西ヨーロッパの小国の激動の歴史
ルクセンブルクはドイツ、ベルギー、フランスと国境を接する内陸国で、面積は2,586平方キロメートルと神奈川県よりやや大きい程度。
政体としては立憲君主制に基づく議会制民主主義で、大公により統治される世界で唯一の「大公国」です。
小国のためあまり馴染みはありませんが、いわゆる「ベネルクス三国」の一翼として欧州連合(EU)の中核であり、欧州投資銀行や欧州会計監査院といった国際機関が拠点を構える国です。
こんな小さな国がなぜ起り、国を維持でき、そして国際政治の中心的な存在となりえているのでしょうか。
1. ルクセンブルク伯の設定
ルクセンブルク家の祖アルデンヌ伯ジークフリート
現在のルクセンブルクが一つの地域として成立したのは、963年にアルデンヌ伯ジークフリートがトリーアの聖マクシミアン修道院と契約を交わし、現在のルクセンブルク市旧市街付近にあたるリシュリンブルフク(小さな城)という地と、ルクセンブルク中央部の土地を交換したことに始まります。
アルデンヌ伯ジークフリートは西フランク王の孫を母に持つ有力者で、彼を始祖にして現在のルクセンブルクの地域が形作られていくことになります。
ただし彼から4代目まではアルデンヌ伯を名乗り、ルクセンブルク伯と名乗ったのは5代目のコンラート1世からのことです。
所領を広げるルクセンブルク伯
9代目のハインリッヒ4世は高齢で娘エルムジンデを授かるも、男子の跡継ぎがいなかったため、ルクセンブルク伯の地位は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の弟ブルゴーニュ伯オトン1世が継承することになりました。
しかし、エルムジンデの夫バル伯ティポー1世がこれに抗議したことで白紙撤回され、交渉の結果、ルクセンブルク伯は夫婦の下に帰ってきました。
エルムジンデが27歳の時にティポー1世が亡くなったため、彼女はリンブルク公ヴァルラム4世と再婚しました。この婚姻により現在のベルギー南東部にあるアルロン辺境伯領が統合されました。こうしてルクセンブルク伯は所領を拡大していきました。
2. ルクセンブルク家の黄金時代
ヴァルラム4世とエルムジンデの曽孫であるハインリヒ7世の時代にルクセンブルク家は大きく発展を遂げることになります。
1308年にハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世が暗殺され、新皇帝としてハインリヒ7世が選出されたのです。ハインリヒ7世は息子ヨハンをボヘミア王ヴァーツラフ3世の妹エリシュカと結婚させ、ボヘミアの地を所領としました。ハインリヒ7世死後、ヨハンがルクセンブルク伯を受け継ぎますが、ボヘミア王としてはあまり仕事をしなかったようです。
ヨハンの息子で、神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王としてはカレル1世)は、ボヘミアの内政に力を注ぎ、大学の設立やプラハ市の拡張、カレル橋やカレルシュティン城の建造など、様々なボヘミアの開発を行いました。現在でもチェコの人々に慕われる人物です。
▼カール4世
カール4世は婚姻政策により、現在のポーランド南西部シフィドニツァ公領や、ブランデンブルク辺境伯領も獲得し、現在のチェコ、スロバキア、ポーランド南部に至る広大な領地を抱えるヨーロッパ随一の有力家にまで成長したのです。
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3. 「抵当物件時代」
中東欧で所領を拡大する一方で、カール4世以降、発祥の地ルクセンブルクは軽視され所有権がさまざまな人物を転々とします。この時代を「抵当物件時代」と言います。
カール4世の息子で神聖ローマ皇帝にもなったヴェンツェル2世は、従兄弟のモラビア辺境伯ヨープストに借金をするにあたってルクセンブルクを担保にしました。
一方でルクセンブルクの買い戻し権は、ヴェンツェル2世から姪のエリザーベトと夫ブラバント公アントワーヌに渡り、モラビア辺境伯ヨープストの死後、ルクセンブルクの土地とルクセンブルク公の地位はエリザーベトのものとなりました。
しかしエリザーベトが継承をする子を儲けられなかったため、彼女はブルゴーニュ公フィリップ3世との間で借金のかたとして継承権を引き渡す協約を結びました。
これを受けて1443年にブルゴーニュ公はルクセンブルクに軍事侵攻し占領しました。
ところがどういうわけか話がこじれ、エリザーベトは引き続きルクセンブルク公の地位を主張。彼女が死亡した後は、同名の従姉妹エリザーベトと夫の神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世との間の息子ラディスラウス、そしてラディスラウスの義兄のチューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世が継承権所有者であると主張し、混とんとした状態になりました。
1461年にヴィルヘルム3世が権利を放棄したことで、名実ともにブルゴーニュ公に支配されることになりました。
4.ルクセンブルク大公国の独立
