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「オーストリア継承戦争」「七年戦争」の流れを解説

戦争が比較的シンプルなものだった時代の感覚

戦争が今のように政治や経済、イデオロギーや宗教、少数民族問題や資源問題など複雑な問題を含むものになる前、18世紀の戦争はもっと戦争はシンプルなものでした。

ヨーロッパで行われる国家間戦争は、簡単に言うと領土と王権をめぐる戦いでした。自分の息のかかった、ないし影響力の強い一族や近親者を他国の国王に就かせようとするという目的と、富裕な工業地域や戦略的要衝を獲得するということをほぼ同一的に捉えており、国の発展と王族の名誉が同一視されていたような感覚です。

その典型的な戦争のサンプルとして、今回はオーストリア継承戦争と続く七年戦争を解説します。この戦争はオーストリアの王位をめぐる他国の介入に始まり、領土をめぐる因縁から泥沼の戦いに入り、それが他国の介入を招いて新たな戦争を誘発していくことになります。

 

1. マリア・テレジアの即位と列強の介入

オーストリアことハプスブルク帝国はその名の通りハプスブルク家の世襲の王国であり、家が未来永劫国を維持できるように、1713年に相続順位の確定と領土の永久不分割が定められました。

しかしカール6世の長子レオポルドが他界すると、男系長子相続の原則を破りマリア・テレジアの即位をカール6世は進めました。カール6世の生前は特に何もありませんでしたが、彼の死後、マリア・テレジアの即位に各国が異議を言い始めます。

こうして各国が王位継承の異議を口実に、領土獲得や賠償金獲得を目指して戦争を開始。ヨーロッパを巻き込む戦争に突入していきます。

新興国プロイセンのフリードリヒ2世は、シュレージェン地方の奪還と掲げ軍隊をおこしました。

シュレージェン地方は、現在のポーランド南西部からチェコ北東部にあたる地域で、古くから穀倉地帯として有名で、近代以降は豊富な鉱業資源を活用した工業が発展しました。

またベルリン、プラハ、クラクフ、ワルシャワのちょうど中間にある地域で交通の要衝であり、ここを抑えることは経済的・軍事的にも非常に重要でした。

 

2. 第一次シュレージェン戦争

プロイセンの軍は軍事侵攻から1ヶ月後の1741年1月にはすでにシュレジェン地方を占領する勢いでした。

マリア・テレジアはシュレジェン奪還を掲げて軍をおこし、4月10日にモルヴィッツでプロイセン軍と会戦を行いました。当初はオーストリア騎兵がプロイセン騎兵を打ち破るも、最後はプロイセンが火砲を駆使してオーストリア騎兵を打ち破ったため、プロイセン軍の勝利に終わりました。

オーストリアの敗北を知ったフランスは、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトを対立皇帝にたててオーストリアに軍事侵攻をしてきます。これに対し、フランスと海外領土獲得でライバル関係にあったイギリスは、オーストリアを援助しプロイセンとフランス、バイエルンと対立します。

しかしオーストリアはイギリスの直接的な支援を受けられず軍事的・外交的に孤立し苦境に陥りました。マリア・テレジアは孤立状態から脱却するため、シュレジェン地方を割譲することを条件にプロイセンを中立化させることをフリードリヒ2世に認めさせる密約を交わしました

もしフランスとプロイセンが2正面から来られたらオーストリア軍は一貫の終わりで、ウィーンが落とされたらマリア・テレジア自身の命も危ういので難しいですが懸命な判断だったかもしれません。

フランスとバイエルンの連合軍はプラハに軍を進めました。帝位に就くには皇帝選挙権を持つボヘミアの王位からマリア・テレジアを排除し自ら戴冠する必要があったためです、フランス軍の支援を受けたバイエルン軍は11月にプラハを陥落させ、選帝侯カールはボヘミア王となり、1742年に皇帝カール7世として皇帝に選出されました。

これに対し、マリア・テレジアはプロイセンとの密約を暴露して同盟軍の離反を図りつつ、バイエルンの本拠地ミュンヘンを急襲して占領し、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトの野望を打ち砕きました。ところが密約を暴露されたことに憤ったプロイセンのフリードリヒ2世が激怒し再び軍をオーストリアにさしむけ、1742年5月にコトウジッツで両軍の激突が生じまたもプロイセンが勝利しました。

ここで戦争は講和に向かい、6月にプレスラウの和約が結ばれプロイセンは密約ではなく正式にシュレジェンの領有を認められ、オーストリアはマリア・テレジアの王位を承認されました

 

3. 第二次シュレージェン戦争

プロイセンと和解したオーストリアは、プラハ奪還を目指して軍を進め、バイエルンに占領されて1年後に奪還に成功しました。勢いに乗ったオーストリアはバイエルンに再侵入し、南ドイツの重要拠点を次々に陥落させていきました。

