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ノルウェーの歴史(前編)-ヴァイキングの民、国家を作る

近隣諸国と複雑な合従連衡をした「北欧の田舎国」の歴史

2021年のノルウェーの国民一人当たりのGDPは世界第4位。福祉国家や環境先進国、人権国としても知られ、日本人が羨む「北欧先進国」です。

しかし長らくノルウェーは近隣のデンマークやスウェーデン、イングランドなどと政治的な合従連衡を繰り広げた挙句、政治の中心からは外されてきました。

そのような「北欧の田舎国」がどのように世界有数の先進国になっていったかを全2回でまとめたいと思います。今回は前編です。

 

1. ヴァイキング時代

1-1. ヴァイキング以前

ノルウェーに人が住むようになったのは、厚い氷が溶けてノルウェーの海岸線が出現した1万4000年前のことを考えられています。

石器時代では人々は漁撈や狩猟で生活を営んでいましたが、紀元前4000年から紀元前1800年の新石器時代に農業が伝わり、青銅器時代や鉄器時代になると農機具の発展で収穫が増加し多くの人が農業を営むようになりました。

ローマ帝国の発展の恩恵をノルウェーも受け、ローマ産の奢侈品が多数持ち込まれ、権力者の威信財となりました。有力者への権力の集中は、ローマ帝国へのゲルマン民族の侵入と西ローマ帝国の瓦解によって加速します。南の大帝国の瓦解で蛮族がノルウェーの領域内にも流入し、彼らに対抗するために国家機構が備わるようになりました。

6世紀末に伝染病によってノルウェーは人口減に見舞われますが、7世紀になると新しい農業活動が始まり人口が急増していきます。加えてフランク王国メロヴィング朝の成長により、ノルウェーはフランクとの交易に大きな利益を得て、有力者は威信を高めて支配する人々を糾合し、人々の要求に応えて海に漕ぎ出し、外海で富を得ようと試みるようになります。これがヴァイキング時代の始まりです。

 

1-2. ヴァイキング時代のノルウェー

ヴァイキングというと、沿岸の村を襲撃して焼き払い金銀財宝や食料、女性を奪ってしまう無法者というイメージがありますが、これは一面的なものです。

ヴァイキングは農民、商人、職人、開拓者、兵士という複数の側面があります。農閑期やに船で外国に赴き、足りない食料や威信財などを交易しようとする。しかし交渉が成立しない場合、時には暴力的手段で目的を達成しようとします。

チャレンジ精神豊富な者は、船で西に向かって未開拓の土地に入植し、そこで一旗揚げようとする。面倒なことが嫌いで腕っぷしが強いやつは、掠奪を好んだかもしれません。

ヴァイキングの船は当時の諸外国の船に比べ性能で勝り、遠洋でも航海できる上に機動性も高い。その機動性を活かしての襲撃と略奪も確かに容易ではあり、幼いころから武器や馬の使い方に慣れ戦闘力が強い彼らは各地で略奪業を行います。ヨーロッパ各地、時には北アフリカや中東までもヴァイキングの襲撃を受けています。

ノルウェーのヴァイキングは主にブリテン諸島、シェトランド島、フェロー諸島、オークニー諸島、ヘブリディーズ諸島に進出、そこからさらに西に向かってスコットランド北部、マン島、アイルランド東岸に定住しました。

現在のアイスランドとグリーンランドに到達し定住したのもノルウェー人です。さらに航海を続け、グリーンランドに到達した赤毛のエイリークの息子で幸福のレイブルと呼ばれる男は現在のアメリカ東岸に到着しています。ノルウェー人はヴィンランド、現在のニューヨーク付近に入植しますが、先住民に圧迫されて定住を放棄し撤退しています。

 

2. ハラル美髪王一族による統治

9世紀後半、ノルウェーの各地域に割拠していた豪族たちの権力闘争が起き、ノルウェー東部一帯を支配していたハラル美髪王が他地域の豪族を打ち破り、ノルウェー統一を達成しました。

彼の死後、息子のホーコン善王が王位につき、統治制度や防衛制度を整備し、ノルウェー国家の基礎を築きました。ホーコン善王は若い頃にイングランドに人質になっていた時期があり、そこでキリスト教徒となりました。

