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ヨーロッパの「民族統一主義」運動(後編)

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ヨーロッパの辺境の民族統一主義

 前編では、ドイツ、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニアの民族統一主義を見ていきました。前編はこちらをどうぞ。

今回は同じヨーロッパで、ブルガリア、アルバニア、フィンランド、オランダ、ポルトガルです。領土拡張主義にどのような民族的文脈があるかという観点でご覧になっていただければ幸いです。

 

 6. 大ブルガリア

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 列強の干渉によって消えた幻の領土の回復

大ブルガリアの起源は「三つの海のブルガリア( България на три морета)」と言われた第一次ブルガリア帝国(681年~1018年)にあります。

第一次ブルガリア帝国はクルム一世の時代に最盛期を迎え、その領土は現在のブルガリア、ルーマニア東部、ギリシャとマケドニアの一部の広大な領土を支配下に置きました。黒海、エーゲ海、アドリア海の三つの海に面していたわけです。

しかしキエフ・ルーシのスヴャトスラフ一世にブルガリア本土を奪われ、残った領土もビザンツ帝国のヴァシリオス二世によって征服され第一次ブルガリア帝国は滅びました。

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近代の大ブルガリアの始まりは、1876年にロシアとオスマン帝国との間で戦われた露土戦争にあります。ブルガリア義勇兵はロシア側で参戦して獅子奮迅の活躍を見せ、ロシアの勝利に大きく貢献しました。講和としてサンステファノ条約が結ばれ、オスマン帝国はブルガリアの自治を認めさせられ、かつ現代のギリシャの一部とマケドニアをも含む広大な領土がブルガリアに与えられました。

しかし、ロシアが地中海に拠点を持つことを危惧するイギリスとオーストリア=ハンガリーはこの条約に反発。ドイツ皇帝ビスマルクを仲介に各国の利害を調整するために1878年6月〜7月にベルリンで国際会議が開かれました。この結果締結されたベルリン条約では大ブルガリアは三分割され、ドナウ沿岸にブルガリア公国の建国は認められましたが、広大なマケドニアの地はオスマン帝国直轄領として残され、東ルメリアはキリスト教徒の総督の元で行政自治権を与えられた土地とされました。

この「幻の大帝国」を復活させようとするのが大ブルガリアの原理です。

19世紀末にギリシャ、ブルガリア、セルビアの間で紛争の種となったのが「マケドニア問題」です。ブルガリアはマケドニアのスラヴ人の言語がブルガリア語と近いことを根拠に、セルビアは聖者の祝祭日の慣習を根拠に、ギリシャはマケドニアの人々をスラヴ化されたギリシャ人だとして、それぞれマケドニアの領有権を主張しました。

マケドニア問題が先鋭化して勃発したのが第二次バルカン戦争で、ブルガリアは周辺国に攻め入られわずか1か月で敗北。講和条約によりマケドニアは三分割され、三国に分配されました。

しかしブルガリアが領有したのはピリン山脈を含む東部マケドニアで、ここは非常に貧しい地域。しかもブルガリアは南ドブルジャをルーマニアに割譲することになりました。この屈辱から「失地回復」を求める声が高まり、第一次世界大戦と第二次世界大戦でブルガリアはドイツと組んで敗北することになります。

 

7. 大アルバニア

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 アルバニア系居住地を統合しようとする思想

大アルバニアは現在のアルバニアに加え、コソボ、セルビアのプレシェヴォ渓谷、モンテネグロ南部、ギリシャ北西部、北マケドニアの西部を統合しようとする思想です。

もともとオスマン帝国支配化の19世紀後半に、コソボで結成したアルバニア人政治組織プリズン同盟(League of Prizren)がアルバニア人居住地域を一つのヴィライェト(州)に政治統合を求めたことがルーツにあります。

アルバニア民族主義者は、大アルバニア(Great Albania)という言葉を嫌い、「エスニック・アルバニア」という言葉を用いるそうです。アルバニア、コソボ、西北マケドニア、南セルビアのアルバニア人居住地域、および歴史的にアルバニア人の原住民が存在していた北ギリシャ(チャメリア)の一部を包含しながらも、オスマン帝国の4つのヴィライエツよりも小さい地域を指します。いずれにせよこれらの地域は非アルバニア系の住民も多くいますが、他の民族統一主義運動同様、彼らはこの事実を無視します。