ここで戦争に本格的に介入し始めたのがイギリスです。イギリスは国王ジョージ2世自ら、同君連合のオランダ、ハノーヴァーに加えドイツ傭兵を指揮しフランス軍と対決します。イギリス軍は1743年6月マイン河畔のゲッティンゲン会戦でフランス軍に勝利し。ヴォルムス条約を締結し、イギリス、オーストリア、サルディニアとの間で同盟が結ばれました。

国際情勢がオーストリア優位になるとプロイセンは再び動き始め、1744年6月フランスと同盟を結び、8月に軍をプラハに進軍させました。翌月にはプラハは陥落し、ウィーンを窺います。ボヘミアに展開するオーストリア軍は、プロイセンと会戦するのではなく、持久戦をとりました。領地から離れたプロイセン軍は食料不足に悩みシュレージェンに退却し軍の立て直しを図りました。

オーストリア軍の将軍ロートリンゲン公カールの軍は、 シュレージェンに撤退したプロイセン軍を追って侵攻するもフリードリヒ二世の軍によってホーエンフリートベルクの会戦で敗北を喫しました。これはオーストリアにとって致命的な敗北となりました。

 

▽ホーエンフリートベルクの会戦

大勝利を得たフリードリヒ2世は、この勝利を理由にオーストリア軍との和平を期待するも状況が一変してこれが実らない状況に陥っていました。

1745年1月にカール7世が死亡し4月にはバイエルンとオーストリアの和約が成立していたため、フリードリヒ2世にはバイエルン出身の皇帝を就けるという大義名分が失われていました 。

一方でオーストリアもこれ以降の戦争は厳しい状況に陥っており、マリア・テレジアはシュレジエンをプロイセンの領土として認め和平に合意することを認めざるを得ませんでした。こうして第二次シュレジェン戦争は終わりました。

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4. プロイセンの大国化

プロイセンの離脱後も、オーストリア継承戦争は北イタリアとネーデルラントで小規模に継続されましたが、ロシアが介入の意思を見せると各国は恐れて停戦に合意。

1748年10月にアーヘンの和約が結ばれました。和約の原則は戦争の前に領土を戻すことですが、オーストリアはハプスブルク家のマリア・テレジアが帝位を確保し、プロイセンはシュレジェンを得ました。その他、北イタリアで若干の領土の変更がありました。

オーストリア継承戦争で、それまで辺境の田舎国とされていたプロイセンは大国の仲間入りを果たしました。

プロイセンを率いたフリードリヒ2世の名声は高まり、彼が用いた軍事戦略・戦術は各国で取り入れられました。まず、常備軍の設置と育成。そして迅速な軍隊行動。持久戦を避け、迅速な行動で会戦に打って出て勝利すること。

国から遠く離れた場所だと兵站が持たないため避けると言う現実的な戦略でしたが、戦争が王族の派手なレジャーの延長のように扱われていた当時は、革新的なものでした。ヨーロッパで高まったフリードリヒ2世の名声は、後にプロイセン国家自体を亡国の危機から救うことになります

 

5. 「外交革命」と七年戦争の勃発

オーストリア継承戦争後、マリア・テレジアはシュレジェンを奪われたことで失われた国内の信頼を回復するため、シュレジェン奪還を目指し中央集権化を図る国内改革と財政制度の再建をし軍備拡張の財源確保を図りました。対外的には、プロイセンの孤立化を図ってフランスとの関係改善に乗り出します。これにいい顔をしなかったのが、フランスの仇敵イギリス。

オーストリアとフランスの接近を嫌い、イギリスはプロイセンとウェストミンスター協定を結びました。これによってフランスはますます強硬となり、オーストリアとフランスは1756年5月にヴェルサイユ防禦同盟を結びました。およそ250年間の間敵対的な関係だった両国が手を組んだことは、当時「外交革命」と呼ばれました

当時ロシアはオーストリアと同盟関係にあったため、プロイセンは東西南から攻撃される危険性に直面します。危機を感じたフリードリヒ2世は先んじて1756年5月、ザクセンに宣戦布告なしで侵入し、ボヘミア攻略を試みました。七年戦争の勃発です。

これにイギリスを除くほぼすべてのヨーロッパ諸国がフリードリヒ2世の行動を非難します。フリードリヒ2世は電撃的な勝利を得てショックを与え、一気に講和までもっていく考えでいたようですが、コリンでオーストリア軍と激突し、致命的な敗北を喫しました。

こうして講和の機会を失したプロイセンは、南はオーストリア、西はフランス、東はロシア、北はスウェーデンの大国から攻撃を受ける羽目に陥りました。亡国の危機とはまさにこのことです。

プロイセン軍は各地で敗北を重ねますが、フリードリヒは2万の軍をかき集めて西に展開。フランス・ドイツ諸邦連合軍4万とライプチヒ西方のロスバハで会戦し、大勝利を得ます。

この勢いでプロイセン軍はシュレジェンを占領していたオーストリア軍に戦いを挑み、シュレジェンのロイテンにおいて約6万5000のオーストリア軍に約1万3000の軍で挑み大勝利を得ました。

