歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

歴ログ-世界史専門ブログ-は「はてなブログ」での更新を停止しました。
引き続きnoteのほうで活動を続けて参ります。引き続きよろしくお願いします。
noteはこちら

かつて存在した7つの「国際管理地域・自由地域」

f:id:titioya:20210814201810p:plain

 列強のエゴが交錯する戦争と平和の象徴

21世紀の現在はさほど多くありませんが、19世紀~20世紀前半には複数の国の管理下にある「国際管理地域」と、複数の国の影響下にありつつも独自の主権が認められる「自由地域」がいくつもありました。

これらの地域は戦略的要地にあったり、重要な貿易港だったりしていたため常に大国から狙われ、戦争発生の原因になるため国際的な合意のもとで厳重に管理されました。それでも二つの大戦で列強の取り合いになった地域もあるので、いかに重要な場所だったか分かります。

世界史に登場する代表的な国際管理地域・自由地域をピックアップします。

 

1. クラクフ共和国(1816~1825)

f:id:titioya:20210702160717p:plain

ポーランド分割後、唯一残ったポーランド人政権

クラクフ共和国は1815年から46年までの31年間だけ、ポーランド分割後に存在した唯一のポーランド人の共和国です。

正式には「自由にして独立した完全に中立なクラクフ市とその付随領域」と言い、古都クラクフと2つの都市、周辺の200以上の村からなり、総面積は450平方マイル(1,165平方km)で、人口は約14万人を擁しました。

1806年、ナポレオン率いるフランス軍に敗れたプロイセン軍とロシア軍は、ティルジット条約を結んで両国が領有するポーランドを手放すことで合意しました。ナポレオンは傀儡政権であるワルシャワ共和国を樹立させます。長年周辺国への隷属にあえいでいたポーランド愛国主義者は祖国復活を喜びますが、ナポレオンのロシア遠征失敗により、わずか5年後にはロシア軍に占領されてしまいました。

ワルシャワ共和国の領土のうち、首都ワルシャワを中心とする領域はロシア皇帝を戴く「ポーランド立憲王国」となり(第四次ポーランド分割)、南西部がポーランド人の自治が許されるクラクフ共和国として自立を許されました。とはいえ、オーストリア、プロイセン、ロシアの共同保護下に置かれていたため、完全な自由とは程遠い状態でした。

クラクフ共和国はポーランドの政治的シンボルとなり、ポーランドの愛国者が集まって文化・政治・教育の中心地になった他、ポトツキ家をはじめとする富裕層も居住地を構え、交易や工業で栄えました。

しかし、こうしたクラクフの繁栄があだとなってしまいます。1846年、ガリシアでポーランド人の反乱が起こると、オーストリアは自由で独立したクラクフの影響が自国のポーランド人の反乱を誘発すると考え、ロシアとプロイセンの同意を得て、クラクフ共和国を弾圧しました。ポーランド人は抵抗をしますが、結局1846年3月にオーストリア軍に占領され、ガリシアに併合され9年間で崩壊しました。

 

2. タンジェ(1924~1940, 1945~1956)

f:id:titioya:20210702153928p:plain

ジブラルタル海峡の要衝にある重要な港町

タンジェはタンジールとも言い、現在は北アフリカ・モロッコの港町です。

この地はジブラルタル海峡に面した戦略的要地で、古代から重要な港町でした。フェニキア人の時代から港町があり、ローマ帝国やヴァンダル王国、その後のイスラム帝国と北アフリカ諸国でも栄えました。その重要性から16世紀以降はポルトガル、スペイン、英王室がこの地を抑えました。その後はジブラルタルの方が重視されて放棄され、モロッコの支配に戻っています。

イギリスはジブラルタルを1713年から支配下に入れ、地中海と大西洋の交差点である海峡をガッチリ抑えました。スペインはジブラルタル海峡の支配を目指してイギリスと戦い、一方でフランスもこの戦いに割って入ろうとタンジェの占領を目指しました。イギリスはタンジェがスペインやフランスの手に渡らないようにあの手この手で外交工作を繰り広げました。

モロッコに対する英仏西独の争いの過程の結果、1902年の仏蘭西協定案ではタンジェが中立地域になることが盛り込まれ、1904年の英仏協定でもタンジェの特別な地位が規定されました。

1912年にフランス保護領モロッコが成立した際、協定に基づいてタンジェは国際的な枠組みに基づいて独自の地位を与えられることになりました。第一次世界大戦の勃発により合意が延期されるも、1923年に正式に法令が施行され「国際管理地域タンジェ」が成立しました。

