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第二次世界大戦中のリトアニア史 - ソ連とナチスの占領と抵抗

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ソ連とナチス・ドイツに翻弄された小国の悲劇

リトアニアはかつてポーランドとの連合国家ポーランド・リトアニア共和国として東欧の大国に君臨した栄光ある国です。

しかし史上名高い「ポーランド分割」で、1795年にロシア帝国に併合され、再度独立したのは第一次世界大戦後の1918年のことです。

 長年のロシアの支配下で多くのリトアニア人はポーランド化し、歴史的首都のヴィルニュスはポーランド領とされ、国内には多数のドイツ人、ユダヤ人、ポーランド人が住む多民族国家となっていました。

「リトアニア人のためのリトアニア国家」を目指すリトアニアは、周辺各国との軋轢の中で拡張政策を採り、政治・経済のリトアニア化を進めますが、そんな中で発生した第二次世界大戦に巻き込まれ、なすすべなくソ連とナチス・ドイツに蹂躙されてしまいます。

 

1. 大戦前 - リトアニアの拡張

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Work by XrysD

リトアニアの独立

1918年2月16日、リトアニアの独立の回復を宣言する決議がヴィルニュスでなされ、新国家リトアニアはリトアニア大公国との歴史的つながりを持ちつつも、かつて連合国家を形成したポーランドとは異なる「リトアニア語を話す人々の国」と定義されました。

というのも、長年に及ぶポーランドとの融合はリトアニア人の特に地主階級に密接なポーランドとの繋がりを作り、リトアニア人にも関わらずポーランド語しか話せず、リトアニア独立は支持するがかつてのポーランド・リトアニアの一体化を望む者が多かったためです。

ポーランドの英雄ピウスツキはそのようなポーランド語を話すリトアニア人だったし、ポーランド初代大統領ガブリエル・ナルトヴィチも同様でした。

独立するにあたって最も議論が噴出したのが領土で、多くの人はリトアニア大公国時代の「リトアニア・プロブリア(固有のリトアニア)」の領土を基本としリトアニア語話者が多く居住する領域を含めることが確認されました。かつてリトアニア大公国の領土でなかったがリトアニア語話者が多く住む東プロイセンの一部(小リトアニア)も領土として要求されました(当時ドイツ人が50万人、リトアニア人が10万人居住)。

当然この要求にはドイツ、ソ連、ポーランド、フランスなど各国からの反発を招きます。特に係争となったのがリトアニア東部のヴィルニュスと、東プロイセンの港町クライペダの支配権です。

リトアニアはヴィルニュスはリトアニアの歴史的首都であると主張しますが、ポーランドはヴィルニュスの住民はポーランド語を話すためポーランドの都市であると主張しました。何度かのポーランドとの軍事衝突や国際社会の介入もあり、結局は連合軍の監視のもとで選挙で決められましたが、ポーランド当局が選挙を監視したためか、結果は圧倒的なポーランド併合支持で終わり、ヴィルニュスはポーランド領とされました。

クライペダは歴史的にリトアニアの領土であることが連合軍にも認められましたが、結局フランスに管理権が与えられました。

 

クライペダ港の制圧

リトアニアは不凍港を手に入れるため、フランスが統治するバルト海の港町クライペダの併合を目指しました。

リトアニア政府は、東プロイセン在住のリトアニア人を扇動してプロパガンダを流しつつ、1922年12月に小リトアニア救済最高委員会なる組織を結成させ、翌年1月に「リトアニア人解放」を訴えてリトアニア狙撃連合への介入を要求しました。地元住民の蜂起と見せかけるために一般市民の服を着た狙撃連合の兵が大量にクライペダに侵入し町の主要部を制圧。フランス、ドイツ、イギリスはこれに抗議しますが、ポーランドのピウスツキは「自分の祖国を攻撃しない」として静観の構えを見せました。

国際社会からの介入はないと見た小リトアニア救済最高委員会は、リトアニア政府にクライペダ地方の併合を要求。リトアニア政府をこれを受諾し、クライペダは自治区としてリトアニアに併合されました。

