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中世ポルトガルの歴史 -ヨーロッパの辺境から海洋帝国へ-

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Photo by Abelson 

どうやって辺境国ポルトガルは海洋帝国になったのか

 ポルトガルは1143年に、カスティーリャ=レオン王国から独立してできた国です。

もともとはレオン王国の前身であるアストゥリアス王国のアルフォンソ3世が9世紀半ごろからアル・アンダルスの内乱の隙を狙ってガリシア人の農民を入植させ、ポルトゥカーレ伯領を設立したことに始まります。

 ポルトガルは長年ヨーロッパの辺境、言葉を選ばずに言うと超ド田舎国だったわけですが、15世紀から大航海時代の先駆者として時代を先駆けていく存在になっていきます。

今回は大航海時代以前、どのようにポルトガルという国が作られていったかをまとめていきます。

 

1. ポルトゥカーレ伯領からポルトガル王国へ

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Image by  Basilio

ポルトゥカーレ伯領の拡大

711年、アラブ帝国の将軍ターリクによって西ゴート王国が崩壊しました。

ペラーヨを始め西ゴート王国の貴族や民衆は北に逃れ、山岳民族のバスク人やカンタブリア人らに受け入れられ、アストゥリアス王国を築きました。

イスラームによって占領されたアル・アンダルスは、756年にアブドアッラフマーン1世によって後ウマイヤ朝(コルドバ・アミール国)が設立されてから発展を遂げ、アストゥリアス王国を圧迫しました。

しかし9世紀、アブドアッラフマーン2世による行政改革により利権を失う貴族による反乱が多発してアル・アンダルスは大混乱に見舞われました。

この機会を活かし、アストゥリアス国王アルフォンソ3世は、アル・アンダルスのムワッラド貴族(元キリスト教徒のイスラーム貴族)であるイブン・マルワーンと協力して、現在のポルトガル北部のドゥエロ川河口のポルトゥカーレと、モンデーゴ川下流のコインブラを占拠しました。

9世紀後半にはポルトゥカーレを中心とする南部にポルトゥカーレ伯領が形成されました。

▼アルフォンソ3世

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アル・アンダルスとキリスト教徒との戦いは一進一退で、アブド・アッラフマーン3世以降の後ウマイヤ朝の勢力回復によって、南部のコインブラは奪い返されました。その後1064年にムラービト朝からまたも奪回し、コインブラ伯が置かれました。


11世紀末、カスティーリャ=レオン国王アルフォンソ6世の女婿テレーサの夫エンリケ・デ・ボルゴーニャ(フランスのブルゴーニュ)がポルトゥカーレ伯に任命されました。

エンリケはムラービト朝から国土を防衛しつつ、キリスト教徒の領土拡大のために再植民運動を進め、民衆騎士を中心とする都市の自治権強化につとめました。
ドゥエロ川以南には自治権の強い都市が作られていく一方で、北部のガリシアは領主の力が維持されました。

自治権の強い南部との、文化・慣習の差が開いていきました。

 

2. ポルトガルの独立

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ポルトガルの独立 

エンリケの死後、テレーサは北部ガリシアと南部を含むポルトガルの分離独立を画策し、ガリシアの貴族トラバ伯と連携しました。

しかし、ガリシアの貴族による支配によって自治権が損なわれることを恐れる南部の都市は、テレーサの息子アフォンソ・エンリケスのもとに結集しました。
アフォンソは1128年に実母テレーサとトラバ伯をサン・マメーテの戦いで破り、彼らをガリシアに追放しました。

アフォンソはカスティーリャ=レオン王国に従属しつつも、アルフォンソ7世の即位式を欠席するなど自立性を強め、独自にイスラームに対するレコンキスタを進行させました。

アフォンソの軍は1139年にオーリケの戦いでムラービト軍を打ち破り、兵士たちの歓喜の声を受けて国王就任を宣言しました。

▼オーリケの戦い

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アフォンソは主君であるカスティーリャ=レオン王国に対する独立闘争をはじめ、アルフォンソ7世は1143年にアフォンソの王位を認めました。

こうしてボルゴーニャ朝ポルトガル王国が成立し、アフォンソはアフォンソ1世として初代国王となりました。

 

ポルトガル王国の拡大

アフォンソ1世はコインブラを都にして組織的にレコンキスタを進めました。原動力になったのは富裕な自由農民で、彼らは平民騎士となり国王に仕え自費で軍役に就く代わりに、征服地の支配権などの特権を得ました。征服地では辺境防衛と農地開拓を同時に行う自治共同体コンセーリョが形成され、平民騎士が寡頭的に支配しました。

またパレスチナの十字軍に向かう途中の北フランスを始めとした騎士たちや宗教騎士団もレコンキスタに加わり、1147年の港町リスボンの陥落に大きな役割を果たしました。

 12世紀後半、ポルトガル王国は東進を開始し、セビーリャをはじめとするイベリア半島南部へ進出しようとしました。しかしムワッヒド朝の抵抗とレオン王国の妨害で阻止されました。その後はポルトガルのレコンキスタは南に向かって拡大しました。