1940年6月、第二次世界大戦でフランスがナチス・ドイツに占領された機会に乗じてスペインがタンジェを占領。国際管理地域の枠組みは一時的に崩壊します。

戦後、連合国はスペインの撤退を主張し、1945年10月にアメリカの参加を得て国際管理体制が再構築されました。1956年にモロッコがフランス保護領から独立する際に、タンジェもモロッコに変換され、国際管理地域は消滅しました。

PR

 

 

3. フィウメ自由州(1920~1924)

f:id:titioya:20210702160514p:plain

ファシスト・イタリアに併合された自由都市

フィウメは現在のクロアチアの港町リエカ。ドゥブロブニクほどではありませんが、観光客で賑わう町です。

フィウメはローマ帝国以来、司教から自治権を与えられイタリア商人が住みつきアドリア海の貿易都市として栄えました。

フィウメが初めて自治権を獲得したのは、1719年に皇帝カール6世が発布した法令により、神聖ローマ帝国の自由港として宣言された時でした。1776年、女帝マリア・テレジアの時代にハンガリー王国に移管されますが、ハンガリー王国内でも自治権を得ました。

しかし第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、戦勝国のイタリアはトリエステを含め、住民の約半数がイタリア人であることを理由にイタリアへの割譲を要求します。しかしパリ講和会議では、フィウメはセルブ・クロアート・スロヴェーン王国(後のユーゴスラヴィア)に割譲する案が有力となったため、イタリア人作家でナショナリストのガブリエーレ・ダンヌンツィオが武装集団を率いてフィウメを勝手に占拠。イタリアへの併合を要求します。

国際関係悪化を恐れたイタリア政府は、折衷案としてフィウメを独立させることで各国と合意しようとしますが、ダンヌンツィオらのグループはこれを拒絶して事実上の独立王国、いわゆる「カルナーロ・イタリア執政府」を無理やり設立しました。

ダンヌンツィオらのグループは、国際連盟を腐敗した帝国主義の象徴とみなし、被抑圧民族の解放を訴え、国際連盟に代わる新たな組織の構築や、フィウメのイタリア人やバルカンのスラブ人などの糾合を目指しますがうまくいきませんでした。ちなみにフィウメは世界で初めてソビエト連邦を承認した政体であります。

しかし1920年6月、イタリアで自由主義者のジョバンニ・ジョリッティが首相になり、ユーゴスラヴィアと共同でフィウメを独立国家「フィウメ自由州」にすることに合意しました。ダンヌンツィオらはこの決定に反発しイタリア軍相手に戦争をおっぱじめ、すぐさま鎮圧され、カルナーロ・イタリア執政府は崩壊しました。
その後、1921年4月24日に行われた民主的な選挙で、フィウメの独立が正式に住民に承認され、国連にも加盟を果たしました。しかしイタリア民族主義者の勢力は根強く、1922年3月にはファシストが一揆をおこすなど治安が悪化していきます。

イタリア本国は1922年10月にムッソリーニのローマ進軍によりファシスト政権となり、フィウメは1924年2月に正式にイタリアに併合させられ崩壊しました。

 

4. ダンツィヒ自由市(1920~1939)

f:id:titioya:20210702154941p:plain

Image by Rowanwindwhistler

 良港ダンツィヒを巡るドイツ・ポーランドの争い

ダンツィヒ自由市は、第一次世界大戦後から第二次世界大戦前の戦間期に存在した自由地域です。

自由市と言いつつ、主要地域のダンツィヒ港をはじめ、ゾポット(現ソポト)、ティエゲンホフ(現ドヴォル・グダンスキ)、ノイティヒ(現スタウ)などの町があり、東は世界遺産マルボルク城を擁するマルボルクまで広がり、人口は36万6,000人、事実上の独立国でした。

ダンツィヒ港は、1795年の第三次ポーランド分割によりプロイセンの領土となり、一時的に自由都市となりますが、その後はドイツ帝国の一部となっていました。第一次世界大戦後にポーランド共和国が独立を果たした際、すでに123年が経過しており、ダンツィヒはドイツ人の人口が過半数を占めていました。

第一次世界大戦後、ダンツィヒの帰属問題が議論され、新生ポーランドは歴史的経緯からダンツィヒのポーランド領有を主張し、敗戦国ドイツはドイツ人人口が多いことを理由にドイツの領有を主張します。

国際連盟は、独立したてのポーランドがもしソビエトに圧力を受けて赤化したら、重要港ダンツィヒが敵側に落ちてしまうことを懸念。一方で、ドイツがダンツィヒを領有することは、富裕な都市を保有することでドイツが再び力を強めることを懸念しました。

