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なぜチェコとスロバキアは分離したのか

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同じ西スラブ族の「兄弟」はなぜ決別したのか 

かつて中欧には「チェコスロバキア」という国がありました。

1990年以前に教育を受けた30代後半以上の人には馴染みがあると思います。

ところがこの国は1993年1月に分離をして、チェコ共和国とスロバキア共和国の2つの国に別れてしまいました。かつてのユーゴスラヴィアのように分離にあたって流血の事態に至らなかったので「あれ?いつの間に?」と思った人もいたのではないかと思います。

そんなに理性的に別れられる知恵があるなら賢く統合を維持できなかったのか?など部外者は考えたりしますが、実際に別れても両国の国民は親密だし、むしろ統合していた時より良好な関係であるようです。

今回はチェコとスロバキアが分離するに至った歴史的な背景をまとめていきます。

 

1. 1993年のチェコとスロバキアの「円満離婚」

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冒頭に述べた通り、1993年1月1日に実施された分離は、一滴の流血や暴動も伴わない「平和的な分離」でした。

1989年の「ビロード革命」により社会主義体制から脱却したチェコスロバキアは、チェコ共和国とスロバキア共和国の両共和国の連邦共和国となりました。
しかし1992年の選挙で両共和国ともに「分離派」の政党が勝利をすると、分離のための協議がスタート。6月から協議が始まり、8月には早くも「連邦解体」の合意文署を発表。

直ちに連邦解消のための行政手続きが開始され、11月に分離のための法律が制定され、連邦は1992年12月31日をもって解消されることが発表されました。その間わずか半年足らず。一部国籍問題や財産の問題が分離後も残ったようですが、 分離による混乱はほとんどなく、もともとそうであったかのように実に自然に分離しました。

この分離はビロード革命をもじって「ビロード離婚」などと言われる場合があります。

 

2. 分離に至った理由

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部外者からすると、何百年と共に連れ添った隣人なのにここまで超速で離縁をするとはいったい何事かと思ってしまいます。

なぜここまで急速に分離に至ったか。いろいろ理由はありますが、主な理由をまとめると以下の通りです。

 

両民族のナショナリズムの発展と長年の不満の鬱積

そもそもチェコ人とスロバキア人は同じ西スラブ族で、5〜6世紀にかけて現在のボヘミアとモラヴィア、スロバキアに移住してきました。当時は同一民族で、言語は共通だったと思われますが、長年の歴史的発展を経て異なる言語となり、異なる民族意識を持つに至りました。 

チェコは歴史的にドイツやオーストリアの影響を強く受け、支配者の抑圧に耐えながら多様な文化を開花させました。

宗教改革をスタートさせたフス、音楽家のドヴォルザークとスメタナ、作家のカフカなど、世界に多大な影響を与えたチェコ出身者は数知れず。産業・宗教・文化・言論などあらゆる面でチェコは中欧の先進地域でした。

一方スロバキアは長年ハンガリーの支配を受け「北ハンガリー」と呼ばれた時期もあり、政治的・経済的にハンガリーとの繋がりが強い地域となりました。自然と風土的には、2,000メートル級の山々の連なる山地で林業・農業が主産業の素朴な農村が中心。スロバキアはハンガリー平原への一次産品供給地として長年据え置かれ、スロバキアは政治・宗教・文化・産業などあらゆる点でチェコより遅れていました。

そんな両者が統合されると、必然的にチェコ人がスロバキア人に対し指導的な立場に立つことが多く、チェコ人の「スロバキア人を教え導く」という態度に「傲慢で高圧的なチェコ人」とスロバキア人は反発心を抱き、独立志向が高まることになります。

スロバキア人の反発は何度か政治的な分離を目指す志向につながり、第二次世界大戦前には、スロバキアはナチス・ドイツの支援を受け「スロバキア共和国」を建国。枢軸国の一翼として戦争に参加しました。ソ連軍による「解放」によって戦後チェコスロバキア社会主義共和国が成立しますが、そのような経緯もあってチェコ人はスロバキア人に対し「恩知らずの無礼なスロバキア人」と不信感を抱くことになります。

