。当時は腕力が強くないと大国に好き勝手にやられるだけだったのです。

 

▽グレゴリー・セミョーノフ

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▽ロマン・ウンゲルン

 

モンゴル革命

ウランバートルに帰国していたチョイバルサンは、革命ソ連こそがモンゴルを解放してくれると確信し、ソ連領事館を拠点にドグソミーン・ボドー、ダムビン・チャグダルジャヴらと秘密結社を結成しました。

同じころ、ウランバートル東部でも元軍人のダムディン・スフバートルやソリーン・ダンザン、ダンスランビレギイン・ドグソムらからなる革命グループ「東庫倫」が結成されていました。両派は、ロシア人革命家やソ連政府の指示を受け、1920年6月に合併。モンゴル人民党を結党します。

1921年2月、日本の息のかかったロマン・ウンゲルンがウランバートルに侵攻し駐在の中国軍を撃破。ボグド・ハーンを復位させ、重税、強制動員、掠奪なんでもありの過酷な支配を開始しました。

ここにおいて、チョイバルサンらのモンゴル人民党は「モンゴル人民解放」「中国軍閥やロシア白軍の駆逐」を掲げ独立戦争の開始を決意。総司令官ダムディン・スフバートルの指揮の下で1921年3月に人民義勇軍は蜂起します。

同月、赤軍からも支援を受けた人民義勇軍は中国軍をキャフタに追い払い、7月にはウンゲルンのロシア白軍をウランバートルから追い出すことに成功。7月11日に革命政府を樹立しました。

その後革命政府は1924年11月の君主ボグド・ハーンの死を待って、「モンゴル人民共和国」の成立を宣言しました。

こうして外モンゴルはソ連の衛星国となり、世界で2番目の社会主義国となりました。

 

4. 内モンゴルによる外モンゴル統合の試み

外モンゴルが独立したことで、内モンゴルでもこれに合流しようという動きが生まれ、1925年に「内モンゴル人民党」が成立しました。

ところがモンゴル人の諸侯の間では、独立はしたいものの、社会主義革命が起きて自分達の立場が無くなることを恐れる人が多くいました。そのため彼らは中国政府による支配を受け入れ、代わりに支配層としての立場を維持しました。

1932年、日本が満州事変を機に満州国を成立させると、内モンゴル東部は満州国の一部に取り込まれてしまいました。これを内モンゴル独立と外モンゴルとの統合のチャンスと見たのが、王族の徳王(デムチュクドンロブ)です。

徳王は中国政府にモンゴル自治拡大を要求。蒋介石は日本と徳王が結ぶことを恐れ、これを認め、1934年に蒙古地方自治政務委員会(百霊廟蒙政会)が結成されました。

 

▽徳王(左の人物)

日本軍はこの地域の影響力拡大を狙って徳王に接近し、日本人を軍事顧問に送り込みました。後ろ盾を得た徳王は、1936年に「蒙古軍政府」を設立ました。当然蒋介石は激怒し、中国軍による侵攻を受けるのですが、1937年7月に盧溝橋事件が発生すると日本軍が内モンゴル西部に侵入し中国軍を追い払い、10月にフフホトで日本の傀儡政権である「蒙古連盟自治政府」が成立しました。

 

徳王は内モンゴルを独立させるのみならず、ソ連の衛星国であるモンゴル人民共和国も統合し、さらにソ連の支配下にあるモンゴル系のブリヤート人が住む地域をも統合して「大モンゴル」の達成を目指しており、そのための武力の提供を日本軍に求めていました。

 

しかし日本軍はソ連と事を構えることは絶対に嫌だったし、これ以上中国を刺激して中国人の反日感情が高まることも恐れていたので、徳王が「独立宣言」をすることも認めませんでした。

蒙古連盟自治政府はその後、同じく日本の傀儡政権である察南自治政府や晋北自治政府と蒙疆連合委員会を組み、1939年9月に正式に合併。「蒙古連合自治政府」が成立しました。この政府は1940年には汪兆銘が南京で設立した日本の傀儡政権である「中華民国南京政府」に統合されてしまい、大モンゴルどころか再び中国の一部となってしまいました

ただモンゴルの独自性は認めるということで「蒙古自治邦」という名で、中国の一部ではあるが自治的地域という扱いをされました。

 

6.内モンゴルの中国統合の確定

1945年8月、太平洋戦争の末期にソ連の対日宣戦布告がなされ、ソ連軍、モンゴル軍が満州国、そして蒙古自治邦にも雪崩れ込んできました。

蒙古自治邦の高官やモンゴル王族ら日本への協力をしていた者は、中国国民党軍が進駐してきた日には「国家分裂のの裏切り者」として処刑されることを恐れました。

彼らはソ連軍に保護してもらおうと北に逃げました。彼らと手を結んだのが、1944年に結成されていた「モンゴル青年革命党」。彼らはモンゴル人民共和国が内モンゴルを併合することでモンゴル統一を成し遂げられると考えていたグループで、もし中国国民党軍に進駐されたら再びモンゴルが分裂してしまうと恐れていました。

こうして蒙古自治邦の残党とモンゴル青年革命党のメンバーは手を結び、「内モンゴル人民共和国臨時政府」を樹立しました。内モンゴル人民共和国は、ソ連とモンゴルが独立を承認し、その後モンゴルに併合してもらうことを期待していました。

しかし、ソ連もモンゴルもこの要求を拒否します

1945年8月に中ソ友好同盟条約が締結され、中国がモンゴル人民共和国を承認する代わりに、ソ連は東トルキスタンなどに干渉しない、ということが決められていました。

またモンゴル人民共和国も、漢族が人口の95%を占める蒙古自治邦を併合すると、人口の多数派が中国人になってしまい、中国人国家になってしまうことを恐れました

こうして内モンゴル人民共和国はなすすべがなくなり、モンゴル青年革命党は後に中国共産党に吸収されて消滅。蒙古自治邦の残党は、ある者は逃亡し、ある者は中国への忠誠を誓い、内モンゴル独立の夢は消滅しました。

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まとめ

「あそこは俺たちの土地」という感覚はあるものの、すでに異民族がたくさん住んでいて実力で取り戻すのは不可能だし、仮に取り戻すことができても統治がままならない。

こういう土地はたくさんあります。フィンランド人にとってのカレリア、セルビア人にとってのコソヴォ、ソマリ人にとってのオガデンなどはそういう感覚かもしれません。

その反対の事例も多いです。リトアニアが旧都ヴィルニュスを取り戻した時、住民の多数派がポーランド人だったにも関わらず、統合を果たして今や首都として機能しているという事例もあります。

歴史を見ると何が正解か間違いかという判別は難しいのですが、現代の国際社会だと秩序を強制的に書き換えるのは難しいです。

しかしながら現在ロシアがウクライナに対してやっていることは、これを現実を無視してやってしまっているように思えます。

 

参考文献

"世界の戦争・革命・反乱 総解説" 自由国民社 

消滅した国々 第二次世界大戦以降崩壊した183カ国 新装改訂版