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ヨーロッパの「民族統一主義」運動(前編)

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大きいことは、いいことだ。我らが祖国のあるべき領土

国境線は民族移動・宗教文化の伝播・経済的要因など様々な要因を背景にして、大きな政治力や軍事力を持った権力が現れることで様々に書き換わってきました。

今は別の権力が支配しているものの、自分たちの言語を話す人々が住む土地、祖先がかつて辺境に植民に行った先、かつて祖先が住んだ土地、偉大な王がかつて征服した土地、これらは本来は自分たちが支配しなくてはいけない土地である、という言説はかなり広く存在します。そういう言説が影響力を持つことで悲劇的な戦争が起きたことも多々ありました。

そのような「民族統一主義」の言説をまとめてみます。今回はヨーロッパ編です。 

 

1. 大ドイツ

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Image by Master Uegly

 オーストリア主導での統一ドイツ

ナチス・ドイツが東方に「生存権」を求め掲げた大ドイツ帝国圏のイデオロギーは有名ですが、その思想の下敷きとなったものが大ドイツ主義です。

「Großdeutsch(大ドイツ)」という言葉を初めて使ったのはフランクフルト国民議会議長のエドゥアルド・フォン・シムソンです。フランクフルト国民議会では、統一国家ドイツを構築するにあたり、同じドイツ語を話すオーストリアを含む「大ドイツ」を構築するか、オーストリアを除外した「小ドイツ」で妥協するかで議論が二分しました。

大ドイツはドイツ連邦のすべてのドイツ語圏の地域、プロイセンの東部地方やドイツ人人口の多いボヘミア、オーストリアのカルニオラ、クロアチアやスロベニアなどの沿岸地域も含まれていました。

しかし、この考えはオーストリア帝国の分裂によってのみ実現する非常に見込みの低い考えで、オーストリア首相フェリックス・ツー・シュヴァルツェンベルクは、1848年12月の時点で、大ドイツの解決策を明確に拒否しました。しかしオーストリア内ではオーストリア主導による大ドイツの考えは根強く、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の下で、シュヴァルツェンベルク公フェリックスは、ドイツ連邦をオーストリアの連邦化に向けた運動を推進しました。

結局フランクフルト国民議会からオーストリアは脱落するも、その後のドイツ統一に向けた戦争の中でも大ドイツの考えは生き残り、小ドイツによる統一を目指すプロイセンと大ドイツにこだわるオーストリアとの対立が顕在化、とうとう1866年に両国は普墺戦争を引き起こします。ところがオーストリアはプロイセンとの戦争に敗れ、プロイセン主導によるオーストリアを排除したドイツ連邦の枠組み構築がなされ、1867年に「小ドイツ主義」によるドイツ王国が成立するに至ります。

その後も大ドイツの考えは生き続け、ヒトラー率いるナチス・ドイツが大ドイツ実現を目指してオーストリアやズデーテン地方などを併合し、第二次世界大戦の引き金となったのはよく知られている通りです。

 

2. 大ハンガリー

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 オーストリア=ハンガリー帝国時代の栄光のハンガリー回復

ハンガリーの支配的民族であるマジャール人は、オスマン帝国の支配から脱した後の1699年からハプスブルグ帝国の支配下に入り、オーストリアの従属国という地位に甘んじることになりました。オーストリアは帝国の国民の生活水準を上げる一方でドイツへの同化政策を推し進めていきました。18世紀末からフランス革命の影響を受けて民族自治意識が高まり、中小貴族ジェントリ層を中心にオーストリアからの政治的独立が主張されるようになりました。

マジャール人の抵抗は頑強で皇帝はやむなくハンガリーへの妥協を迫られ、1867年にアウスグライヒ(和協)を成立させました。

アウスグライヒによってハンガリーは完全な自治を持った独立国となったものの、国王はオーストリア皇帝が兼ね、軍事・外交・財政も統合されたままでした。いわゆる「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の誕生です。これにより、ハンガリーは北はスロヴァキア、東はトランシルヴァニア(ルーマニア)、南はボスニアとダルマティアを領する広大な版図を手に入れることになりました。