1212年、カスティーリャ王国のアフォンソ2世が大将となり、ポルトガルをはじめキリスト教諸国が援軍を送ってムワッヒド軍と戦ったラス・ナバス・デ・トローサの戦いでは、キリスト教諸国は大勝を収めました。

これによりキリスト教のイスラームへの優位性が確定的になり、後にムワッヒド朝は内紛によってイベリア半島から追放されます。

 ▼"La batalla de las Navas de Tolosa" Francisco de Paula Van Halen,1864

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 これ以降、カスティーリャ、アラゴン、ポルトガルは南下政策を拡大し、13世紀前半にはポルトガル南部のアレンテージョとアルガルヴェ東部を占領。そして1249年に国王アフォンソ3世自ら軍を率い、アルガルヴェ西部の主要都市ファロを陥落させ、レコンキスタを完了させました。

ポルトガルのレコンキスタはスペインよりも253年早く終わり、それがいち早い王国支配の深化に繋がっていきます。

ちなみにアルガルヴェはムーア人(ベルベル人)の勢力が強く、ポルトガルには属するも自治状態が長年続きました。ポルトガル国王は1910年まで「ポルトガル及びアルガルヴェの王」と名乗るのが通例でした。

▼左上のアルガルヴェの領土とポルトガルの領土が描き分けられている1561年の地図

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3. ポルトガルの経済発展

 ポルトガルの王権はカスティーリャやアラゴン、ナバーラと比べて強いものがありました。しかしブラガ大司教をはじめとする宗教勢力は莫大な所領と資産を持ち、国内最大の勢力でした。またドミニコ会、ベネディクト会、シトー会などの修道院も規模を拡大していたし、レコンキスタの中核を担った富裕農民は貴族化し、自治共同体コンセーリョを支配し、膨大な所領から上がる収益を元に力をつけていました。

レコンキスタ完了後は、これらの有力な国内勢力を抑え、王権支配を拡大させることが目論まれました。

 

王権の国内有力者への介入

アフォンソ2世は1220年から教会や修道院、貴族の土地の検地を進めて土地台帳の作成を始めました。

王権の介入を嫌うブラガ大司教は国王の破門などで抵抗します。次の王サンショ2世も、教会への寄進と遺贈を禁止したため、教皇から廃位させられました。教会勢力の支持で王位に就いたアフォンソ3世も土地の検地を進め、とうとう教会勢力と貴族を屈服させました。

ドゥエロ川以南の自治共同体コンセーリョは、租税や裁判に関する権利を有していましたが、自治権を引き続き認める代わりに裁判権を奪っていきました。

レコンキスタの原動力となったテンプル騎士団や病院騎士団、サンティアゴ騎士団は、王権の支配下に入ることを条件に大土地を所有を認められました。

このようにしてポルトガル王権は国内有力者を屈服させ、強力な力を手にしました。

 

13世紀末から14世紀にかけて、経済面でもポルトガルは大きく発展しました。

▼農夫王ディニス1世

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「農夫王」と称されるディニス1世は、国内の農業振興のために干拓や植民を推進。入植地に定期市を開催させて地域間の交易を促しました。

造船業も推進されたことで遠隔地交易も発達し、イスラームとの交易も盛んになりイスラーム金貨銀貨が流通しました。フランドル、イギリス、フランス向けの海外貿易も活発になり、ポルトガルからはワイン、オリーブオイル、コルク、ドライフルーツなどが輸出されました。

海外貿易の拠点として重要になったのはリスボンで、良港を持つリスボンは商業の中心地として栄え、14世紀末には3万5,000人の人口を抱えるようになりました。

1248年にカスティーリャ王国によりセビーリャが征服され、グアダルキビル川一帯の安全な航行が可能になると、ジェノヴァ商人がリスボンに駐留するようになりました。

先進的なジェノヴァ商人の貿易、金融、航海の知識と資本は、後にポルトガルが海洋に進出する上で重要な貢献を果たすことになります。

 

4. ペストの到来

14世紀にヨーロッパを席巻したペストは、1348年の秋にポルトガルにも到来し、破壊的な影響をもたらしました。リスボンやコインブラといった大都市では人口が激減し、農村でも被害が大きく、総人口の1/3が死亡したと考えられています。

農民は土地を捨てて都市に逃げ、穀物の生産量が激減。収入源が減った土地所有者は、作物を単価の高いワインやオリーブオイルに切り替えたため、国内の穀物不足は深刻になり輸入に頼らざるを得なくなりました。

ペストを恐れた土地所有者は、財産を教会に寄付して神の加護を得ようとしたため、教会勢力が拡大し、国王の税収は減少しました。

 

 カスティーリャとの戦争に敗れる

長期の不況に歯止めをかけたい貴族層の思惑で、国王フェルナンド1世はカスティーリャ王国の内乱を制してトラスタマラ朝を開いたエンリケ2世に対し、カスティーリャの王位継承権を主張しました。