彼はノルウェーの国教を伝統的な自然崇拝からキリスト教に変革したかったのですが、国内の抵抗が大きく断念しています。

▽ホーコン善王

 

ホーコン善王後はハラル美髪王の出身のユングリング家以外の王が数人就き、1015年にホーコン善王の親族でユングリング家の王が復活します。彼がオラヴ・ハラルソン、オラヴ2世です。

▽オラヴ2世

彼はノルウェーのキリスト教化に尽力しました。伝統宗教は生贄の儀式が行われ、オラヴ2世はこれを野蛮だとしてやめさせようとしたのです。オラヴ2世は民会で特別教会法を採択させ、神殿や偶像を破壊し、各地にキリスト教の教会を建設し、自ら最上位の聖職者となりました。

しかし地方の多くの豪族は反対。デーン人の王クヌートがデンマークとイングランドを征服した時、ノルウェーに豪族たちはクヌートの側に立ち、オラヴ2世を追放しました。オラヴ2世は再起を図って軍を引き連れノルウェーに戻るも、地方勢力との戦いで戦死しています。

オラヴ2世の死後にノルウェー王に就いたのはクヌートの息子スヴェイン・アルフィーヴァソンです。

彼は即位した時はわずか10歳で、デーン人勢力の支配はノルウェー現地勢力の対立の上にかろうじて乗っかって成立する非常に危ういものでした。

オラヴ2世の死後、遺体は密かにノルウェーに持ち込まれ埋葬されたのですが、1年後に掘り返してみると髭と髪が伸びていたそうです。人々は奇跡を目の当たりにして、キリスト教に改心するようになり、オラヴ2世を聖人として祀るようになりました

オラヴ2世が祀られるニダロス、現在のトロンハイムにあるニダロス大聖堂は巡礼地となり、オラヴ2世はノルウェーの守護聖人となりました

オラヴ2世への哀愁と尊敬の声が高まると、かつてオラヴ2世殺しに加担した有力者のカルヴ・アーネソンという男が、オラヴ2世の息子マグヌスの住むガルダリーケを訪れ忠誠を誓いました。デーン人の国王スヴェインは王を辞任しデンマークに帰還。マグヌスはマグヌス1世として王位に就きました。

昔の慣習は残っていたものの、ノルウェーはこうしてキリスト教国となりました。

ノルウェー統一とキリスト教会の普及の過程で、国土と農民の国家への収用が進行していきました。ヴァイキング時代は土地や畑は個人の持ち物でしたが、13世紀になると大部分が王、貴族、教会の所有物になりました。ですが、ノルウェーは縦に長く移動が難しいため、地主が所有する土地を訪れることはあまりなく、借地農であっても割と自由な暮らしができ、他のヨーロッパの農民が受けたような激しい収奪をノルウェーの農民は受けませんでした。

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3. ホーコン一族の支配

1130年から1217年はノルウェーの内乱時代です。

1120年、アイルランドから自分はマグヌス3世の息子だと称する怪しい男がやってきました。彼の名前はギルクリストと言い、証言を証明するために9本の真っ赤に焼けた鋤の上を歩いて見せました。3日後彼の足には火傷の跡がなかったので、彼の証言は正しいと受け入れられました。この辺り、キリスト教とノルウェー古来の伝統宗教の文脈が混在していることが分かります。

1130年に国王シグールが死去すると、息子マグヌスがマグヌス4世が国王の座を継ぎます。しかしギルクリストは自分が王だと主張し、マグヌス4世の手足を切って殺害

こうしてマグヌス4世派とギルクリスト派による内乱が勃発します。

 

ここで重要な役割を果たしたのが教会でした。領土を含む強大な権力を有する教会は、自らの権威の下に国王を付けることを欲し、教会の権力から逃れたい王権との争いを繰り広げました。

1152年にニダロス大司教座は、ノルウェー西部出身の有力者エーリング・スカッケを支持し王位に推薦します。スカッケは前王であるシグールの娘クリスティンと結婚し、正当な血筋を得たとしました。

彼は若い頃に十字軍遠征に加わりアラブ人との決闘で顔に傷があるということもあり人望が厚い男で、多くの人の支持を集めて内戦に打ち勝ち、1163年に大司教が戴冠を行い、7歳のマグヌス・エーリングスソンに塗油(とゆ)の儀式を行いました。これは息子を次の王位に認めたということです。