 リトアニアは不凍港を手に入れ、軍事的・政治的な大勝利を手にしたのです。

クライペダ地方の人口の約半数はドイツ語を話すドイツ人であり、リトアニアは小リトアニアのリトアニア化を推進しようとしたためドイツ系住民の反発を招き、後にナチス・ドイツの介入を招くことになります。

 

ヴィルニュス問題

リトアニアはヴィルニュスがポーランド領であることを認めない立場のためポーランドとの正式な外交関係を有しませんでした。リトアニアはポーランドと対立するソ連の支持を得てソ連の圧力のもとヴィルニュスを取り返そうとしましたが、ソ連とポーランドが1932年に不可侵条約を結ぶとその狙いも外れ、軍事強大化するドイツの脅威の前にポーランドと協力せざるを得なくなりました。

ポーランドとリトアニア間で外交関係樹立の交渉が進みますが、リトアニアはヴィルニュス問題に強硬な立場を崩さず両国は険悪な雰囲気になっていき、国境兵同士の小競り合いが発生するとポーランドは「外交関係樹立か、戦争か」の最後通牒を突きつけてきました。

リトアニア政府はやむなくこれを受諾し、「ヴィルニュス喪失」を公式に認めることになってしまいました。

野党や市民はスメトナ大統領の弱腰を非難し、スメトナ政権の権威は弱まっていくこといなります。

 

ポーランド人差別政策

リトアニアにおいてはポーランド語話者は差別されました。リトアニア政府は「ポーランド語話者はポーランド語を話すようになったリトアニア人なのだから復帰は可能」としてポーランド語学校の数を減らし、ポーランド人に強制的にリトアニア語学校に通わせました。ポーランドとリトアニアの外交関係も悪く、さらなる差別に繋がる恐れもありポーランド人が権利拡大のための政治活動はあまり行おうとせず、二級市民の地位に甘んじるしかありませんでした。

 

反ユダヤ問題

伝統的にリトアニアにはユダヤ人が多く住み商業を独占していました。

リトアニア人が作る農作物をユダヤ人が売るといった関係で、互いに依存してはいましたが文化・宗教・言語の違いにより互いに交わることはありませんでした。

リトアニアの少数民族の中ではユダヤ人が最も多く(1923年の総人口の7.6%)、知的階級を形成していたため様々なユダヤ系政治団体が存在しましたが、政府のリトアニア化政策が進むとリトアニア語も話さず文化的にも同調をしないユダヤ人への非難が強まり、反ユダヤ主義の言説も増えていきました。

しかしスメトナ大統領は一貫して反ユダヤ主義には反対しており、ユダヤ人への暴力や破壊など反ユダヤ主義的行動はすべて処罰するように命じました。

 

2. 大戦前夜 - ナチス・ドイツへのクライペダ地方割譲

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 先にリトアニアが獲得したクライペダ地方は本国リトアニアより経済的・文化的に発展しており、ドイツ系住民が多いためドイツ本国との繋がりを強く保っていました。

本国でナチスが政権を獲得した1933年以降、クライペダでもナチ組織の活動が活発になったため、政府は「国家保護法」を制定しリトアニアの国益に反し外国政府に協力する活動を行った者を罰することができるようになりました。

この法律に基づき調査を行うと126人のドイツ系住民がドイツのナチからの指示を受けナチ活動を行っていたとして告訴され、被告人のうち76人に有罪判決、4人が死刑判決を受けました。

これにドイツは反発しリトアニアとの貿易を停止し政治的圧力を加えました。イギリスやフランスの勧めもあり、やむなくスメトナ大統領は彼らに恩赦を与えざるを得なくなったのです。

クライペダ地方ではナチ支持者が増加していき、リトアニアの財政の貧弱さから住民が求める投資をできずにドイツ系住民の間では不満が高まり、ドイツとの統合を求める声が高まっていきます。

