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「売国奴」と呼ばれる人たち:ジャン=バティスト・ベルナドット

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第14回:ジャン=バティスト・ベルナドット(1763-1844)

 ジャン=バティスト・ベルナドットは、ナポレオン時代のフランス陸軍の元帥。

 ナポレオンの兄ジョゼフの妻の妹デジレ・クラリーの夫で有能な軍人。ナポレオンの縁戚であることもあり元帥に抜擢されます。

その後、王家の途絶えたスウェーデンに傀儡要員として送り込まれ、スウェーデン国王に就任

ところがスウェーデン王カール14世となったベルナドットは、傀儡どころかすっかりスウェーデンの味方になってしまいナポレオンの政策にことごとく対抗。あろうことか対仏大同盟の一翼となってフランスに攻め入ってしまいます。

そのため、スウェーデン人からは英雄視されていますが、フランス人からは国を裏切った売国奴と見なされています。

 

キャリア前半 - 一兵卒から大出世

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ベルナドットはフランス南西部アキテーヌ地方のポーという町の生まれ。 

17歳で陸軍に入隊し、コルシカ島の反乱制圧に従軍。その後8年間軍曹を務めます。

フランス革命が起きると、ベルナドットはトントン拍子に出世。29歳で大佐に。フリュールスの戦いの後、31歳で将軍になっています。

実戦では、オーストリア大公カール1世の軍を退けたり、イタリア戦線ではナポレオン本体の後続部隊を率いたり、実戦で大いに活躍します。

ナポレオン戦争従軍

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ベルナドットはナポレオン戦争では非常に重要な役割を果たし、

1804年から翌1805年までハノーヴァーの統治者として就任。さらにアウステルリッツ三帝会戦では第一軍の指揮官として従軍もしています。

ただ、必ずしもナポレオンに従順だったわけではなく、1799年のナポレオンのクーデーターや、1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦いへの従軍を拒否したりしています。

ナポレオンは、そこそこ有能だけどあまり従順でないベルナドットを、それでも邪険にできませんでした。

というのも、ベルナドットの妻デジレ・クラリーは、ナポレオンの兄ジョゼフの妻の妹で、ナポレオンからすると縁戚に当たる存在。

さらに言えば、もともとデジレ・クラリーはナポレオンの婚約者でもありました。

ナポレオンはデジレ・クラリーを不幸にさせたいくないという思いもあり、ベルナドットを左遷したりはせずに活かさず殺さず置いておいたのでした。

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ベルナドット、次期スウェーデン国王に推挙される 

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世継ぎが絶えたスウェーデン王室

1809年、スウェーデンでクーデーターが起き、対フランス強硬派だった国王グスタフ4世が廃位させられ、ハト派の老国王カール13世が即位します。

しかし1810年に跡継ぎ候補だった皇子カール・アウグストが亡くなり、急ぎ世継ぎを求めなければならなくなりました。

スウェーデンはフランスとの関係を考慮し、ナポレオンにカール13世の跡継ぎの人間を送ってくれるように打診しました。

この難解な人事に、ローマの統治のために赴く予定だったベルナドットに白羽の矢が立つことになります。

仁義に厚い将軍ベルナドット

これには駐フランス・スウェーデン使者のカール・オットー・メルネル伯爵の意向が強く働いていたようで、ナポレオンに対し「ぜひベルナドット様を我が国に!」と強く申し入れたそうです。

というのも、ベルナドットはプロイセン軍のブリャッヒャー将軍を降伏せしめた時に、随行していたスウェーデン軍に対し寛大な処置をしたことが評判になっており、スウェーデン人に「仁義に厚い将軍」として人気があったからです。

スウェーデン議会もベルナドットの国王就任を承認し、ベルナドットはスウェーデンに赴き、執政として国の舵取りを担うようになります。

ナポレオンとしても、ロシアに対抗するにあたって北方の守りは大事だったため、フランスのシンパの国王が統治することに安心感もあったでしょう。

ナポレオンに反旗を翻す

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同1810年11月から、国民の圧倒的な支持のもと、早速スウェーデンの執政を取り始めたベルナドット。

しかしナポレオンの指示はまったく聞かず、スウェーデンの立場を考慮した独自の動きをし始めます。

フランスのロシア遠征が1812年に始まると、ロシアと同盟を結びフランスに対抗

さらにその結果ロシア遠征が失敗に終わると、1813年にプロシア、イギリスと同盟を結び、第6次対仏大同盟に参画

デンネヴィッツの戦いやライプツィヒの戦いでナポレオン軍を敗る功績を上げ、ヨーロッパからナポレオンを駆逐にすることに成功します。

反王党派として戦った男が、国王として共和主義を駆逐するとは何と言う皮肉でしょうか。

というか、ベルナドット自体はもしかしたら別に王党派とか共和派とか興味ない「ノンポリ」だったのかもしれませんね。

スウェーデン国王カール14世として

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 ナポレオン戦争後の1813年、ベルナドットはデンマーク・ノルウェー王国領のユトランド半島に侵攻し、ノルウェーを併合します。

しかし翌1814年ノルウェー副王クリスチャン・フレデリックの反乱の最中、ノルウェーは独立を宣言。スウェーデン・ノルウェー戦争が勃発します。

戦後、ベルナドットはノルウェーの大幅な自治を認めた上で、ベルナドットを同君王とするスウェーデン・ノルウェー連合王国が成立しました。

その後ベルナドットは対外的に中立政策を掲げ、国内の産業の振興をもって国力の強化を図ります。これによりスウェーデンは経済成長を遂げるも、2つの大きな大戦も含めてスウェーデンは中立を貫き、現在もベルナドットの中立政策はスウェーデンの対外政策の根幹を成しています。

ちなみに、ベルナドットが始祖のベルナドット王朝は、現在もスウェーデン王室として続いており、現国王はカール16世グスタフです。

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まとめ

ぼく自身はベルナドットの生き方に共感できると言うか。

想像でしかありませんけど、イデオロギーという形のないもののために死ぬより、時と場合によって現実的に身を処していくほうが自分含めてみんなハッピーになれる、みたいな考えだったのではないかなという気がします。

それがノンポリと呼ばれるのかもしれませんが。

その子孫を国王に戴くスウェーデンという国も伝統があるのに革新的で、国際的には中立を貫いているのに世界中に武器を売りさばいていたりとか、いかにもノンポリの子孫らしい立ちふるまいではあります。

 

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