マジャール人はクロアチア人やスロバキア人、ルーマニア人など国内の少数民族に対して絶対的な優位性を持ち、帝国のマジャール化を推進することになります。

しかし第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリーは中央同盟として戦争に参加し連合国に敗北。戦後に連合国との間で結ばれたトリアノン条約は、マジャール人にとって今でも「民族的屈辱」と言われるほど厳しいものでした。

北ハンガリー(スロヴァキア)はチェコスロヴァキアに併合され、アドリア海に面するボスニアとクロアチアをユーゴスラヴィアに割譲され、戦前は自領だったトランシルヴァニアはルーマニアとして独立を認められ、ハンガリーは戦前の地域の72%、人口の58.3%を失ったのです。

トリアノン条約で失った栄光の「大ハンガリー」の領土を取り戻そうという動きは根強く、結局ハンガリーはナチス・ドイツと組んで失地回復に乗り出し、またもや自滅的な敗北をすることになります。

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3. 大クロアチア

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ボスニア・ヘルツェゴヴィナを中心としたクロアチア人居住地域の大統合

「大クロアチア」のルーツは17世紀末から18世紀初頭にかけてのパヴァオ・リッター・ヴィテゾヴィッチの著作とその思想にあります。 彼は、南スラヴ人はすべてクロアチア人であると宣言。ヴィテゾヴィッチが提示したクロアチア人の土地「イリリア」は、南東ヨーロッパの大部分だけでなく、ハンガリーなどの中央ヨーロッパの一部をも包含していました。当時はクロアチアはハンガリーの支配下にあり、クロアチアのマジャール化が推進されたため、その反発から南スラヴの民族・言語の統一運動が起こり、クロアチア民族の確立が目指されました。

第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリーが解体され、南スラヴ人の居住地域は「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」が成立(後にユーゴスラビア王国に国号を変更)。しかしユーゴスラビアではセルビア人が主導権を握り、クロアチア人はセルビア人に対し自治の要求を高めます。第二次世界大戦では枢軸国軍がユーゴスラビアを占領した後、クロアチアのファシズム組織ウスタシャがイタリアと交渉した上で大クロアチアの大部分を実現した「クロアチア独立国」の設立が宣言されました。

その後クロアチアはユーゴスラビア連邦の構成国となりますが、ユーゴスラビア解体にあたって「大クロアチア」を目指す動きが再活性しました。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナには南部のヘルツェゴ・ヴィナを中心にクロアチア人が多数住んでおり、クロアチア人はボシャニャク人と組んでボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立を推進し、これをクロアチアは支援。一方ベオグラードが中心のユーゴスラビアはセルビア人を支援しボスニア・ヘルツェゴヴィナをさらに分離させセルビア人の国であるスプルスカ共和国の分離を目指しました。いわゆるボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争です。

 1991年11月にはボスニア・ヘルツェゴヴィナ内にクロアチア人の国内国ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国が設立されました。ヘルツェグ・ボスニアの指導者たちは、セルビア軍との衝突時の一時的な措置と称し、分離を目的としたものではないと主張しますが、極右政党クロアチア権利党の準軍事組織であるクロアチア国防軍(HOS)は、クロアチアとヘルツェグ=ボスナ・クロアチアの連合を支持しました。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争終了後もこの動きは見られます。クロアチアのフランジョ・トゥジマン元大統領は、クロアチア人が多数を占めるヘルツェゴビナとボスニアの一部を併合することを目指しているとして、 2013年に旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)で追及されました。

 

4. 大セルビア

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大部分の旧ユーゴスラビア連邦領土のセルビア人支配を目指す

大セルビアは様々なバージョンがありますが、セルビア人の故地であるモンテネグロ、偉大な王ステファン・ドゥシャンによる中世セルビア王国の領土、そしてその後セルビア人が移り住んだ先をもセルビア国家に含めることを目指します。それらを網羅すると、一部のクロアチアとスロベニアを除く旧ユーゴスラヴィア連邦のすべての領土に該当します。

19世紀半ばに始まったセルビア民族主義に基づく大セルビア国家設立に向けた動きは、1913年のバルカン戦争と続く第一次世界大戦でのセルビアが属する陣営の勝利によって、セルビア人が主導し首都がベオグラードに置かれ、セルビアのカラジョルジェヴィチ王家を国王に戴くユーゴスラビア王国が成立することによって成就することになりました。しかし先述のクロアチアをはじめ、スロベニア、ボシャニャク、アルバニア、マケドニアなど民族の自立の動きは、ユーゴスラヴィア連邦の解消に繋がっていきます。