1939年3月20日、ドイツはクライペダ地方の割譲を要求する最後通牒をリトアニアに突きつけ、受け入れない場合は武力行使を辞さないと脅してきました。

政府は閣議を開きますが、軍高官の「もし開戦となったら3日も持たない」という意見が決定的となり最後通牒を受諾することとしました。

クライペダ割譲によりリトアニアは重要な輸出港、そしてリトアニア経済の1/3を稼ぐドル箱を失うことになりました。

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3. ソ連赤軍の進駐

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リトアニアのソヴィエト化

 1939年8月23日、ドイツとソ連が不可侵条約を結び、9月1日にドイツが、17日にはソ連がポーランドに侵攻しました。

リトアニアは中立を宣言しつつ、国内に動員をかけ軍の規模を約9万にまで拡大させますが、ソ連はリトアニアに相互援助条約の締結と、領土の一部のドイツへの割譲、そして赤軍のリトアニア駐留を求めてきました。その代わり、ソ連が獲得したヴィルニュスのリトアニア併合を認める条件でした。

1941年10月、ソ連・リトアニア不可侵条約が結ばれ、リトアニアはヴィルニュスを獲得しますが、すぐに赤軍がリトアニアに駐留し中立と独立は失われることなります。翌年にはソ連はリトアニアへの赤軍の無制限の受け入れと、ソヴィエト政権の樹立を要求。抗する力なくリトアニアはこれを受け入れ、スメトナ大統領はドイツへ亡命しました。

 

ソ連支配下のリトアニア

1942年6月12日に「人民政府」が発足し、共産党以外の政党は非合法化され、政府や地方の要職にある人は全員がクビになり代わりを共産主義者が占めました。全ての土地や企業は国有化されました。ソヴィエト憲法が導入されリトアニアはソヴィエトの一部になり、秘密警察や諜報機関による監視が強化され、人民政府に対し抗議した者は即逮捕されました。特に旧体制の指導者や知識人は大量に投獄され、財産没収の上、半数がシベリアに追放されました。

1941年6月22日に独ソ戦が始まると、「処理しきれなかった」政治犯は収容所や近隣の森で赤軍により虐殺され、その数は約700人にもなりました。

ドイツの電撃的な東部への侵攻は、ソ連支配への怒りから当初はリトアニアの人々の熱烈な歓迎を受けることになりました。

しかしこれは新たな苦難の始まりだったのでした。

 

4. ナチス・ドイツの進駐

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リトアニアのドイツ統合

 ドイツ軍はリトアニアを3日で占領しますが、同時にリトアニア全土に反ソ蜂起が発生しました。これを主導したのがリトアニア人行動主義戦線(LAF)のメンバーで、LAFはドイツがソ連を追放した後、新たに「自由で独立したリトアニア国家」を樹立することを目指して臨時政府を発足させ、文学者のアンブラゼヴィチュスが首相代行に就任しました。彼は人民政府の前の法律を復活させることを宣言し、ナチス・ドイツにもこれを認めるように要望しますが、ナチス・ドイツはこれを認めず、リトアニアのナチ政党リトアニア人国民主義党(LNP)に反乱を起こさせ臨時政府を停止させました。

 そして1941年7月に「リトアニア、エストニア、ラトヴィア、ベラルーシ」は帝国管区オストラントとされ4つの行政地区に分けられ、本国から来た行政委員により統治され、ドイツ軍の戦争を遂行するために必要な資源や労働力の提供が企画されました。

一方でバルト諸国はドイツ人の「生存圏(レーベンスラウム)」とされ、リトアニアにはドイツからの移民3万人が入植しました。言語・文化のゲルマン化が推進され、リトアニア人は「二級市民」としてドイツ人の支配に甘んじることになります。

 

5. ナチ占領下でのホロコースト

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ナチス・ドイツが進めたユダヤ人絶滅政策は、リトアニアに住んだユダヤ人にも及び、周辺各国に比べても激しい弾圧・虐殺が行われました。

