歴ログ -世界史専門ブログ-

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ソ連時代のマッド・サイエンティストたち

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「進歩的国家」ソ連が生んだ狂った科学者

マルクス主義理論では、社会主義そして共産主義は人類が普遍的に向かうべき社会であり、成熟し堕落した資本主義が倒されるのは必然であるとされました。

そのため社会主義国であるソ連では、アメリカやイギリスといった資本主義国よりもあらゆる面で進歩的であるのが当然とされ、学術・産業・文化・芸術など科学的であることが尊ばれました。

確かにソ連時代は科学の進歩が著しく進んだ時代ではあるのですが、中には行きすぎてとんでもないマッドサイエンティストが出現しました。

 

1. イリヤ・イワノビッチ・イワノフ (1870 - 1932)

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人間と猿の交配動物を作ろうとした男

イリヤ・イワノビッチ・イワノフはソ連(ロシア)の獣医学者で、異種間の人工授精の先駆者です。

1898年、イワノフはモスクワに動物学研究所を設立し、家畜の性器の構造や生命現象、受精時の付属性腺の分泌物などを研究しました。観察の結果、精子は適切に保存されていれば一定期間、運動性と効力を保つことができると結論づけました。

1901年、イワノフはオルロフスカヤ州ドルゴエ村に世界初の馬の人工授精センターを設立。人工授精によって家畜と野生種を交配させる種間交配の実験を進め、病気に強く、ロシアの厳しい冬に適応した新品種を開発することを目指しました。例えば、シマウマと野生馬を交配して、家畜用の馬を作ったり、ヨーロッパバイソンなどの絶滅危惧種の野生動物の保護にも努めました。

イワノフの先駆的な人工授精技術は、世界の農畜産業に大きな進歩をもたらし、この功績で彼は国際的にも有名な研究者となっていました。

しかしロシア革命勃発後、最大の後援者であるツァーリを失った彼は、革命政府の目に留まるような研究プログラムを見つけなければならなくなりました。

そこで彼が提案したのは、人間とチンパンジーを交配させるというものでした。

当時でも倫理的に大きな議論となりましたが、1926年に資金援助を得てフランス領ギニアで実験を開始します。まずはヒトの精子を2匹のメスのチンパンジーに人工授精させてみますが、妊娠はしませんでした。翌年にはチンパンジーの精子を5人の現地女性に人工受精させようとしますが、採取する前にオスのチンパンジーが死亡してしまいました。

その後、1930年代後半のスターリンの大粛清の時代、彼は同僚からの密告により逮捕され、カザフスタンに送られたイワノフはその地で死亡しました。

 

2. アレクサンドル・ボグダネフ(1873〜1928)

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「血の交換」 にこだわった革命家

アレクサンドル・ボグダネフは、医師、経済学者、哲学者、自然科学者、SF作家、詩人、教師、革命家と多様な顔を持つ異能の男。

ボグダネフは1898年に設立されたロシア社会民主労働党(後のソ連共産党)の初期からのメンバーで、レーニンの盟友でした。1903年に党がボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂した際にボリシェヴィキに移りますが、彼はレーニンと対立するようになり1909年に追放されます。ボリシェヴィキが独裁政権を握った後は、反レーニン・反プロレタリア独裁を主張する、ひときわ異彩を放つ存在でした。

政治的には共産党の仇敵でしたが、科学者としては一目置かれていました。

政治的に失脚した後、ボグダノフは独自の思想を盛り込んだ哲学論文の執筆に没頭しました。それは現在は「テクトロジー」という名で知られます。テクトロジーは、すべての社会科学、生物科学、物理科学を相互に関係するシステムと見なし、すべてのシステムの根底にある組織原理を模索することによって統合を目指すものです。

彼は1908年には火星を舞台にしたSF小説を記しています。

タイトルは「赤い星」で、この中で将来の科学的・社会的発展を予測しています。中には、将来は男性と女性の性差がなくなるとか、女性も自由恋愛ができるようになるとか、労働者が自分の労働時間をコントロールできるようになるといった、かなり合ってる予測も見られます。また、この小説では火星人が輸血をして個体差や性差を平準化し寿命を延ばす様子も描かれていました。