ベオグラードの支配力が弱まっていくにつれて、セルビア民族主義者の間ではユーゴスラヴィアはクロアチアやスロベニアによって支配され、セルビア人は被害を被っているという言説を強めました。セルビア人は他民族の圧制から逃れセルビア人自身によるヘゲモニーを達成しなくてはいけない。そのような考えが、セルビアのユーゴスラビア紛争への積極的な介入に繋がり、ひいては広義での大セルビア的な国家感へとつながっていきました

ユーゴスラビア連邦第三代大統領スロボダン・ミロシェヴィッチはまさにこのような考えを持っていた人物で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争やコソボ紛争に介入しました。彼はコソボで組織的にアルバニア系住民を虐殺した疑いで国際裁判にかけられました。ミロシェヴィッチを始めとするセルビア民族主義者による大セルビア的考えは周辺民族の自立を阻害しセルビアによる他民族支配を想起させることになり、国際的にも批判されます。

 

5. 大ルーマニア

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第一次大戦と第二次大戦の間のルーマニアの最大領土

 大ルーマニアとは、ルーマニア語を話す人々の土地、具体的にはトランシルヴァニア、ブコヴィナ、ベッサラビア、バナト、クリシュアナ、マラミュレシュの一部を含んだ地域。現在で言うところの、ルーマニアとモルドバです。

第一次世界大戦後にルーマニア語を話す人々の領土的統一が図られ、ルーマニアの領土は最大に達したものの、その後第二次世界大戦でソ連が北東のベッサラビアとブコビナを占領。ベッサラビアは現在のモルドバ、ブコビナはウクライナの一部です。分割されたルーマニアを統一しようという動きが現在でもルーマニアの国粋主義者には見られます。

大ルーマニアの根拠となっているのが、オスマン帝国に抵抗した英雄で、ワラキアとモルダヴィア、トランシルヴァニアを統一したミハイ勇敢公(1593–1601)。

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ミハイ勇敢公のモルダヴィアとトランシルヴァニア支配はほんのわずかな期間しかなかったのですが、三つの地域が統一された時代が後の近代ルーマニアの前身とみなされるようになりました。特にトランシルヴァニアがハンガリー領となり、ベッサラヴィアとブコビナがソ連領となってからはその運動は根強く、「失われた領土」の回復がルーマニア統一を目指す勢力の触媒となったのです。

1848年のルーマニア革命では統一ルーマニアが叫ばれるも、トランシルヴァニアを支配するオーストリア=ハンガリーの壁は厚いものがありました。1881年にトランシルヴァニア国民党が自治を求めてルーマニアと共闘したことで統一への意欲が高まり、第一次世界大戦後に現実のものとなります。

ルーマニアは1918年から1940年までこの領土を維持しましたが、第二次世界大戦前に相次いでルーマニア領は他国に分割させられることになります。

まずベッサラビアとブコビナは独ソ不可侵条約によってソ連に。トランシルヴァニアはウィーン裁定によってハンガリーに。南ドブロジャはクラヨヴァ協定によってブルガリアに。

領土を取り戻すべくルーマニアは独ソ戦では枢軸国の一翼となりソ連へ侵攻しベッサラビアを回復するも、ソ連の巻き返しによって奪い返され、その後ベッサラビアはソ連の衛星国であるモルドバとなって取り戻せなくなりました。

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つなぎ

中央ヨーロッパ~バルカン半島は民族が多く、地形も複雑で、様々な帝国・王国が割拠したこともあり、とてもやっかいです。トランシルヴァニアやボスニアなど、様々な民族が「固有の領土」と主張しているさまをみると、国民国家というのは色々ムリがあるのではないかと思ってしまいます。

 後編では引き続きバルカン半島と、北欧・南欧の民族統一主義を見ていきたいと思います。

 

reki.hatenablog.com

参考サイト

 "‘No, nay, never’ (once more): the resurrection of Hungarian irredentism" HISTORY IRELAND

"‘Greater Serbia’ and ‘Greater Croatia’"