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落雷に打たれて死んだ歴史上の人物10人

とても低い確率の事故で死んだ有名な人もいる

落雷に当たる確率は100万分の1だそうです。

普通に生きている分には「まずない」事象であると言えます。ただ可能性はゼロではなく、日本では年間約10名ほどが落雷で死亡しているそうです。宝くじに当たるくらいの確率と言えるでしょうか。

人間の長い歴史をさかのぼってみると、その低い確率の事故で死んでしまった、国王をはじめとする有名人は大勢います。

 

1. ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・カルス(222年~283年)

ペルシア遠征中に雷に打たれ死亡

カルスは235年〜284年の軍人皇帝時代後期の皇帝。

おそらくガリアかイリュリクム出身で、前皇帝プロブス(276年〜282年)の護衛府長官を務めました。プロブスがペルシア遠征中に軍団兵に暗殺された後、後継者となりました。ドナウ川での短い戦いの後、彼は軍隊を率いてサーサーン朝と戦うためにティグリス川を越えました。ところがそこで突然、謎の死を遂げました。年代記では「雷に打たれた」とされますが、「雷」は陰謀や暗殺の暗喩である可能性もあります。

跡を継いだ息子のヌメリアヌスとカリヌスが彼の後を継ぐもすぐに死亡。その後軍人ディオクレティアヌスが帝位につき、テトルキア(帝国分担統治)を敢行して安定統治をもたらし軍人皇帝時代が終焉します。

 

2. ナト・イー(4世紀後半〜5世紀前半)

アルプス遠征中に雷に打たれて死亡

ナト・イーは4世紀後半から5世紀後半の時代のアイルランドの有力者です。

彼がどのような立場の人間だったのかは議論があります。初期のアイルランド文献は、彼を上王(各地方王の上に立つ覇王)のリストに載せていますが、歴代の上王が収めたタラの地の王のリストには名前がないため、北西部コノハトの地方王だったのではないかという説もあります。

ナト・イーは海を超えてスコットランドやアルプスまで遠征するなど、アイルランド国外での戦いを繰り広げたという記録があります。いくつかの年代記によると、ナト・イーはアルプス遠征中に雷に打たれ死亡。彼の従者たちは彼の遺体をアイルランドに運び、途中で10の戦いに勝利し、コノハトの首都クルアチャンに埋葬したそうです。

ナト・イーの息子アリル・モルトは5世紀の上王になり、さらに2人の息子はそれぞれ、Uí Fiachrach AidniとUí Fiachrach Muaideという中世コノハトの小王朝の祖となっています。

 

3. コンスタンディン1世(1035年~1100年)

テーブルに落ちた雷を受けて死亡

コンスタンディン1世は第一回十字軍の時代のアルメニアの支配者または軍司令官。

1045年にバグラトゥニ朝アルメニアの最後の王ガギク2世が、ビザンツ帝国の攻撃で殺害されるとコンスタンディンの父ルーベン1世は一族を集めてタウルス山脈のシス(現在のトルコのコザン)の北にあるコピタルの要塞に避難しました。

再起に数十年かけ父から軍事指揮権を付与されたコンスタンディンは、アダナ近郊の山城ヴァフカ城を征服することに成功。 山間の隘路を支配して交通税によって潤ったアルメニア勢力は、東のアンティタウロス山脈まで勢力を拡大しました。

その時第一次十字軍がアナトリア半島からレヴァントに侵入していた頃で、コンスタンディン1世はアルメニア系キリスト教徒の支配者として、十字軍に物資支援で最大限の貢献をしました。。十字軍側はコンスタンディンに侯爵の称号を与えています。

アニのサミュエルによる『クロノグラフィ』によると、ヴァフカ要塞にあった彼のテーブルに稲妻が落ち、コンスタンディンも死んだとされています。

 

4. ラーンナー王マンラーイ(1231年~1311年)