ルクセンブルクは1443年からブルゴーニュ公国の支配下におかれるも、1477年に5代目当主マリーが、ハプスブルク家で後に神聖ローマ皇帝となるマクシミリアンと結婚したことで、ハプスブルク家の支配下となりました。
そして神聖ローマ皇帝カール5世の統治下でネーデルラントが統一され、その過程でルクセンブルクもネーデルラント17州の一部となりました。
カール5世の死後、フェリペ2世はカトリックを帝国の住民に強制しプロテスタントを弾圧したため、自治意識の強いネーデルラントで自治と反カトリックの大反乱が発生します。
1579年にカルヴァン派が強い北部7州がユトレヒト同盟を結成。一方でカトリックが強い南部10州はアラス同盟を結び、ネーデルラントは分裂しました。北部7州は1581年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立を宣言してスペインと戦い、1601年に講和を結び実質的な独立を達成しました。
スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世が子を残さず死んだことで、1701年にスペイン継承戦争が起き、その結果、南ネーデルラントはオーストリア・ハプスブルク家のカール6世が引き継ぐことになり、「オーストリア領ネーデルラント」が成立しました。
南部10州がオーストリアから独立するのは、フランス革命の影響を受けたブラバンド革命が起こった1790年のことです。しかし新生ベルギー合州国は弱小でオーストリアのレオポルト2世の侵攻を受けて再びハプスブルク家の支配に戻ってしまいます。
その後のナポレオン戦争を経た1815年のウィーン体制の確立によって、ベルギーとルクセンブルクは分離されることになり、ここにおいてルクセンブルク大公国が独立することになりました。
5. ベルギーとルクセンブルクの完全分離
ルクセンブルクは独立したものの、国王はオランダ王ウィレム1世が兼任する同君連合で、ベルギーはオランダ王国の一部となったため、事実上オランダが南ネーデルラントを統合した格好でした。
国王は北部オランダを優遇したため、ベルギーとルクセンブルクでは不満が高まり、1830年にベルギー独立革命が勃発します。
ブリュッセルを中心にベルギー人が蜂起しオランダ軍を撤退させることに成功しましたが、ルクセンブルク市内にはプロイセン軍が駐留していたこともあり蜂起が起こらず、オランダ王国の一部として留まることになりました。しかしその他のルクセンブルクの地域は新生ベルギーに同調して共に独立を果たします。
さらに弱小化したルクセンブルクに野心を持ったのが、フランス皇帝ナポレオン3世でした。彼はオランダ王ウィレム3世(ルクセンブルク大公としてはギョーム3世)に対し破格の値段でルクセンブルクを買い取る打診をしました。ウィレム3世は受け入れようとしていましたが、プロイセンのビスマルクによって「待った」がかかり、1839年にルクセンブルクの国際的な地位を協議する会議が開かれました。
こうして締結されたロンドン条約により、ベルギーの一部として独立した地域のうち、フランス語圏はベルギーに残留しますが、その他のドイツ語圏は再びルクセンブルクに戻ってくることになりました。
こうして現在にまで至るルクセンブルクの領土が確定しました。
さらに、列強がこれ以上ルクセンブルクに野心を持たぬように、ルクセンブルクは「非武装永世中立」であることが決定され、市内に駐留していたプロイセン軍が撤退しました。
▼ルクセンブルクの領土変遷
小国で非常に貧しかったルクセンブルクは、経済発展のために1842年にドイツ関税同盟に加盟しました。ルクセンブルクの人々はもともとベルギーに統合されたかったので、このこの同盟には非常に消極的でしたが、南部で鉄鉱石の鉱床が発見されたこともあり製鉄業が発展していきます。
こうして、オランダ王の支配下にあり、ベルギーへの志向を持ちながら、経済的にはドイツの影響下にあるという状態になりました。
6. オランダとの同君連合の解消
1890年、オランダ王ウィレム3世(ルクセンブルク大公としてはギョーム3世)が男子の継承者を残さず死去。
オランダ王位は娘のウィルヘルミナが継ぎました。しかしルクセンブルク大公は男子のみ継承権があると規定されていたため、オランダとルクセンブルクの同君連合を維持することが不可能になりました。
新たなルクセンブルク大公として、ウィルヘルミナの母の叔父にあたるナッサウ・ヴァイスブルク家のアドルフが新たにルクセンブルク大公の地位に就きました。
こうしてルクセンブルクはオランダ王家との直接的な関係を解消し、独自の王室を持つ国としてようやく真の独立を果たすことになりました。
7. 第一次世界大戦、左派のクーデター
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、非武装のルクセンブルクはドイツ軍に簡単に占領されました。ルクセンブルクの首脳は、マリー・アデライド女大公含む首脳陣は外国に亡命せずに国内に留まりました。