ところがフェロー諸島から、自らを王の息子であると主張するスヴェレという男がやってきて、「白樺の脚」と呼ばれる反乱集団を率いてスカッケに挑戦しました。白樺の脚とは、貧しく靴を買う余裕もないので白樺の皮を足に撒きつけていたところからきています。

スヴェレはスカッケと息子のマグヌスを殺害し、王位を主張しました。

しかし、スヴェレの行いはスカッケとマグヌスを王とした教会の権威を泥を塗るもので、スヴェレと教会は激しく対立し、ノルウェーは国王領と教会領とで二分されました。対決は決着がつかず、スカッケは死ぬ間際に息子のホーコン・ホーコンソンに教会と和解するように言い残し死去。

ホーコンはホーコン3世として統治を始め、30年も時間をかけてローマ教皇の祝福を得て、教会との和解を成立させました

こうして再統一を果たしたノルウェーは13世紀に隆盛の時代を迎えます。イングランドやドイツとの貿易は巨額の富をもたらし、文化面でもイングランドやフランスで学んだ建築士が城や教会を国内に建築士、アイスランドのサーガをまとめたことで有名なスノッリ・ストゥルルソンはノルウェーのサーガも残しています。

ホーコン3世は継承法を制定し、王位継承権を有するのは国王の正嫡の長男であることが定められました。ホーコン5世の時代には、外国人はノルウェー国内に城や封土を有してはならない、という誓いがたてられました。ところがこの誓いはすぐに破られることになります。

 

4. デンマークとの同盟の始まり

ホーコン5世が亡くなると、彼の孫である3歳のマグヌスが即位します。

しかし彼は同時にスウェーデン王にも選ばれ、ノルウェーとスウェーデンは同君連合となりました。とううのも、ホーコン5世には長男がおらず、娘のインゲビョルグはスウェーデンのセーデルマンランドの有力者エーリクと結婚して子を儲けていたのです。

マグヌスは1343年にノルウェー王位を追われ、一方でスウェーデンもマグヌスを追放し、新たな王としてメクレンブルクのアルブレヒトを王位に就けました。こうして、ノルウェーとスウェーデンの同君連合は解消されます。

ノルウェーの王国参事会はマグヌスの次男ホーコンをホーコン6世として承認しました。1363年にホーコン6世はデンマーク王ヴァルデマー4世の娘マルグレーテと結婚。

▽ホーコン6世

 

2人にはオラヴという息子が生まれ、ヴァルデマー4世の死後にオラヴはデンマーク王オロフ3世として即位。ついでノルウェー王としてはオラヴ4世として即位します。こうしてノルウェーとデンマークの同盟関係がスタートしました。

▽オロフ3世

 

政治的混乱があった一方で、この時代ノルウェーにも黒死病が到来し甚大な被害を出しています。ノルウェーでは人口の約3分の1が死亡。その後も大何波も流行が到来し、15世紀には13世紀の半分にまで人口が減少しました。

農民からの税収があがってこなくなった国家は大ダメージを受け、王権は弱体化し支配力が弱まり、貴族も落ちぶれ農民同然となりました。農民は人口減で空いた土地を使うようになり農村は次第に回復しますが、支配層の没落が著しく、ノルウェーはデンマークやスウェーデンに比べ得て劣勢に立たされるようになっていきます。

デンマークやスウェーデンは厳しく農民に取りたることで支配の維持ができていました。そういう意味で、庶民としてはノルウェーのほうが生きやすい土地だったといえるかもしれません。

 

5. マルグレーテの野望

オラヴ4世の死後、妃のマルグレーテは彼女の親類にあたるポンメルン公家のエーリクをノルウェー王兼デンマーク王に就けようと画策します。また、スウェーデンにも攻撃を仕掛け、国王アルブレヒトを追放し、エーリクを国王に就けました。こうしてノルウェー、スウェーデン、デンマークのスカンジナビア3王国の連合、通称カルマル同盟が成立します。