妥協案として、国際連盟がその運営を監督する高等弁務官を任命した上で、この都市を自由都市国家とすることが決定されます。そして1920年1月10日、自由都市ダンツィヒが成立しました。ダンツィヒは貿易都市、工業都市、観光都市として繁栄し、国際空港や大型ホテルが建設され世界各地から多くの人が訪れました。

しかし、ナチス・ドイツはダンツィヒの統合を狙っていました。

ナチスは1930年の選挙でダンツィヒ議会に代表権を得て、1933年に50%強の得票率で政権を握り、地元のラジオや新聞を掌握。ポーランド系のメディアは非合法化され、ユダヤ人は迫害されました。そして1939年9月1日、ナチスの軍艦シュライスヴィヒ・ホルシュタイン号がヴェステルプラッテにあるポーランド軍の駐屯地を砲撃した。第二次世界大戦が始まり、自由都市ダンツィヒはドイツの一部となりました。

戦後はポーランド領に戻され、現在は風光明媚な観光都市となっています。

 

5. メーメル地域(1920~1923)

f:id:titioya:20210702162210p:plain

リトアニアの陰謀的策略で併合され消滅

メーメル地域は現在のリトアニア西部の港町クライペダを中心とする地域で、バルト海貿易で栄え古くから富裕な地域として知られました。

13世紀、ドイツ騎士団とポーランド・リトアニアの抗争の結果、メルノ条約でメーメル地域はドイツ領となり、多くのドイツ移民が定住。「小リトアニア」と呼ばれたメーメル地域は700年近くもドイツ人の土地となり、プロイセン、その後はドイツ帝国領となります。

しかし19世紀のリトアニア民族主義の高まりから、歴史的なリトアニアの土地を取り戻そうとする機運が高まり、第一次世界大戦のドイツ敗北によってこの地域の国境が調整されることになります。

リトアニア本国はロシア革命後に独立を宣言。リトアニア政府は歴史的に小リトアニアがリトアニアが自分たちの土地だと主張して、国連に併合を主張しました。しかし、ドイツ人人口が多い(ドイツ人50万人、リトアニア人10万人)ことから、国連は小リトアニア領有は認めませんでした。

結局、1920年にフランスを中心とする国際連盟が管理する「メーメル地域」としてドイツから分割されることになります。1921年8月6日からは、メーメルはヴィリウス・ステプタイティスが議長を務める理事会と、高等弁務官が率いる20人のメンバーからなる国家評議会によって統治されることになりました。

しかしメーメルの中立化は周辺国を満足させる措置ではありませんでした。

同じく第一次世界大戦後に独立したポーランドはクライペダ港の領有を目指し、まずは経済関係の強化を図ってドイツ人実業家たちと貿易協定を結び木材貿易を強化しました。

一方でリトアニアもメーメルの併合を諦めていませんでした。リトアニア政府は、東プロイセン在住のリトアニア人を扇動して謀略的に併合を図ろうと試みます。

リトアニアはスパイ経由でメーメルに親リトアニア的なプロパガンダを流しつつ、1922年12月に「小リトアニア救済最高委員会」なる組織を結成させ、翌年1月に「リトアニア人解放」を訴えてリトアニア本国の武装組織、リトアニア狙撃連合への介入を要求させました。

地元住民の蜂起と見せかけるために一般市民の服を着た狙撃連合の兵が大量にクライペダに侵入し町の主要部を制圧。フランス、ドイツ、イギリスはこれに抗議しますが、ポーランド元首ピウスツキ(実はリトアニア人)は「自分の祖国を攻撃しない」として静観の構えを見せました。

国際社会からの介入はないと見た小リトアニア救済最高委員会は、リトアニア政府にクライペダ地方の併合を要求。リトアニア政府をこれを受諾し、クライペダは自治区としてリトアニアに併合されました。こうして中立地メーメルはクライペダ港と一緒にリトアニアに併合され消滅しました。

 

関連記事

reki.hatenablog.com

 

 

6. ザール盆地地域(1920~1935)

f:id:titioya:20210702162534p:plain

 戦勝国フランスが主導した国際管理地域

ザール盆地地域は現在のドイツ連邦南西部ザールラント州にあたる地域。

この地域はフランスとルクセンブルクと国境を接する州で、西に進むとパリ、北西に進むとブリュッセルに到達するし、東に進むとフランクフルト、北に進むとケルン、ボン、デュッセルドルフといった工業地帯に到達します。