ドイツはあまりルクセンブルクの内政に干渉せず、ルクセンブルクの行政も戦前と変わらずに進行したため、人々は女大公がドイツに協力しているのではないかと疑いを持ちました。非武装中立の国ということで、女大公はドイツに抵抗しなかったのですが、そのことで連合国や国民から反感を買うことになってしまったのです。
列強から押し付けられた「非武装永世中立」という役割を全うしただけなのに酷い話ですよね。
▼マリー・アデライド女大公
女大公の求心力が失われる中で、1918年11月に左派勢力が君主制廃止を求める議案を議会に提出。これはかろうじて否決されました。
合法的な君主制の廃止の手段が失われた左派勢力は、実力行使を決断。1919年1月にクーデターを企て、共和国樹立を宣言しました。しかし国民の大多数はこれを支持せず、フランス軍の介入で鎮圧されました。
国民が不支持だったのはマリー・アデライド女大公だけで、王室自体は支持していたのです。
ベルギーとの経済同盟
第一次世界大戦後、ルクセンブルクはそれまで強かったドイツとの経済関係を破棄しドイツ関税同盟から脱退。1921年にベルギー・ルクセンブルク経済同盟協定を締結し、ベルギーとの経済関係を強化しました。
それまでの歴史でルクセンブルクはベルギーの一地方という意識が強かったものの、この同盟は対等な立場での経済協定だったため、大きな経済的な利益をもたらしました。またこれまでのように、なされるがままに大国に翻弄されることを防ぐため、自ら国連などの国際機関に積極的に関与し、列強や周辺国と強調して自らの地位と安全を守ろうとする意識が高まったのもこの時代の特徴です。
8. 第二次世界大戦の苦難
1940年5月にナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。
第一次世界大戦時とは異なり、ルクセンブルクの首脳陣はフランスへと脱出し、ポルトガル経由でイギリス、最終的にはカナダのモントリオールまで亡命しました。
ドイツ軍の占領下におかれたルクセンブルクではドイツ化が推進され、公用語はドイツ語に統一され、フランス語の使用は一切禁じられました。
亡命したシャルロット女大公は、英BBCのラジオ放送を通じてルクセンブルク国民に向けて、ルクセンブルク語で語りかけました。この放送は国内のレジスタンス活動の精神的支えになったと言われています。
▼シャルロット女大公
1942年8月からルクセンブルクとアルザス、ロレーヌで徴兵が開始されました。職場や学校で半ば強制的に始まった徴兵だったため全国でストライキが続出しました。長官のグスタフ・ジーモンはこれに武力で対抗し、多くのルクセンブルク人が逮捕され21人の死刑者も出ました。結局10,211人のルクセンブルク人がドイツ軍として戦場に赴き2,848人が死亡しました。
連合軍の反撃により1944年9月にルクセンブルクは解放されましたが、ドイツ軍の反撃によりルクセンブルクは激しい戦場となり多くの損害を出しました。その後ドイツ軍は撤退し、1945年4月にシャルロット女大公が帰国しました。
9. 欧州統合の中心へ
第二次世界大戦が終わり東西冷戦がはじまると、ルクセンブルクは非武装永世中立を放棄し、明確に西側諸国に帰属しました。そして、国際連合やベネルクス3国の経済同盟、欧州経済協力機構、欧州評議会、北大西洋条約機構(NATO)など、戦後の国際機関の設立に当初から携わました。
国土が小さく武力も心もとないルクセンブルクにとって、積極的な国際協力によって国同士の連携を深めることが、三度の国家喪失を招かないための最大の安全保障であったのです。
1950年のフランス外相シューマンによるシューマンプランに基づき、1952年に西ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク6カ国で欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が設立されました。ECSCは設立当初はルクセンブルクに本部を構えました。その後この組織は現在のEU(欧州連合)に発展してくのはご存じの通りです。
ルクセンブルクは欧州司法裁判所、欧州統計局などの機関を国内に招致することにも成功しました。
欧州のど田舎の小さな国は、こうして欧州統合の中心的な国となったのでした。
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まとめ
ざっくりではありますが、ルクセンブルクの歴史をまとめてきました。
長い間ルクセンブルクは欧州の田舎であったこともあり、主体性がなく、ドイツやフランス、スペイン、オーストリアといった列強の都合により、いいように扱われてきました。独立ですら自分たちで獲得したものではなくある日突然降ってきたものです。そのような主体性のなさが、周辺の大国に軽く見られ、対等に扱われずに不利な地位に甘んじるという失敗を彼らは何度も味わってきました。
ルクセンブルクは国際協調の大国として重要な地位を占めていますが、それは「平和が一番」といった理想主義的な観念から始まっているのではなく、いかに自国の安全保障を確保するかを冷徹に見据えた現実主義的な政策であるのです。
参考文献・サイト
”ルクセンブルクを知るための50章" 田原憲和,木戸紗織 編著 2018年12月25日初版第一刷発行 明石書店