市場にいた時に雷に打たれ死亡

マンラーイは現在のタイ北部チェンマイを中心とするラーンナー王国を築いた人物です。

父は現在のチェンセン付近の支配者で、1259年にマンラーイは父の跡を継いで指導者となりました。マンラーイはバラバラだったタイ人の統一王国の建設を目指して地方の小王国と同盟を結び、1262年にチェンライを建設し都を移しました。

当時のチェンマイ地域はハリプンジャヤ王国を中心としたモン人の支配下にありましたが、マンラーイは軍をおこして1281年にランプーンを攻略。1287年にはスコータイ王国ののラームカムヘン王とパヤオ王国の王と同盟を結び、モン人の後ろ盾であるビルマがモンゴルに攻められている際にチェンマイ地域を占領。1296年には新たな首都としてチェンマイを建設しました。チェンマイはラーンナー王国の首都となり、16世紀にビルマに征服されるまでタイ北部の最大の勢力でした。

マンラーイ王は、1311年にチェンマイで亡くなりました。言い伝えによると、市内の市場にいた時に雷雨に遭い、雷に打たれたのだそうです。

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5. エルナン・ペレス・デ・ケサーダ(1515年~1544年)

エルドラド遠征失敗後に雷に打たれ死亡

エルナン・ペレス・デ・ケサーダは16世紀の新大陸の征服者(コンキスタドール)。

1535年に新グラナダ(コロンビア)に向けて出航したペドロ・フェルナンデス・デ・ルゴの船団に一緒に乗船し新大陸に到着。兄ゴンザロのマグダレナ川渡河、チブチャ王国の征服、エルドラド(黄金郷)探しの遠征に同行しました。

彼は3年間、砂漠や山、沼地などを探しましたがエルドラドは見つからず、多くの死者、脱走者を残し何も得ることがない大失敗に終わりました。1544年、エルナンは兄ゴンザロと共に、コロンビアのカボ・デ・ラ・ヴェラにて遠征の失敗の責任を裁く評議会からの知らせを待っていた時に落雷で死亡しました。

 

6. ゲオルグ・ヴィルヘルム・リヒマン(1711年~1753年)

雷電実験中に感電して死亡

ゲオルク・ヴィルヘルム・リヒマンは、ロシア国籍のバルト系ドイツ人の物理学者。

彼の故郷がピョートル1世によってロシア帝国に併合されたため、リヒマンはサンクトペテルブルクにあるロシア科学アカデミーにて物理学の教授として働きました。

1745年にライデン瓶が発明されて以来、電気現象が物理学者たちの関心を集めていた時代で、リヒマンも電気の研究に打ち込んでいました。彼は電気量を測定する電気計を発明し論文を書いています。

1752年、アメリカ植民地のベンジャミン・フランクリンは、雷が電気現象であることを主張し、その仮説を裏付けるための実験方法を提示しました。それはセントリーボックスを絶縁し、金属棒を嵐の中に突き立てて、雲からライデン瓶を充電できるかどうかというもの。この実験は1752年5月にフランスのマルリーラヴィルで初めて成功し、棒から火花が出るのが確認されました。

リヒマンはこれを自分でもやってみようと思い立ち、自宅の屋根の上の電線につながった鉄棒を設置し、その鉄棒に電磁石を取り付けました。1753年8月6日、雷鳴がとどろき、リヒマンが電位差計に目を向けていると、バーから小さな稲妻の玉が飛び出してきてリヒマンに直撃。即死しました。 

 

7. ジェイムズ・オーティス・ジュニア(1725年~1783年)

雷に打たれて死亡

ジェームズ・オーティスはアメリカ独立以前の植民地時代の政治家。

弁護士の彼は1750年に活動の拠点をイギリスのプリマスからアメリカのボストンに移しました。オーティスは、1761年イギリスが北米の貿易・航海法をより厳格に執行するために発布した補助令状に対し異議申し立てを行ったことで有名になりました。