ボグダノフは血液の交換により様々な健康効果がもたらせると信じており、スターリンと会談した後に彼は「輸血の科学的研究機関」の責任者に任命されました。

ボグダノフは輸血によって、よりよい睡眠、よい顔色、視力の向上、疲労回復力向上などを得ることができると考えており、共産党の指導者やその仲間を中心に実験を行いました。レーニン自身も11回の輸血を受け、視力が回復し、ハゲの進行が止まったと証言しています。ボグダネフ本人も何回も輸血をし、革命の同志だったレオニード・クラシンは妻に「ボグダノフは手術の後、7歳、いや10歳若返ったようだ」と書き記しています。順調にみえた輸血ですが、その後彼はマラリアと結核にかかった学生の血液をもらってしまい、それが原因で命を落としました。

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3. トロフィム・ルイセンコ (1898〜1976)

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 遺伝学を否定したトンデモ生物学でソ連の飢餓を推進した男

 トロフィム・ルイセンコはスターリン時代のソ連で、マルクス主義理論を生物学に適応させて国家の英雄となった人物です。ルイセンコの理論はメンデルに始まる遺伝学を否定し、環境因子によって後天的な遺伝を作り出すという独自の「ルイセンコ理論」を提唱しました。

1898年に農民の家に生まれたルイセンコは、苦学して農業学校に入り、ソ連の厳しい冬の間にエンドウ豆を栽培する新しい実験を試していました。その苦労話は農民を美化する共産党の新聞に取り上げられて人気になり、スターリンにも気に入られて1930年代にはソ連の農業の指導者となりました。

ルイセンコは遺伝子によって植物の形状が受け継がれるメンデル遺伝学を「変化の可能性を否定する反動的な考え」として拒絶し、動物や植物に刺激を与えることで後天的な遺伝を与えることができると考えていました。猫の尻尾を切って尻尾のない子猫を産ませようとするようなものです。

ルイセンコはこのような「改良」によって寒さに強いオレンジを作り上げシベリアで育てている、自分であればロシア全土の農作物の収穫量を増やし、何もないロシア内陸部を広大な農場に変えると主張しました。

ルイセンコの大言壮語を気に入ったスターリンは、彼を農業指導者に任じ、ソ連の農業を「近代化」するための計画を立て、何百万人もの人々を国営の集団農場に強制的に参加させ、ルイセンコの理論に基づいた農業が推進されました。

結果は破滅的なものでした。小麦、ライ麦、ジャガイモ、ビーツなど、ルイセンコの理論で栽培されたものはほとんどが枯れたり腐ったりし、大規模な不作と飢饉が発生。少なくとも700万人の餓死者を出しました

しかしスターリンは、マルクス主義理論は生物学にも当てはまると強く信じており、ルイセンコを引き続き同じ路線で改善を命じました。ルイセンコは英雄として讃えられ、全国の科学研究所には肖像画が飾られ、彼を讃える合唱歌が歌われました。

ルイセンコはソ連内の反対意見をすべて排除しようとし、遺伝学を放棄しない科学者は秘密警察によって研究の現場から退けられました。解雇された人はまだ幸運で、何千人もの科学者が監獄や精神病院に入れられました。国家の敵として死刑を宣告されたり、牢屋の中で餓死した者もいます。

1930年代以前のソ連は遺伝学が非常に進んだ国でしたが、ルイセンコは学術的レガシーを徹底的に破壊し、ロシアの生物学を半世紀も後退させたと言われています。

1953年にスターリンが亡くなると、ルイセンコの権力は弱まっていきました。1964年にはソビエト生物学のトップの座を追われ、1976年には影響力を回復することなく亡くなりました。

 

4. オリガ・レペシンスカヤ (1871〜1963)

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Credit:Olga Lepeshinskaya, who screened in reverse films of rotting eggs to prove her theories about cell development – and won a Stalin Prize