カスティーリャとポルトガルの戦争が勃発し、3回行われた戦争はポルトガルの大敗北に終わりました。海軍は壊滅し、国土は荒廃しました。

和約により、エンリケ2世の長男であるカスティーリャ国王フアン1世が、フェルナンド1世の娘ベアトリスと婚姻することになりました。フェルナンド1世の死後はベアトリスが国王として即位しますが、カスティーリャのポルトガルへの介入は高まっていきました。

 

ポルトガルの再独立

国王ベアトリスの摂政には母であるレオノール・テレスが就きますが、彼女は大貴族メネネズ家の出身で、一連のカスティーリャとの戦争で大きな利益を得ていました。

物価高騰や食料不足で困窮する都市下層民はたびたび反乱を起こしていました。戦争特需で儲けたメネネズ家は、国土荒廃の主因であるという批判がかねてよりあり、反レオノールの機運が高まっていました。1383年12月にカスティーリャ王国がレオノールを支援するために軍を送ると、カスティーリャに国を乗っ取られると危機感を抱いた大法官アルヴァロ・パイスが市民の反乱軍と連携しました。

パイスは前カスティーリャ王ペドロ1世の庶子でアヴィス騎士団長のジョアンを説いて、「王国の統治者」に推戴しました。この知らせはたちまち国中に拡散し、暴動が各地で発生しました。

1384年1月、レオノールが夫であるフアン1世に統治権を移譲し、ポルトガルがカスティーリャ王権下に組み込まれると、国内は大貴族が支持するカスティーリャ派と、中小貴族と都市市民が支持するアヴィス派に分裂して内乱が発生します。

1385年5月、アヴィス派はジョアンを国王に選出したため、フアン1世は大軍を引き連れてポルトガルに侵入しました。ジョアン率いる軍は、イギリス弓兵の助力を得て、アルジュバロータの戦いでカスティーリャの軍を打ち破りました。

▼アルジュバロータの戦い

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こうしてポルトガルは再独立し、ジョアン1世が初代のアヴィス朝が成立しました。

ポルトガルはカスティーリャに対抗するためにイギリスとの同盟を強化し、これは現代に至るまで防衛の基本となりました。また、王朝交代に都市ブルジョワジーが大きな役割を果たしたことで、その功によって彼らは国の政策決定プロセスに参加する権利を得ました。

 

5. 大航海時代への突入

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Photo by Abelson 

1411年にカスティーリャとの和約が結ばれ、国境線の安全が確定すると、ジョアン1世は国内問題の対処に乗り出しました。

ペストと長く続いた内乱で国土は荒廃し、経済危機は続き、国家収入は半分にまで減っていました。

特に深刻だったのが金不足による貨幣価値の低下した。金はアジア貿易によって確保していましたが、ジョアン1世はより大量に金を得る必要から、金の供給元であるアフリカ大陸への進出を図りました。

サハラ砂漠を超えたキャラバンルートで金がもたらされていることはよく知られており、さらに北アフリカのモロッコは土地が肥沃でサトウキビの生産地でもありました。

1415年、ポルトガル軍はマリーン朝が支配するセウタを攻略しました。

ジョアン1世の息子ドゥアルテは、モロッコのタンジールを征服しようとしますが失敗に終わります。続くアフォンソ5世はアルカセル・セギールを征服し、モロッコへの進出が積極的に行われました。

このようにして、ポルトガルは内乱が続くカスティーリャ・アラゴン・ナバーラなどのイベリア半島キリスト教諸国を尻目に、いち早く対外進出に乗り出しました。

航海術が発展したことでポルトガルの船乗りは遠く西アフリカ沿岸にまで進出できるようになり、エンリケ航海王子の登場でポルトガルの海洋進出は弾みがつき、その後はヴェルデ岬、喜望峰、そしてインドのゴアにまで進出していくことになります。

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まとめ

 ポルトガルは国土が小さく、レコンキスタが比較的早く完了したこともあって、内政の充実化を図る時間的余裕が生じました。

アラゴン連合王国はポルトガルよりも早く地中海に進出していましたが、オスマン帝国の拡大やフランスとの対決など敵も多く、後に衰退しています。

対外進出していくにあたっては、技術や知識のあったジェノヴァ商人と長年緊密であったことと、金の欠乏という台所事情があったこと、そして聖戦意識が当時もなだ根強く残っていたことが挙げられます。

そしてもっとも有利だったのが、ヨーロッパの西南部にありアフリカに近いという地理的条件でした。

ポルトガルは有利な地理的条件を活かし、インド、アジア、そしてブラジルへと進出しポルトガル海洋帝国を築いていくことになります。

 

参考文献

 

スペイン・ポルトガル史 (新版 世界各国史) 立石 博高  山川出版社

スペイン・ポルトガル史 (新版 世界各国史)

スペイン・ポルトガル史 (新版 世界各国史)

  • 発売日: 2000/06/01
  • メディア: 単行本