この相互の不信感はその後の歴史でも積もっていき、1968年の「プラハの春」ではソ連の軛(くびき)から抜け出そうとプラハを中心にチェコ人が蜂起しますがスロバキア人の多くは積極的にこの流れに同調せず、鎮圧にやってきたCOMECOM軍の犠牲になったのは主にチェコ人でした。チェコ人は「スロバキア人のためも思ってやったのに」と隣人の「鈍重さ」を苦々しい目で見ることになります。

 一方スロバキア人は西側の自由主義体制よりもソ連の専制体制の方に親和性を感じる人が多く、急進的なチェコ人の行動を冷めた目で見ていました。

スロバキア人のグスターク・フサーク大統領はこのような政治的運動を弾圧する一方で経済資源をスロバキアに集中的に投入し、チェコ人の反発を招くことにもなります。

チェコ人は経済的に豊かな自分たちの富がスロバキアに吸い取られていると考えており、「スロバキアがなかったら、チェコはもっと経済発展できるのに」と考えていました。

一方でスロバキアはチェコ人に束縛され自由を奪われていると感じており、「チェコがなかったら、スロバキアはもっと経済的に発展できるのに」と考えていました。

 このように、チェコ人とスロバキア人の間の相互不信は解消不可能なほど高まっていました。

 

不平等な連邦体制

先述のように、政治面ではチェコ人の方がスロバキア人を常にリードしていたため、チェコスロバキア国家はチェコ人優位な体制となっていました。

1918年のチェコスロバキア独立の際も、スロバキア国民委員会の70名は首相トマーシュ・マサリク率いるチェコ代表が一方的に指名したものでした。

共産党支配下のチェコスロバキア社会主義共和国でも、スロバキア人は分離志向を持つとして共産党のメンバーであっても弾圧され、1951年に議長フサーク、外相クレメンティス、党書記長スラーンスキーが逮捕、処刑されています。共産党支配下でもスロバキア人は「分離主義」であるとして警戒され弾圧されました

「プラハの春」によりチェコスロバキアは連邦制となり、スロバキアはチェコと対等な社会主義共和国となりますが、スロバキア人のグスターク・フサーク大統領は「正常化」政策によりプラハの中央集権化を進め、スロバキア人の期待を裏切ることになります。

このように長い間いチェコはチェコスロバキアの政治の主導権を握り続け、スロバキアは「被支配者」の側に置かれ続けたのでした。

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3. 「チェコスロバキア」か「チェコ=スロバキア」か

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「チェコスロバキア人」構築の試み

 チェコ人とスロバキア人という二つの民族を「チェコスロバキア人」という1つのアイデンティティに統合しようとしたのが、チェコスロバキア初代大統領のトマーシュ・マサリクです。

マサリク自身はモラヴィア出身の半スロバキア人で、プラハ大学の哲学の教授となり、誠実な人柄と卓越した知性でチェコ人とスロバキア人の知識人・学生を魅了していました。

マサリクは自身が半分スロバキア人である故に、スロバキアが経済的・文化的な発展をするためにはチェコと一緒でなくてはいけないという信念を持っていました。そのため彼はチェコとスロバキアを分けずに「チェコスロバキア民族」という言い方をしていました。1919年に生まれた新生チェコスロバキア共和国は、初代大統領にマサリクが就きますが、「チェコスロバキア民族」という民族が存在する前提で建設されました。

 しかし当時スロバキア人は敬虔なカトリック教徒で信心深い者が多く、高等教育を受けている者は少なく行政能力がなく、チェコ人はスロバキア人を「迷信に囚われ水準が低い連中」とみなしていました。そのためチェコ人はスロバキア人を援助するに止まらず、スロバキア人に与えるべき下位の行政事務すら自分たちで独占してしまい、チェコによるスロバキア支配が強まる結果となってしまいました。

