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「タラ戦争」イギリスとアイスランドの漁業紛争

200カイリ排他的経済水域策定のきっかけとなった紛争

タラ戦争(The Cod War)は、主にイギリスとアイスランドとの間で戦われた、タラなどの水産資源をめぐった紛争です。

第一次から第三次まで断続的に争われたこの紛争で死者は出ませんでしたが、この紛争はアイスランドのイギリスとの国交断絶までエスカレーションし、結果的に現在主流である200カイリ排他的経済水域制度の策定につながっていきます。

 

1. 漁業水域をめぐる欧州の協定

北海漁業協定の策定

北海からスカンジナビア半島沖は豊かな漁場で、歴史的に近隣諸国の水産業を支えてきました。特に有名な資源がタラです。タラとジャガイモを油で揚げたフィッシュアンドチップスはイングランドを代表する料理です。

19 世紀以降にトロール船が普及して漁獲高が増えますが、一方て資源の乱獲が進んだことで、近隣諸国で漁業水域に関する関心が高まりました。特に経済を水産業に大きく依存していたノルウェーは、イギリスやドイツなどのトロール船が自国の沖合で操業することを「自国の資源が盗まれている」と反発を強めるようになりました。

1869年、ノルウェーは独自に自国の沿岸部を内包する基線を設定しその内部を「排他的漁業水域」にすると宣言しました。これにイギリスやドイツは反発し、共通の海洋資源利用に関するルールを策定する試みが始まりました。

1882年、北海で操業する国々が集まり、初の漁業協定である「北海漁業協定」が締結されました。

この協定では、加盟国が北海沖に 3カイリの領海と漁業水域を設定すること、湾では10 カイリ以内の湾口に基線を引くことをが定められました。

しかし、ノルウェー、スウェーデン、デンマークはこの協定への署名を拒否し、湾から 10カイリ以上の湾口にも基線を引くこと、 4 カイリの排他的漁業水域の設定を求めました。

 

ノルウェーとイギリスの争い

ノルウェーは1935年、独自に4カイリを排他的漁業水域にすると宣言します。

イギリスは北海漁業協定の受け入れを強固に主張し、国際司法裁判所へ訴えました。第二次世界大戦の中断を経て、1951年に判決が下されました。結果、「イギリスの主張は国際法として認知されていない」としてノルウェーの主張をほぼ全面的に受け入れました。

この判決では、漁業に依存する沿岸国の「漁業の権利」が認められました。1958 年の第一次国連海洋法会議においても、「漁業に依存する地域を優先する」ことが認められました。この国際的な枠組みに則り、ノルウェーは自国の水産業の依存度の高さを挙げて、自国の排他的漁業水域を12 カイリに拡大すると宣言しました。

これまでノルウェー沖でタラを採ってきたイギリスの漁業関係者は反発し、イギリス政府はノルウェーに12カイリ拡大の撤廃を要求しました。しかしこれまたイギリスの主張は認められず、1970年10月以降はノルウェー沖12カイリの排他的漁業水域が認められたのでした。

 

2. 第一次タラ戦争の勃発

イギリス海軍vsアイスランド沿岸警備隊

1944 年にデンマークから独立したアイスランドも、漁業への依存が強い国でした。

イギリスとノルウェーの争いでノルウェーが勝利したことを踏まえ、アイスランドも1952年、新たな基線を設定し、そこから 4カイリの海域を排他的漁業水域とすると宣言。さらに1958年の第一次国連海洋法会議後、ノルウェーと同様に12カイリの排他的漁業水域を宣言しました。

イギリスはアイスランドに対しても新たな排他的漁業水域の設定に反対し、漁船に艦艇を護衛させるなどして示威行動をしました。 一方でアイスランドの沿岸警備隊は、「違法操業」をする他国漁船の網の切断や摘発を行います。対立はエスカレートし、アイスランド沿岸警備隊は、護衛に入ったイギリス海軍のタグボートを砲撃したり、艦艇に体当たり攻撃をするなどして抵抗しました。

これがいわゆる「第一次タラ戦争」です。

この紛争は1961年に両国の協定により終結し、イギリスはアイスランド沿岸の基線から12カイリの海域を3年間操業できる権利を得ました。しかし、その後は締め出されることになったわけです。

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3. 第二回国連海洋法会議の開催

イギリスは自国に有利な漁業協定の枠組みを定めようと、「欧州漁業会議」の開催を提案しました。この会議は1963年12月から翌年6月まで続き、北海漁業協定に代わる最終文書として「欧州漁業協定」を採択しました。

この協定では、沿岸から12カイリまでを沿岸国の排他的漁業水域と認める一方で、6カイリから12カイリまでの間は「1953年1月1日~1962年12月31日までの習慣的に漁業を行っていた他国の利用を認める」という変則的なものでした。

この協定は、その期間に各地で漁業を行っていたイギリスに都合のよい内容で、これが認められるとイギリスは、ノルウェーやアイスランドなどの国々の沿岸地域で堂々と漁ができるわけです。

当然、アイスランドとノルウェーは拒否します。デンマークは調印をしたものの、フェロー諸島やグリーンランドといった水域は例外、としました。これらの豊かな漁場を持つ国々が相次いで拒否したことで、「欧州漁業協定」は骨抜きになってしまいました。