これ以降、彼は本国が植民地アメリカに課す制限に対して立ち向かうことになります。1761年5月にマサチューセッツ州議会議員に選出され、その後ほぼ毎年再選を果たした。

1762年9月、オーティスは『マサチューセッツ湾の下院の行動に対する弁明』を出版。また、植民地宛にさまざまな州文書を書き、植民地の人々の権利を擁護し、時には本国当てに不満を述べたりしています。1783年、雷に打たれて死亡しました。

 

8. ザバー・ホーエンライター(1788年~1819年)

獄舎で雷に打たれて死亡

 ザバー・ホーエンライターは19世紀前半に南ドイツに出没した強盗団の頭目です。

ナポレオン戦争時から終了後、南ドイツには戦災で土地を失った多くの人々が移住して人口過多の状態にあり、さらに政治体制の再編成でかつての小王国がいくつかの国に統合され、領域の行政は不安定になりました。また1816年の「夏のない年」は大飢饉を引き起こし、不安、浮浪者、物乞い、強盗が増加していました。

 ザバー・ホーエンライターはそのような社会的な混乱の中で、ヤクザ者連中を引き連れ、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国、ホーエンツォレルン・シグマリンゲン公国の国境付近に出没し、放火、強盗、強奪、窃盗を働きました。

1819年4月16日、一味は工場で強盗を働いたのち、森で食事をしていたところを森林警備隊員によって見つかり逮捕されました。逮捕された一味はビーベラッハに連行され、市内の様々な場所に収監されました。

ザバー・ホーエンライターは、一味の女たちと一緒にエヒンゲンの塔(Ehinger Turm)に収監されます。裁判の時間を待つ1819年7月20日の夜、エヒンゲンの塔に落ちた雷に打たれて死亡しました。

 

9. エスワティニ国王ンドゥブングニェ(1780年~1815年)

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雷に打たれて死亡

ンドゥブングニェはかつてスワジランドと呼ばれたエスワティニの国王。

父のングワネ3世を継承し、1780年に王となりました。彼の治世下での功績はあまり記録されていません。現在のムロシェニ付近に防御施設を含む住居を建設したことが挙げられます。1815年に雷に打たれて死亡しました。

 

10. フレッド・G・ヒューズ(1837年~1911年)

獄舎で雷に打たれて死亡

フレデリック・G・ヒューズは、19世紀後半から20世紀前半のアメリカ、アリゾナ州の地方政治家、ギャンブラーです。

南北戦争従軍後、ヒューズは1876年にアリゾナ州南部に移り住み、サンタ・リタ山地で採掘を始めました。 この時の発見がグレータービル鉱区の設立につながり、その後も定期的にこの地域を採掘し、富を蓄えました。

1877年、第9代アリゾナ準州議会でピマ郡代表として選出され、2年後には議長に選出されました。一方でヒューズはえげつないギャンブラーで、プロギャンブラーとして日夜大金を賭けて勝負していたのですが、ギャンブルの軍資金として州の公金を利用していたことがバレてしまいます。

1898年1月、ランズバーグの町で逮捕されますが、2年後の1911年9月16日、アリゾナ州グレーター・ビルで稲妻に打たれて死亡しました。

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まとめ

雷と言う自然現象なので、その人物が何をしたかという必然性はないです。

昔の人はもしかしたら雷に打たれた人は罪な人と思ったかもしれませんが、偉大な王も科学者も犯罪者もいます。

死にざまは生きざまと言ったりしますが、雷に打たれて死ぬのはやはり派手な生きざまだったということでしょうか。

 

参考サイト

"Carus" Britannica

Nath Í mac Fiachrach - Wikipedia

"A History of Armenia by Vahan M. Kurkjian"

"Mangrai" Britannica

"Hernán Pérez de Quesada" Real Academia de la Historia

"Dreiländereck in Räuberhand" Schwarzer Vere

Fred G. Hughes - Wikipedia