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チェコスロバキアの国民形成と体操集団ソコル

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Credit: Sokol excercises in Tábor, 1924 Author: Šechtl and Voseček

民族の発揚を促す、集団体操という「自由」 

長年日本の教育現場では、男子の団結心や克己心を育むとして組体操が尊ばれてきました。最近では危険性が問題視され始めており、原則禁止される日もそう遠くないと思われます。

中学や高校では集団行動や集団体操はまだ盛んですが、「集団の拘束」「自由の束縛」といったイメージを抱く人も多いと思います。北朝鮮のマスゲームなんかを見ると特にそう思います。

しかし19世紀末では、このような集団体操や集団行動は「異なる身分や階級出身者が同じ服を来て同じ行動をとる」ことが民主主義を感じさせるものとされていました。

 特に中欧のチェコスロバキアでは集団体操が盛んで、体操組織ソコルが国民と民族意識の高揚に大きな役割を果たしました。

 

1. チェコスロバキア民族精神を発揚する集団体操

19世紀末から20世紀半ばにかけて、世界各地で集団体操が流行しました。

 以下は1948年の映像ですが、チェコスロバキアの体操団体ソコルによる徒手体操の模様です。

www.youtube.com

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現在の集団体操の基準からすると、みんな動きバラバラでレベル低いですが、当時はこれだけの大人数が同じ動きで体操していること自体が、先進的で驚異的な出来事でした。

チェコスロバキアで集団体操運動を率いた団体ソコルは、チェコスロバキア国民の身体と精神の教育を行うことを目的とし、体操だけでなく講演や演説、映画の上映、合唱やコンサートなどの文化的活動も行い、その中でチェコ語の普及やチェコの歴史の啓蒙活動を行い、民族意識高揚のための活動を行っていました。

チェコスロバキアは1918年10月に独立しますが、当初は軍や警察は体をなしておらず、ソコルのメンバーが代わりに国内の治安維持を担当していました。赤化したクン・ベーラのハンガリーがスロバキアを占領した際には、ソコル会員が事態の収拾に当たりました。

チェコスロバキア共和国ではソコルは最大の結社となり、国家と民族の発展のために尽くす国民的組織と位置づけられましたが、実際のところ、そのスタートは共和国内のドイツ系民族を排除してチェコ人が主導権を握ろうとする運動にあり、また建前上は平等で同民族と位置づけられたスロバキア人をも、チェコ人の支配に置いてしまおうとする、チェコ民族主体の団体でありました。

このソコルという団体の成り立ちと発展から、チェコスロバキア国家の成立の経緯を追っていきたいと思います。

 

2. ソコルの誕生

1861年、オーストリア=ハンガリー帝国支配下のボヘミア、プラハ。

 新しい体操協会を設立しようとしていたドイツ系とチェコ系のメンバーに深刻な対立が生じ、チェコ系はドイツ系から離別し、チェコ系独自の体操団体「プラハ体操協会」を設立することになりました。この団体が後にソコルと名乗るようになります。ソコルとは「鷹」を意味します。

ソコル設立の中心的な人物が、ミロスラフ・ティルシュ(左)、インジフ・フュグネル(右)。

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1863年3月、最初の交流会が開かれ、フュグネルは「民主主義的」な組織にするために会員同士がお互いに「君」で呼び合うことを提案。了承されました。

設立したばかりのソコルは、ユニフォーム姿で外へ出て盛んに地方に遠足をしました。これは会員同士の連隊を深めると同時に、地方にソコルの使命を伝播させるという意味もありました。当時はボヘミアの地方の人にとって、ユニフォーム姿のマッチョ男の集団がゾロゾロ歩いてくるのは相当異様な光景に映ったようで、敵襲と勘違いして家畜を連れて逃げ出したり、老婆が泣き叫んだりといった事件が多発したそうです。

 

ソコル創立者の一人フュグネルは、チェコ系ではあったものの、彼自身の母語はドイツ語でした。ソコルが成立した19世紀半ばは、まだ明確に「チェコ民族」というアイデンティティがあるわけではなく、ネイション(チェコ語ではナーロド)の括りもかなり曖昧としていました。

彼は商売の関係でイタリアのトリエステに行った時にイタリア統一運動の熱狂に出くわし、熱心な青年イタリア党とガリバルディの支持者となりました。 プラハに戻ってからはオーストリア=ハンガリー支配体制への不満から、次第にチェコ人としての自意識を持つようになっていきました。彼は名前をハインリヒからチェコ風にインジフに改め、苦手だったチェコ語も学習しました。ですが彼は生涯チェコ語は苦手で、娘に宛てた手紙に「ごめんよ、お父さんは馬鹿だからチェコ語は上手くないんだ」と書いたこともありました。しかし本業の商売ではドイツの名を名乗りドイツ系の芸術団体に属していました。

しかし19世紀末になると、チェコ系とドイツ系の対立と分離は激しくなり、フュグネルのようにチェコ系でありつつドイツ系の側面をも持つといった曖昧さは許されなくなり、どちらに属するかを表明する必要に迫られました。商売だけでなく、学校や劇場、レストラン、果てはマーケットまで、チェコに属する場所や機関に行くべきとされました。