アルバニアは1939年4月にムッソリーニのイタリアによって保護領になり、イタリアはアルバニア人の懐柔策としてコソボと西マケドニアのアルバニア併合を実施し、非アルバニア系住民にもアルバニア語の名前が与えられ、アルバニア語による教育が施されました。この間、アルバニア人によるセルビア人やモンテネグロ人への排斥活動が起こっており、農場や家の焼き討ちが行われ非アルバニア系の追い出しが盛んにおこなわれました。セルビア人とアルバニア人の対立はユーゴスラビアとアルバニアの先鋭化した国家間対立につながり、その後のコソボ紛争でのユーゴスラヴィアのアルバニア系へのジェノサイドにも繋がっていきます

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今やほとんどのアルバニア人は大アルバニアを支持しておらず、コソボのアルバニア系ですら独立を支持する人が大多数です。しかし一部の政治家の間では大アルバニア構想は生きています。アルバニアは現在EU加盟交渉を行っていますが、一部の政治家の間ではもしこれが叶わなかった場合、近隣のアルバニア系住民と政治家に呼びかけ、「統一アルバニアを成し遂げる」ことを公に発言したりしています。セルビアやコソボのアルバニア系の指導者もこれに賛同しており懸念されます。こういう新たなコンフリクトの種を元に有利な交渉条件にしようという魂胆なのかもしれませんが。

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8. 大フィンランド

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フィンランド人の故地カレリアを統合しようとする思想

 大フィンランドの概念は、バルト・フィン諸語の話者であるフィンランド人とカレリア人が住む領土、白海からオネガ湖、スビル川とネヴァ川を自然国境としたものです。

カレリアは現在はロシアのレニングラード州とカレリア共和国、フィンランドの北カルヤラ県と南カルヤラ県に分割されています。歴史的にスウェーデンとロシアが領土争いを繰り広げ、またカトリック(後にプロテスタント)の東進の最前線となってきました。

カレリアはフィンランド人にとっては非常に重要な精神的故郷です。19世紀半ば以降、ロシア統治下にあったフィンランドでは民族主義が高まっていくのですが、その中で「カレリア」は、芸術家・作家・作曲家がロマンティシズムをかきたる格好の題材で、インスピレーションの源として利用されていました

例えばフィンランドの国民的叙事詩「カレワラ」は、19世紀半ばにカレリア各地に残っていたフィン人の伝承や歌謡を編纂したもの。フィンランドを代表する作曲家ジャン・シベリウスもカレリアやフィンランドの原風景や叙事詩から得た着想で多くの曲を作曲しました。作家イルマリ・キアントは、1918年に出版された「Finland at Its Largest」という本の中で、ホワイト・カレリア(白海沿岸地域)への旅について書いています。

一方でフィン・ヴォルガ諸語の住む地域の大統合を目指す考えもあります。

現在はロシア領のコラ半島そしてノルウェー領のフィンマルクはフィン・ヴォルガ諸語のサーミ人の歴史的地域。フィン・ウゴル族の歴史的故地でもあるイングリア(現在のサンクトペテルブルク周辺)、バルト・フィン諸語の一つエストニア語を話すエストニア。これらも大フィンランドであるという考えもありますが、あまり受け入れられてはいません。

 フィンランドはロシア革命中の1917年12月に独立するのですが、翌月には白軍とソ連の支援を受けた赤軍による内戦が勃発(フィンランド内戦)。内戦は白軍の勝利に終わりますが、内戦で活躍した将軍マンネルハイムは、1918年に「剣の鞘宣言」を発表。その中で「この国に法と秩序が支配される前、すべての要塞が我々の手に渡る前、レーニンの最後の兵士がフィンランドだけでなく、ホワイト・カレリアからも追い出される前に、私の剣を鞘に納めない」と述べ、ホワイト・カレリアの併合も宣言しました。これを受けて1918年から1920年にかけて、大フィンランド達成のための干渉戦争が発生しました。この一連の戦争をヘイモソダット(Heimosodat)と言います。