またザールでは石炭が採れたため、戦略的要地でありつつ資源地域でもあるという超重要な地域でした。

歴史的にはこの地域は神聖ローマ帝国の臣下であるナッサウ・ザールブリュッケン伯爵で、半ば自立した存在でした。ナポレオン戦争でフランスに併合されますが、ナポレオン敗北後にプロイセンに併合されました。普仏戦争を起こしたナポレオン三世はザールを奪還しようとしますが、プロイセンに敗れて失敗しています。

第一次世界大戦後、フランスのクレマンソー首相は戦災の報復としてザールを併合しようとしますが、アメリカのウィルソン大統領が断固として反対しました。フランスの激しい反発を招きつつ、最後はアメリカの提案により15年間国際連盟の管理下に置かれることになり、その後、国民投票で暫定領土の所属を決めることになりました。こうして、国際管理地域「ザール盆地地域」が誕生します。

1920年2月27日、国際連盟によって任命されたザール地方政府委員会(Commission de gouvernement du Bassin de la Sarre)が、フランス軍政に取って代わりました。建前は国連の統治で、委員にはカナダ人やデンマーク人、ベルギー人がいましたが、実質ハンドリングしていたのはフランスで、ドイツ系が大多数を占める住民との関係は最初からぎくしゃくしていました。産業の要であるザール鉱山はフランスの支配下に入り、そのおかげでフランスはヨーロッパ最大の石炭産出国になりました。

フランスはザールでフランス語学校を設立するなどしてザールのフランス化を推進するも、ドイツ系住民の反フランス感情は根強く、ドイツ人労働者のストライキや暴動が相次ぎます。

当初の15年の任期が終わると、1935年1月13日に予定通りに国民投票が行われました。その結果、90.8%の人がドイツへの再加盟を支持。国際管理地域は消滅しドイツへ併合されました。

 

 7. トリエステ自由地域(1947~1954)

f:id:titioya:20210702161754p:plain

 Image by Arlon Stok

最後まで自由が与えられなかった自由地域

バルカン半島の西北の付け根にあるイストリア半島は、複数の国による領有権が主張し続けてきた地域です。ハプスブルク家とヴェネツィア共和国の支配地域がまだらになっており、イタリア人、スロベニア人、クロアチア人、少数派のギリシャ人、アルバニア人、ユダヤ人などが住んでいました。

第一次世界大戦後、戦勝国のイタリアはフィウメを除くイストリア半島全域を支配下に収めました。ムッソリーニが首相になってからはフィウメをも併合し、この地域のスラブ系住民のイタリア化が推進されました。

第二次世界大戦末期、イストリア半島はユーゴスラビアの第4軍とスロベニアの第9軍団、ニュージーランド第2師団によって占領されました。戦後、この地域の帰属が国連安保理で協議され、イタリア語とスロベニア語が話されるAゾーンと、クロアチア語が話されるBゾーンに分かれ、自治権を持った「トリエステ自由地域」が設立されることが決められました。

▽AゾーンとBゾーン

f:id:titioya:20210708014203p:plain

しかし冷戦の始まりによりトリエステ自治政府の樹立に向けた国際的な合意はなされず、A地区は英米軍、B地区はユーゴスラビア軍が駐留する状態が続きます。

1954年10月5日、アメリカ、イギリス、イタリア、ユーゴスラビアの閣僚が「ロンドン覚書」に署名。トリエステを含むAゾーンはイタリアが行政を担い、Bゾーンはユーゴスラヴィアが行政を担うことになりました。

こうして名ばかりの「自由地域」は解散し、周辺国に統合されました。

PR

 

 

まとめ

「自由」「国際」といった名前が空々しく思える歴史です。

 その成り立ちや経緯まで全部、強国のエゴによって左右されているのがお分かりになると思います。強国の立場からすると、それ以上の衝突を作らないための合理的な選択なのでしょうが。

19世紀以降、ナショナリズムや国民国家の概念の高まりによって、多民族が混在していたり多文化を擁しているグレーな部分に白か黒かをはっきりさせようという強い圧迫の中さまざまな悲劇が起こってきました。この国際管理地域や自由地域の話も、そういった数多ある悲劇の一つであるように思います。

 

参考サイト

 "Tangier" Britannica

 "What was the Free City of Danzig?" In Your Pocket

"Republic of Cracow" Britannica

"Free Territory of Trieste" Britannica

Klaipėdos kraštas – Vikipedija

"Der Völkerbund an der Saar - 1920 bis 1935" Planet Schule