ポンメルン公家エーリクはエーリク7世として国王につきました。しかし実質的な支配者はマルグレーテでした。

マルグレーテは各国の王国参事会を弱体化させて王権を強化し、ノルウェーとスウェーデンをデンマーク王家に従属させることを狙っていました。

マルグレーテとエーリク7世はスカンジナビアの商業を牛耳る北ドイツのハンザ同盟を敵視し、反ドイツ政策を推進します。ドイツ諸侯とハンザ同盟との連合三王国の戦争が勃発します。戦争により物資が不足し住民は重税に苦しむようになりました。

この機に乗じてスウェーデンは反乱を起こしカルマル連合からの離脱を実現しました。

▽クリスチャン2世

ところが1513年、新国王クリスチャン2世は、カルマル連合復活を目論んでスウェーデンに侵攻し軍事制圧します。そして見せしめとして82人の貴族と聖職者を虐殺しました。これを「ストックホルムの血浴」と言います。

この暴挙にスウェーデンとデンマークの貴族が蜂起し、クリスチャン2世は逃亡しました。

 

6. ノルウェーの宗教改革

16世紀前半、ドイツでは宗教改革が起こり、マルティン・ルターが主張する教義はデンマークやノルウェーでも広く読まれ影響力を強めていました。

カトリック擁護の支配者は危機感を強めました。ノルウェーの大司教座オラヴ・エンゲルブレクトソンは、ノルウェーがルター派に染まってしまわないようにあらゆる手段を尽くしますが失敗に終わりオランダに亡命します。

デンマークでは、クリスチャン2世の従兄である国王フレゼリク1世が死亡後、息子のクリスチャン3世が新国王に就任の流れとなりますが、彼は宗教改革派だったため、デンマーク国内のカトリック擁護派はかつて追い出したクリスチャン2世の復帰を望み、デンマーク王位をめぐる伯爵戦争が勃発しました。

▽クリスチャン3世

結局クリスチャン3世が勝利し、1537年にデンマーク及びノルウェー国王となります。彼は宣言通り、デンマークとノルウェーで宗教改革を断行しました。

宗教改革によって国王が教会の指導者となったため、資産や領地の没収を含めカトリック教会の勢力は大弾圧され、国王の権力が大幅に強化されました。ノルウェーの貴族も没落し、コペンハーゲンの国王と国王の行政機関が地方支配を深化させていきました。

 

7. スウェーデンとの抗争

当時のデンマーク=ノルウェーの最大の仮想敵はスウェーデンでした。16世紀、スウェーデンは地域の商業の中心地で、バルト海沿岸で産出される亜麻、麻、タール、松脂、木材などの輸出で栄えていました。

しかしスウェーデンが船で北海に出てイングランドやオランダ、さらには新大陸に向かうには、デンマーク領のエースレンド海峡を通らなくてはなりませんでした。デンマーク王は海峡通行のために多額の通行税をかけており、これはデンマークに莫大な富をもたらしていました。

スウェーデンはこのデンマークの軛から逃れたいという思いがあり、それが以降のデンマーク=ノルウェーとスウェーデンの対立構造に繋がっていきます。

▽カルマル戦争

デンマーク=ノルウェー王クリスチャン4世は、スウェーデンが北部とバルト海への影響を強めることを懸念し、スウェーデン南東部のカルマル要塞をめぐって干渉戦争を行いました。これがカルマル戦争で、当時のスウェーデン王は後に三十年戦争で活躍するグスタフ・アドルフ。当時まだ王についたばかりで17歳でした。

ノルウェーからも農民兵が召集されますが、ノルウェー兵はろくに銃も触ったことない連中で、酒によって喧嘩ばかりし、いざ戦いが始まったら我先に逃げてしまう全然役に立たない兵だったそうです。しかしこの戦争ではクリスチャン4世のデンマーク優位に戦いが終わり、北部の一部地域をノルウェー領に組み込みました

デンマーク=ノルウェーとスウェーデンの争いは続き、1643年に始まったトルステンソン戦争では、スウェーデン軍はユトランド半島に上陸し、海戦でもデンマーク艦隊はスウェーデン・オランダ連合艦隊に壊滅させられ、ノルウェーはイェムトランド地方、ヘリェダーレン地方、デンマークはゴトランド島、エーゼル島をスウェーデンに割譲しました。

▽カール・グスタヴ戦争

デンマーク=ノルウェーはカール・グスタヴ戦争で報復を仕掛けるもまたもスウェーデンに敗れ、今度はエースレンド海峡の東部を割譲させられました。これによりスウェーデンは念願のデンマークの軛から逃れることに成功し、スカンジナビアNo.1の大国の地位を揺るぎないものとしました。