  • エストニア独立戦争へのフィンランド義勇軍の派兵
  • ヴィエナ遠征(ホワイト・カレリア併合を目指した軍事遠征)
  • アウヌス遠征(東カレリア併合を目指した軍事遠征)
  • ペッツァモ遠征(ペッツァモ併合を目指した軍事遠征)
  • 東カレリア武装蜂起
  • イングリア・フィン人の武装蜂起

当時はロシア領の東カレリアでも大フィンランドの思想は広まり、レポラ(Repola)とポラヤルヴィ(Porajärvi)はフィンランドの一部になることを望んでいました。1920年のソ連とのタルトゥ条約交渉では、フィンランドの東カレリアの増分とペッツァモ領有が認められたものの、レポラとポラヤルヴィは引き続きロシア領となりました。

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Work by Jniemenmaa

ウトゥア(現在のロシア、カレヴァラ)のカレリア人は独立してウトゥア共和国を作る一方、イングリア・フィン人はフィンランドに編入されることを意図して、北イングリア国家を作りますが、すぐにロシアに併合され消滅しました。

 

1918年のフィンランド内戦後、赤軍はソ連領の東カレリアに逃亡。この地で主導的な地位を確立し、「大フィンランド全体の共産革命」を目指し、ソ連の橋頭保の役割を果たしました。

第二次世界大戦では、フィンランドは枢軸国のドイツと共にソ連軍のフィンランド侵攻に対抗。多大な犠牲を払いつつ本土からソ連軍を追い出す一方で、一時はカレリアの大部分とサッラをも占領しました。しかし徐々に押し戻され、戦後の講和会議では占領した地域の返還とペッツァモの割譲を余儀なくされました。

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Work by Jniemenmaa

現代まで領土の変遷は第二次世界大戦以降は変更がなく、現代では大フィンランドの思想に共鳴する者はほとんどいません。

 

9. 大オランダ

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 ネーデルランドとフランドルの融合を主張

大オランダ(Groot-Nederland)は、オランダ語圏のフランドルとネーデルランドの2つのオランダ語圏を融合して考えた空想的な領土概念のことです。フランドルは現在のベルギーの北部のことです。

大オランダ運動は19世紀末に興りました。この時代、ベルギーのオランダ語話者の中にベルギーの多数派であるフランス語話者の「特権的な立場」に反発するグループが生じ、フランドルの民族運動が形成されました。そうしてフランドルとオランダの両方の民族主義者が連合し、1895年にオランダ総合連合が結成されています。

このアイデアを理論化したのは20世紀前半に活躍したオランダの歴史家ピーテル・ガイル。ガイルはネーデルランド(北部)とフランドル(南部)が分離したのは、16世紀の八十年戦争(オランダ独立戦争)の間だけであり、かつては両方一つであったと主張しました。戦争中、南部のスペインへの反乱が失敗したのは、北部と南部の政治的・文化的・宗教的な相違ではなく、単に北部が湖や沼地、川があって反乱軍に有利だったからで、南部の平坦な地形がスペイン軍に有利に働いただけに過ぎないと主張しました。もし地理的な偶然がなければ、この時南部は北部と共にスペインから独立していたであろう、というのがガイルの主張です。

当時はネーデルランドとフランドルの歴史的分離は自然であったというのが常識であり、ガイルの主張はこれに対する学術的な挑戦であったのですが、1931年12月にコルネリス・ファン・ヘールカーケンやアントン・ミュッセルトらにより設立されたオランダ国家社会主義運動(NSB)の党員など、大オランダ主義を鼓舞する国粋主義者に利用されるようになります。

第二次世界大戦中にベルギーとオランダはともにナチス・ドイツに占領され、国粋主義者の間ではドイツ占領軍との協力によって大オランダが誕生すると期待の声が上がりました。しかしナチスはこの期待に反し、オランダ人はゲルマン民族であるとしてオランダ語話者とドイツとの汎ゲルマン的な融合を進めようとしました。しかもオランダ民族主義を標榜するオランダ国家社会主義運動はナチスの指示によってオランダのドイツ化を進める組織になり下がり、ナチス占領下の悪夢もあり戦後のオランダでは大オランダの概念は半ばタブー的な存在になりました。

しかし現在でもオランダとベルギーの極右政治家に大オランダを公言する者もいて、物議を醸しています。

 