長年に及ぶハンガリーとの統合はスロバキア人のハンガリー経済への依存体質を生んでいましたが、「チェコスロバキア民族」という文脈の下ではそのような不都合な状態は放逐されるべきものでした。しかし、スロバキア人からするとチェコから押し付けられた意味不明な枠組みによって自分達の経済手段すら奪われると考えました。

1933年にスロバキア人民党はハンガリーによる支配は望まないもチェコによる統合も望まないとし、「チェコスロバキア人などという人種は存在しない。我々はスロバキア人だ」と、チェコ人とスロバキア人が異なると述べました。

 

「チェコ=スロバキア」へ

「プラハの春」によりチェコスロバキアはチェコ社会主義共和国とスロバキア社会主義共和国による連邦制に移管しますが、これ以降一部のスロバキア人は国は2つの民族による平等な連邦制であるという認識を持ち、国名を「チェコ=スロバキア」とするようになりました。

1989年に共産党一党独裁体制が崩壊すると、スロバキアでは国名変更の要望が高まり、チェコ人議員とスロバキア議員との間で激論が繰り広げられることになります。「チェコ=スロバキア連邦共和国」という国名を許すかどうか、という議論が繰り広げられ、侃侃諤諤の議論の結果、1990年に「チェコおよびスロバキア連邦共和国(Česká a Slovenská Federativní Republika)」という国名に落ち着きました。

この時点で、スロバキアのチェコへの「三行半」は突きつけられており、もう離婚は時間の問題だったかもしれません。

 

4. 分離以外の方法はなかったのか

ここまでくればチェコとスロバキアの分離は必然的のようにも思えますが、普通はこんなにあっさりと分離を認めないものです。

スコットランドもカタルーニャも、本国イギリス、スペイン政府の強固な反対により分離を妨げられています。民主主義国だから民主的に分離を認める、という訳にはいかないものです。

当時のチェコスロバキア政府の「スピーディー」な分離への対応は、多分に民主主義的政治プロセスの欠如があるように見受けられます。普通は国を分離するという重大な意思決定は選挙で国民の意思を問うものです。しかし1992年ではチェコスロバキアはそれをしなかった。

当時のチェコスロバキアは社会主義体制から決別したばかりで民主主義的政治プロセスをあまり理解しておらず、社会主義体制の慣習のままに政治家が決定した内容をそのまま実行したフシがあります。

もっと言うと、連邦制よりも自由度の高い「連合国家制」など、チェコスロバキアという枠組みを残すための仕組みはいくつか考えられたはずです。

ただ、時代はソ連解体、ユーゴスラヴィア解体と東側の大国が次々と分離していく潮流があり、それに抗うのは難しかったのかもしれません。

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まとめ

実際のところ、チェコとスロバキアは政府でも国民レベルでも緊密な関係で、統合以前よりもむしろ関係は良好です。お互いが別の国であり民族であるという前提で対等な付き合いをするようになると上手くいくようになったという事例です。

 お互い「分離すれば経済的にもっとうまくやっていける」と思っていたようですが、これは自意識過剰だったというか、分離しても両国とも対して経済的には変化なかったようです。

 ただし、最近ではスロバキアの経済発展が著しく、自動車産業を中心に工業化が進み、人口1,000人あたりの自動車生産台数は世界一だそうです。チェコとスロバキアの経済的な差は以前ほどなくなっています。必然的に、政治力や文化力も以前とは比較にならないくらい両国の差は縮まっており、EU圏の国として共存しています。

個人的には、ここまで経済的な差が縮まり、EU圏として国境が厳密でなくなった今こそチェコスロバキアが復権できるのではないか、と思ったりするのですが、それは「いらぬおせっかい」というやつでしょうか。

 

参考文献・サイト

ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史 (世界現代史26) 矢田俊隆 山川出版社

"Why did Czechoslovakia break up?" kafkadesk

"The Split of Czechoslovakia: A Defeat or a Victory?" www.pehe.cz

" スロバキア共和国(Slovak Republic)基礎データ" 外務省