ソ連赤軍がリトアニアに進駐して来た際にそれを最も歓迎したのがインテリの青年ユダヤ人で、ソ連はユダヤ人に体制への参加を呼びかけ人民政府の主要なポストに多くのユダヤ人が就くことになり、リトアニア人の反発が強まっていました。

ナチス・ドイツによって赤軍が追放された後、ソヴィエト体制への恨みからリトアニア人は反ユダヤ人感情を高め、ナチスがユダヤ人摘発を呼びかけると、それに呼応する形で全国でユダヤ人の逮捕と虐殺が行われました。実際にユダヤ人虐殺を主導したのはナチ親衛隊保安部行動部隊アインザッツグルッペンですが、多くのリトアニア人も「リトアニア国家の独立のため」にユダヤ人摘発と殺害を実行しました

約20万8,000人いたリトアニア・ユダヤ人のうち、生き残ったのは救出された約8,000人と、ソ連に逃げた約8,000〜9,000人のみで、残りはエストニア、ラトヴィア、ポーランドの強制収容所で虐殺されました。

 

6. ソ連赤軍による再占領とソ連併合

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赤軍のリトアニア再占領

1944年から45年にかけて赤軍がドイツ軍の前線を突破し、雪崩を打って東欧に押し寄せて来ました。リトアニアも1944年夏に赤軍によって「解放」され、スターリン主義体制が復活することになりました。
ソ連はリトアニア人の支持を獲得するため、ヴィルニュスをリトアニア・ソヴィエト社会主義共和国の首都とし、ヴィルニュスに住むポーランド人10万人以上をポーランドに追放してしまいました。ヴィルニュスだけではなく、リトアニア全体で19万7,200人のポーランド人がポーランドに強制送還されました。代わりにロシアやベラルーシなどからの新規移住者も増えますが、ヴィルニュスの多数派はリトアニア人となりました。港町クライペダも同様で、ドイツ人もドイツに強制送還され、代わりにリトアニア人が移住しリトアニア化されました。

皮肉なことに、リトアニアの都市はソ連支配時代にリトアニア化が完了し経済的にも成長し、人口も増加することになります。

 

対ソ連レジスタンス

一方でソ連による再占領に抵抗し、リトアニア国家の解放を目指したレジスタンスも約10年間続くことになります。

1944年夏ごろからパルチザンが全国に組織され、森林や地下壕にアジトを作って赤軍やソ連の役人、スパイ、裏切り者などに対する暗殺やテロ活動を活発化させました。

多い時にはパルチザンは約3万人にもなり、都市や町以外の農村部や森林地帯を支配していましたが、西側諸国からの支援を得られず、ソヴィエト政府による取締りの強化や情報の分断により次第に沈静化していき、1953年3月頃にはほぼ鎮圧されました。

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まとめ

小国の悲哀と一言で言ってしまうのは簡単なんですが、独立から約40年間の間にどんなに悲劇と苦労と挫折をリトアニア人は味わったのか、想像を絶します。

大国に挟まれ、経済的にも恵まれず、アイデンティティが脅かされる中で国を守り強くしていかなくてはいけないのは並大抵の苦労じゃありません。「命が一番、皆が生き残ることを考える」として他国に降り同化するのはきっと楽に違いないんですが、それをせずに「狂信的」になれたので、ソ連崩壊後にも独立国家を持つことができたのかもしれません。

 

参考文献

リトアニアの歴史 (世界歴史叢書) アルフォンサス・エイディンタス,アルフレダス・ブンブラウスカス,アンタナス・クラカウスカス,ミンダウガス・タモシャイティス,梶さやか,重松尚 明石書店

リトアニアの歴史 (世界歴史叢書)

リトアニアの歴史 (世界歴史叢書)

  • 作者: アルフォンサス・エイディンタス,アルフレダス・ブンブラウスカス,アンタナス・クラカウスカス,ミンダウガス・タモシャイティス,梶さやか,重松尚
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2018/05/10
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