10. 大ポルトガル

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Image by  Bourrichon

スペイン・ガリシア州のポルトガルとの統合を求める思想

大ポルトガルの思想は、現在のスペイン北西部ガリシア州をポルトガルと統合しようとするもので、ガリシアが歴史的にポルトガルと言語・文化が近いことが根拠になっています。ガリシア州はキリスト教の三大聖地の一つであるサンティアゴ・デ・コンポステーラを含む、非常に重要な土地です。

もともとポルトガル語の起源は、ローマ帝国の属州であったガラエキアで話されていたラテン俗語にあり、それがドーロ川を挟んで南のルシタニア属州にも伝わり、ポルトガル語となりました。現在でもガリシア州ではガリシア・ポルトガル語が話されています。

イスラム帝国の侵入で西ゴート王国が滅びた後、ドン・ペラーヨを始め西ゴートの一部とイベリア半島北部の山岳民は結託しアストゥリアス王国を結成します。ガリシアの地はアルフォンソ一世の時代にアストゥリアスの領土に入り、その後カスティーリャの地も統合し、1037年にフェルナンド一世によりカスティーリャ=レオン王国となります。

1063年、フェルナンド一世は王国を息子たちに分割し、ガリシアは三男のガルシアへ割り当てられました。カスティーリャ王となった長男サンチョ二世は、弟や妹らの領地を分捕ろうと軍事行動を起こし、王国は内乱の時代に突入。

その中でガルシア二世の1065年にポルトガルの領邦が独立を宣言し、ガリシア=ポルトガル王国を形成しました。しかし1072年にガルシア二世は長兄カスティーリャ王サンチョ2世に攻撃され逃亡。同じ年にサンチョ二世は弟のアルフォンソ六世により暗殺され、彼がカスティーリャ=レオン王に即位。アルフォンソ六世はガルシア二世を幽閉し、父フェルナンド一世の領土を再統合し、同時にガリシア=ポルトガル王を宣言しました。

ガリシアの地は、1111年にアルフォンソ六世の娘テレサにより、息子アフォンソ(のちのポルトガル初代国王アフォンソ一世)に与えられます。当時のカスティーリャ=レオン王国内には、ポルトゥカーレ伯領への支配を強めようとするトラヴァス家や、ブラガ大司教区に勢力を広げようとするサンティアゴ大司教らの野心がありました。1121年にトラヴァス家の当主ペドロ・フロイラスは息子のフェルナン・ロペスとアルフォンソ六世の娘テレサを結婚させ、影響力を強めようとしました。

ポルトゥカーレの貴族や司教たちはトラヴァス家やサンティアゴ大司教への従属を拒み、テレサの息子アフォンソと結託。1128年6月サン・マメデの戦いでガリシア軍を破り、以降アフォンソはポルトゥカーレの独立に向けた動きを加速させていきました。1143年にカスティーリャ=レオンとの和平が成ったことで、ポルトガルは独立を達成しました。しかしそのような経緯があったことで、元々は同じ政治的区域であったガリシアとポルトガルは分離することになります。

ガリシア王国はその後も続き、公式には1833年まで存在したことになっていますが、時間をかけて社会的・文化的・政治的にカスティーリャ化が進み現在に至ります。しかし、ポルトガルとガリシアの政治的分離から約1,000年が経過した今日でも、言語を中心に共通の文化的アイデンティティを共有しています。

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 まとめ

それぞれの経緯が非常に歴史的で、地名も細かく、非常に長くなってしまいました。 

民族統一主義運動は多分に国粋主義者や右翼に人気がありますが、一応ちゃんとした根拠はあり、分割が発生したタイミングでは当時のマジョリティのホットイシューであったのは確かなことです。

ですが、何百年も時間がたってある程度政治的・経済的・文化的な分離と定着がなされているにも関わらず、再統合を試みようとするのはやはり既存の秩序の破壊と言わざるを得ないでしょう。

 

参考文献・サイト

 "The Greater Balkans: Bulgaria" VOSTOKIAN

"Greater Albania - bogeyman or a pipe dream?" DW

"The Finnish Civil War 1918" FINLAND DIVIDED
"Visions of Empire in the Nazi-Occupied Netherlands" Jennifer L. Foray

Pieter Geyl - Wikipedia

Portugaliza – Wikipédia, a enciclopédia livre