1950年代から1960年代にかけてアジア・アフリカ諸国をはじめ多くの国々が独立を果たしたことで、新たな海洋秩序を作るべく、1960年に「第二回国連海洋法会議」が開かれました。

この会議では、「6カイリの領海・12カイリの漁業水域」を提案する先進国と、「12カイリの領海」を主張する新興国の意見が対立しました。様々な案が出され検討され、アメリカ・カナダ提案の「6カイリの領海・その外側に6カイリの漁業水域」という妥協案が支持を集めますが、3分の2の賛成票を得ることができず、目立った成果もなく終わりました。しかしこの会議を通じて、領海の拡大と、12カイリの排他的漁業水域容認が国際慣行となっていくことになります。

 

4. 第二次タラ戦争の勃発

再び排他的漁業水域を広げたアイスランド

1970年代初頭から、各国が競って乱獲を行ったことで北海の水産資源が極端に減り始めていました。アイスランドはより広い排他的漁業水域を設定し、他国の漁船をさらに締め出し、近隣海域の資源の独占を狙うようになります。

1971年7月、アイスランドは自国の沿岸から50カイリをアイスランドの排他的漁業水域と一方的に宣言。翌1972年9月より宣言を実行しました。

イギリスはこれに反発し、国際司法裁判所に訴えました。アイスランドは宣言実行後、50カイリ内で操業するイギリス、ベルギー、西ドイツの漁船に対し、沿岸警備隊による威嚇射撃を開始します。これに対しイギリスは翌年からイギリス海軍の艦艇を派遣し、漁船の護衛を始めました。これが「第二次タラ戦争」です。

NATO加盟国同士の衝突ということもあって、NATO事務総長も仲裁に入り、同年11月、イギリスがアイスランドの 50カイリ排他的漁業水域を認めることで、紛争は終結しました。またもやイギリスはアイスランドの要求を呑む形となったのです。

1974年、国際司法裁判所は「領海と漁業専管水域に関する解釈」を提示し、

  • 沿岸国は排他的管轄権を持つ漁業専管水域を12カイリまで設定できる。
  • 沿岸国が沿岸漁業への依存が強い場合は、12カイリを越えた海域でも優先的な漁業権を主張できる。

ことが認められました。イギリスを始めEEC(欧州経済共同体)は、沿岸国の周辺海域を共同体により管理を行う方針を出していました。しかし、国際司法裁判所の方針が出された後、1960年代以降に独立した国々は12カイリの排他的漁業水域を宣言することが普通になっていたし、アイスランドに倣って独自に12カイリ以上を設定する国も現れ始めました。

 

5. 第三次タラ戦争の勃発

Photo by Issac Newton

アイスランドの200カイリ先走り宣言

1973年12月、各国で対応がバラバラになりつつあった海洋法の統一を目指し、第三次国連海洋法会議がニューヨークで始まりました。

会議では、沿岸から200カイリ以内の資源を沿岸国が管轄権を持つとする提案が多くの国から提出され、1974年の第2会期においてほぼコンセンサスとなりつつありました。

そんな中、1975年10月、第二次タラ戦争で結んだ暫定協定の失効を理由に、アイスランドは 200カイリの排他的漁業水域を宣言しました。

一気に4倍に拡大したことで、伝統的にイギリス漁船が操業していた海域もアイスランドの排他的漁業水域に設定されることになりました。

イギリス海軍は再び漁船の保護のために艦艇を派遣。再びアイスランドの沿岸警備隊と衝突が繰り広げられました。これが第三次タラ戦争です。

衝突は激しさを増し、1976年2月19日にアイスランドがイギリスとの国交を断絶するにまでエスカレーションしました。しかし、これまで共同体による水域管理を主張していたEECがアイスランドの200カイリを容認する方向に動くと、イギリスも渋々これを受け入れ、戦争はアイスランドの全面勝利で終結しました

かつての世界の海を支配下大帝国イギリスは、まさに「見る影もない」という様で、権威があろうが、大国だろうが、国際枠組みのルールに則っる必要がある、ということを象徴的に表した事件でした。

ちなみに、第三次国連海洋法会議は継続的に第11会期まで開催されました。

1982年4月には、「国連海洋法条約」が締結され、

  • 基線から12カイリを超えない範囲で沿岸国は領海を設定できる
  • 沿岸から200カイリ以内にある資源はに排他的経済水域として沿岸国が有する

ことが定められました。

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まとめ

「タラ戦争」と名前はほんわかしてますが、中身は結構真剣な国同士の国際紛争でした。戦闘機や艦隊同士が衝突するような、古典的な戦争ではありませんが、揉めている内容は割とガチ目で、100年前だったらイギリス軍が本気で軍事侵攻してアイスランドの首都レイキャビクを占領して一方的な講和条約を押し付けたレベルだったかもしれません。

ただ、人が死ななかったのも、紛争解決の手法が国際枠組みの制定や共通ルールの整備に充てられたことも、ある意味「人類の進歩」だったと言えなくもないです。

ただ、これから40年後にまた古典的な戦争が戻ってしまったことで、我々はこれから「進歩」をしていけるのか割と不安になります。

 

参考サイト

"タラ戦争と漁業水域の変遷に関する研究" 荻原 祥輔 東京海洋大学, 2021

United Nations Convention on the Law of the Sea - Wikipedia