そのような中で、ソコルもチェコ人のアイデンティティを強く掲げ、チェコの民族の高揚を果たす団体として役割を果たしていくことになります。

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3.  「チェコスロバキア人」とソコル

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Photo by Šechtl a Voseček

なぜ体操なのか

プラハで設立されたソコルは、ウィーンやパリ、ロンドンなどチェコ人コミュニティが存在する都市に拡大し、さらにポーランド、クロアチア、ブルガリア、ロシア、セルビアなどのスラヴ系民族に拡大しました。当初は単に体操を行うことでの民族意識の統合に目的がありましたが、オーストリア=ハンガリー帝国に対する抵抗運動が活発になると、スラヴ系民族の団結とドイツ人・ハンガリー人への抵抗を主導する組織になっていきました。プラハのソコルも積極的にスラヴ圏の体操運動を支援し、遠征を行って指導を行いました。

 そもそもなぜ民族意識の高揚に体操が重要だったのか。

ソコルの創立者ティルシュは「我々の課題、方向、目的」という論文の中で

「国際社会の弱肉強食の中では、強いネイションのみが生き残り、弱いネイションは滅びる。我々のような小さいネイションは、少ないながらも発展に必要な力を結集し、健全なる発展を図らねばならない。そのため、大きなネイションよりも一層の努力が必要で、チェコがネイションとして生き残るための努力の一つが体操でありソコルである」

といった要旨のことを述べました。

貴賤なく平等に団結し、民族のために全員が努力し、心と身体を鍛錬すると同時に外に向けて自らの強さをアピールする。それを叶えるのが集団体操だったのでしょう。

 

スロバキア人へのソコル普及

チェコスロバキアを構成する民族スロバキア人へのソコルの普及は遅れていました。

チェコは長年ドイツの影響を受け、政治・経済・文化における中欧の先進地域でしたが、スロバキアはハンガリーの支配が長く、山岳地帯で産業といえば農産物しかなく、同じスラヴ系民族でしたがチェコ人よりも色んな分野で遅れていました。

先進地域チェコではソコルの意義を理解する者も多く普及が進みましたが、スロバキアでは大部分のスロバキア人は農村に住み都会にはドイツ人やハンガリー人が多く、オーストリア=ハンガリー当局がソコルの活動を警戒したこともあり、普及が遅れていました。

チェコ人とスロバキア人のハーフであったチェコスロバキア初代首相のトマーシュ・マサリクは、スロバキアが発展するにはチェコと一緒でなくてはいけないという信念を持っており、共和国独立にあたって、かなり強引に、チェコ人とスロバキア人という二つの民族を統合した「チェコスロバキア人」という概念を作り上げました。

スロバキア人もチェコ人と同じ民族ということになったため、同等のレベルでソコル活動を行う必要が出てきたのですが、スロバキア人からしてみると、これまであまり関わりがなかったチェコ人が急にしゃしゃりでてきて、体操などという訳の分からぬ活動を強制してきたように映りました。チェコ人は遅れたスロバキアを教え導くという名目でスロバキアに進出し、政治・経済的にも牛耳っていきます。スロバキア人は反感を募らせ、ソコルについてもスロバキアを併合しようとするチェコの侵略の尖兵のように思われたのでした。

 

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4. ドイツ系団体との対立とソコルの終焉

チェコスロバキア独立後、国内のドイツ系体操団体は微妙な立場に立たされることになりました。ドイツ系のドイツ体操同盟は引き続きチェコスロバキア内のドイツ人への影響力を強め、ドイツ民族の高揚と育成を掲げて活動を行いました。

彼らの掲げる民族とは、オーストリアも含む「大ドイツ」であり、チェコスロバキア当局との折り合いはあまり良くありませんでした。

1920年代末より「ズデーテン・ドイツの運命共同体」といった、ズデーテン地域におけるドイツ人自治に関する言説が多く語られるようになっていきます。ズデーテンとは元々、ボヘミア東北部にある山脈を指す言葉でしたが、20世紀初頭からボヘミアのドイツ人全体を指す言葉として「ズデーテン・ドイツ」と言われるようになりました。

チェコスロバキアのドイツ系住民は、ズデーテンの自治を求める者、大ドイツとの統合を掲げる者、もっと狭い領域のドイツ人意識、オーストリア人としての意識を持つ者など様々でしたが、1938年のヒトラーによる「ズデーテン割譲」にあたっては、積極的にナチズムを支持し、ヒトラーを熱狂的に支持しました。

1939年3月にチェコスロバキアがドイツに併合されたことで、ソコルは解体されてしまいます。第二次世界大戦後にソコルは復活しますが、共産党政権によって1948年に再度廃止されました。

1993年の共産党政権崩壊後に再度復活し、現在も続いていますが、今やかつてのような勢いはなく、若者の数は少なく年配のメンバーが大半で、団体としては非常に弱体になっています。

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まとめ

ソコルは近代国家創成期のチェコにおいて、チェコ人がチェコスロバキア民族を形作る上で重要な役割を果たした団体でありますが、ネイションとしてのチェコスロバキアの形成に貢献したのはソコルだけではなく、様々な宗教団体や文化芸術、教育などあらゆる活動が複合的にせめぎあい、その中で「チェコスロバキア国民」が形成されていきました。

一介のスポーツ団体がチェコ大衆に広く受け入れられ、強力な動員力を持っていて チェコスロバキアという国の国民意識や国民国家形成の一端を担ったのは、この時代の特徴や人々の意識の変遷を見ていく上では外してはいけないと思います。

 

参考文献

近代ヨーロッパの探求⑧スポーツ 第8章フィールドのオリエンタリズム 石井昌幸 ミネルヴァ書房 2002年5月25日初版第一刷発行