 共産党の理論に忠実なトンデモ科学を主張した人物

オリガ・レペシンスカヤは若いころから革命運動に身を投じた熱心な共産党支持者で、レーニンとも非常に懇意な人物でした。

 特に生物学に関心があったわけでもなく、教育水準もお粗末だったようですが、ロシア第一革命後に政治活動から身を引き、教職として身を立てることを決意。モスクワ大学に勤務した後、クリメント・ティミリャーゼフ生物学研究所に勤務しました。その後彼女は常識を覆す「発見」を次々として、国を代表する科学者として地位を築いていくのですが、その研究はトンデモ科学のオンパレードでした。

彼女は、ある植物の乾燥した有機物を復活させると別の種類の植物に成長するという驚きの説を発表します。レペシンスカヤによると、すべての生命体になるように導くことができる「超物質」が存在し、この生命物質が適切な核酸を用いることで無機物に導入できることを発見したと主張しました。その根拠として、死んだ細胞や老化した細胞が生き返る動画を提示しました。しかしそれは単に、細胞が老化する様子をテープで逆再生しただけの代物でした。

その後も彼女は形態学研究所の学術評議会で、「ソーダ風呂は老人を若返らせ、若者の若さを保つことができる」と発表。一人の科学者が笑いながら「ミネラルウォーターでも同じことができるのか」と尋ねたところ、彼女は「それはない」と言いました。実は彼女は党の高官や有名人のために温泉を経営していたため、彼女が求める結果は炭酸水でなくてはなりませんでした。ちなみにその後、モスクワでは重曹ソーダが完全に売り切れてしまったそうです。

1950年5月22日から24日にかけてスターリンが支援したソ連科学アカデミーとソ連医学アカデミーの特別シンポジウムで、レペシンスカヤは基調講演を行いました。彼女の「発見」は招待された聴衆から革命的だと称賛され、スターリン賞を受賞。彼女の発見は生物学の授業の必須項目となり、学校の教科書では史上最大の生物学的発見の著者として称賛されました。

彼女の思想は「遺伝的に受け継いだ形質ではなく、資質を発生させることができる」という党のイデオロギーに忠実なもので、結論ありきで誰もその理論の欠陥を批判できない空気が醸成されていました。

 

おまけ:スターリン本人

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 スターリンはもちろん科学者ではありませんが、経済学、生物学、文学、芸術への関心が高く、自分で直接作品に手を入れたり、指導をしたりすることもありました。

 中でもスターリンが好んだのがレモンの栽培。

もともと植物の育成は好きだったようですが、1946年から急にレモンにのめりこむようになり、故郷グルジアの沿岸部やクリミアでのでレモンの生育を奨励しました。また自分でもレモンの栽培を始め、レモンの品種改良が趣味となりました。モスクワ近郊や南部のダーチャ(別荘)には大きな温室が建てられ、レモンを剪定するのが唯一の楽しみであり運動であったようです。

スターリンは、生物には後天的な遺伝があると信じていました。例えば、通常は栽培に適さない寒い環境で小麦を育てると、植物自身の力により寒さに強い小麦が生まれるというわけです。これはマルクス主義理論に極めて親和性が近い考えで、環境さえ整えば、生物は進化したい(させたい)方向に進化できる力があると考え、年を追うごとにその信念を強めていきました。

スターリンがレペシンスカヤやルイセンコを評価し重用したのも、彼自身の信念によるところが大きかったようです。

 

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まとめ

ソ連が20世紀のテクノロジー大国だったのは否定しようがないのですが、マルクス主義理論を科学に適応させるなどのトンデモ科学が流行ってしまい、正統の科学者がトンデモを排除できず、表舞台を乗っ取られてしまうという現象が起きました。

正直、我々はこのソ連の失敗をまったく笑うことはできず、日本でも充分に起こりうることだし、規模の小さいものであれば頻繁に堂々とまかり通っています。

科学に限らず、政治も経済も暮らしの知識も、トンデモだから誰も相手にしないだろうと笑うのは非常に危険。「ヤバイものはヤバイ」と拒否の声を上げる意識を持つべきでしょう。

 

参考サイト

"Ilya Ivanovich Ivanov" Britannica

"The life and death of Alexander Bogdanov, physician" D.W.Huestis

"The Soviet Era's Deadliest Scientist Is Regaining Popularity in Russia" The Atlantic

"Olga Lepeshinskaya was the most dangerous woman in pseudoscience" Gizmodo

"Stalin and his mad scientists" faber