▽ポルタヴァの戦い

スウェーデンはその後大北方戦争でバルト海の完全覇権を目指してピョートル1世率いるロシアに挑戦します。スウェーデン国王で軍事の天才と言われたカール12世は圧倒的な軍事力で多くの勝利を得ますが、ウクライナのポルタヴァでロシアに決定的な敗北を喫します。

ここでデンマーク=ノルウェーはスウェーデンに宣戦布告し、失地の回復に乗り出しました。しかしカール12世の軍は強く、スウェーデン軍はノルウェー南部を席巻しデンマーク=ノルウェーは危機に陥りました。

しかし、フレドリクスハルの包囲戦でノルウェー兵士から放たれた銃弾がカール12世の頭部を直撃。王は即死し、スウェーデン軍は撤退を余儀なくされました。

両者痛み分けで終わった戦争で、結局デンマーク=ノルウェーは失地回復はできなかったものの、スウェーデンはエースレンド海峡の通行税の免除を蜂起し、バルト地域とドイツに持っていた領土を全て失いました。こうしてスウェーデンは大国の地位を失いました。


8. 近世ノルウェー社会の変容

宗教改革とスウェーデンとの抗争の時代、ノルウェー社会は大きな変容を遂げています。
人口は16世紀から19世紀までの間に、15万人から90万人に増加をしています。人口の大半は農民で、ノルウェー農民は概して貧しく、生活は質素でしたが農民は確実に増加していきました。

スウェーデンとの戦争で戦費を賄うため、国は富裕市民に王領地を売却。市民は買った土地を農民に転売したため、ノルウェーでは自作農が急増しました。しかし増加した人口分の農地はなかったため、耕す土地がない農民は小作農となって自作農の下で賃金労働を強いられました。

とはいえ、ノルウェーでは農民への税負担が他の国と比べて比較的マシで、収入の4〜10%を租税として納めていましたが、同時代のフランスでは60〜75%が税金でした。なぜノルウェー農民への負担は少なかったのか、いくつか理由がありますが、不作続きで農民が貧しかったこと、戦争が続き兵役にとられる男が多かったため重い税を課すことができなかったことがあります。

農業以外の産業が発展したのもこの時代です。当時重要だったのが木材産業。

ヨーロッパ、特にイギリスからの需要が高く、ノルウェー木材は高値で取引さされました。加えて貴金属、鉱山業。戦費調達のために国内の鉱山資源開発が推進され、銀山や銅山の開発が進みました。また漁業も大規模な集団漁業が導入され、南欧からもたらされる安価な塩を使って作る干し鱈は名物となりヨーロッパ各国に輸出されました。

そして海運業も飛躍的に発展した産業です。17世紀にヨーロッパを覆った、三十年戦争や英蘭戦争、ネーデルラント継承戦争、ファルツ戦争など相次いだ戦争の時代に、中立を保ったデンマーク=ノルウェーの海運業は大きく発展を遂げました。ナポレオン戦争が起こる頃には、ノルウェーはヨーロッパ最大の海運国にまで成長していました。

しかしこうして上がったノルウェーの収入は3分の2がデンマークに持ち去られてしまい、首都コペンハーゲンはどんどん発展する一方で、ノルウェーの中心地クリスチャニア(現在のオスロ)は発展から取り残されていました

ノルウェーのブルジョワは中央集権化を批判し、ノルウェーにも独自の大学や銀行の創設を要求しますが、王はこれを聞き入れず、ノルウェー人の不満は高まっていました。

こうしてノルウェーのナショナリズムが高まり、後のデンマークとの分離独立の萌芽となります。しかしノルウェーが独立を果たすのはまだ当分先のことです。

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まとめ

粗放素朴な豪族の社会が、キリスト教をコアにして中央集権化するも、近隣諸国との合従連合の中で主導権を奪われ、次第に政治的中心地から外れていく様子を見てきました。

政治的には田舎国でしたがそれが故に、住んでる一般庶民にとっては比較的暮らしやすい国だったと言えるのかもしれません。

次回後編では、スウェーデンとの連合、そして独立と20世紀の二つの大戦期のノルウェーを追っていきます。

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