次いで西進するロシア軍に対しては、ツォルンドルフで会戦を行いこれにもかろうじて勝利するも、この会戦でプロイセン軍は大勢の将兵を失います。

物量共にジリ貧の中、フリードリヒ2世は1759年8月、オーデル川に近いクネルスドルフでオーストリア・ロシア連合軍と戦い、壊滅的な打撃を受けました。この戦いでフリードリヒ2世は自ら陣頭指揮を取るも、敵の銃弾を受けて負傷するなど、プロイセン軍は苦戦し、ほぼ壊滅といっていい大打撃を受けました

ここでオーストリア・ロシア連合軍がプロイセンの首都ベルリンに向かったらおそらくプロイセン国家は崩壊していたと思われますが、オーストリアとロシアの連合も一枚岩ではなく、シュレジェンをオーストリアが、東プロイセンをロシアが併合するという領土的目的で結ばれていたに過ぎず、それを超えるベルリン進行は実行されませんでした。フリードリヒ2世は辛うじて助かり、軍を再建する時間的余裕を得たのでした。

 

6. フリードリヒの反撃

プロイセン軍の苦境はしばらく続きました。苦境の中でも、プロイセン軍は地道に勝利を得ていきます。シュレジェン支配を確立させようとするオーストリア軍に対し、リーグニツの戦いでプロイセン軍は勝利を得て待ったをかけ、ロシア軍のベルリン攻撃もフリードリヒ2世の救援によって救われました。

またトルガウの戦いではプロイセン軍4万4000がオーストリア軍5万を相手に戦い勝利を得ますが、1万7000名もの大きな犠牲を出しました。

プロイセン軍は長い戦いで疲弊し、ベテラン将兵は多くを失い、国庫も火の車で破産しかかっており、戦いを挑まれれば戦い勝つも、自ら行動して戦局を打破していく力はもはや残されていませんでした。

しかしここで奇跡が起きます。ロシアで女帝エリザーベトが死去し、次の皇帝に就いたのがピョートル3世。彼はフリードリヒ2世に心酔するミリオタで、彼の独断でロシア軍は休戦をし撤退をすることになったのです。

さらにはロシアとプロイセンとの間に攻守同盟が結ばれようとしていました。しかし反発するロシア軍の将軍らの有力者が妻エカチェリーナを推挙して起こしたクーデターによってピョートル3世は殺害されたため、同盟にまでは至らなかったものの、ロシアを七年戦争から離脱させることには成功し、東プロイセンとポメラニアもプロイセンに返されました。

プロイセンからするとまさに天佑といっていい出来事です。オーストリアからするととんでもない悲劇的な出来事でした。

こうして東の憂いをたったプロイセンは南と西に集中すればよくなり、1762年10月、シュレジェンとザクセンを占領。フランスやドイツ諸邦は戦争から撤退し、孤立したオーストリアはとうとうフペルトゥスブルクの和約に同意せざるを得なくなりました。

これにより、マリア・テレジアは最終的にシュレジェンを手放さざるを得なくなり、奇跡的な勝利を得たプロイセンはさらに大国となっていきました。

 

7. イギリスの勝利

ところで、オーストリア継承戦争と七年戦争の最終的な勝利者はどこの国かとすると、大国化したプロイセンはもちろんですが、もっとも大きな利益を得たのは間違いなくイギリスでした

イギリスはフランスと海外の植民地獲得で競っていましたが、この2つの戦争でも北アメリカ、インドでも両国間の戦いが起きていました。まずインドでは、1757年にプラッシーの戦いでイギリス軍がフランス・ベンガル連合軍を破って、1761年位フランスのインドの拠点ポンディシェリを占領。

インドにおけるフランスの拠点はほとんどがイギリスに奪われ、来るべきインドのイギリス植民地化の嚆矢となります。北アメリカにおいては、1754年からフレンチ・インディアン戦争が起こり、1760年にフランスの北アメリカの拠点モントリオールが陥落。フランスの北アメリカ植民地ヌーベルフランスは、後のカナダとしてイギリスの支配になっていきます。

こうしてイギリスの海上支配が強まり、各地の植民地で上がった収益は本国イギリスを富ませ、産業革命の土台となっていきます。

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まとめ

当時は王権の形が国家の形を規定していて、国民国家が登場する前の話なので、今の戦争の形式とは全然違います。王の威信と多数の人命をかけた壮大で大規模なギャンブル勝負みたいな印象を受けます。

オーストリアはハプスブルク家の統治を戦いを通じて維持することには成功しますが、領土を失い益のない戦争だった一方、プロイセンは民衆の動員と組織的な軍隊行動という意味で、ある意味で定型化されていた戦争のあり方を規定し直したという意味で大きな功績がありました。

また最後に解説したように、イギリスはヨーロッパ本土の戦いに乗じて植民地獲得合戦に勝利しており、のちにイギリスが覇権国家となりパクスブリタニカを形成していく上で、このオーストリア継承戦争と七年戦争は外すことができない歴史上の大きな節目であったように思います。