第3回:フィリップ・ペタン(1856 - 1951)
フィリップ・ペタンは、第二次世界大戦中のドイツ占領下フランスにおいて、「ヴィシー政権」と呼ばれる対独融和政権の主席を務めた人物。
ナチス・ドイツの協力者として、フランスでは批判の対象となる人物である。
キャリア前半 - 主流派から外され、冷や飯喰らい
1856年生まれ。彼の父親は農夫であったが、ナポレオン戦争従軍者の大叔父から、輝かしいフランスの栄光の話を聞いて育った。
1876年に陸軍に入隊し、1887年にサン・シール陸軍士官学校に入学。エリートコースを進んだが、彼の出世は遅々として進まなかった。
なぜなら、ペタンは陸戦において、野砲や重機関砲、榴弾砲などの「火力の重要性」を唱えていたものの、当時のフランス軍事界は、「銃剣突撃のみが勝敗を決する最終的要素」「いかなる犠牲を払っても攻勢をとること」が強調されていた。
ペタンは主流派から外され、58歳になるまで階級は大佐で、第33歩兵連隊の連隊長にすぎなかった。
第一次世界大戦の英雄に
サン・カンタンの戦いで評価を上げたペタンは、史上名高いマルヌ会戦において第6軍司令官に任ぜられる。
アルトワの戦いの後、第2軍の総司令に任じられシャンパーニュの戦いを率い、西部戦線で確固たる名声を手に入れた。
1916年には、ヴェルダンの戦いの壮絶な戦闘を率いてドイツの進行を防ぐことに成功。1917年にはフランス陸軍総司令官となり、戦後は元帥に昇進した。
第二次大戦勃発、親独政権「ヴィシー政権」首相に
1939年、スペインのフランス大使に就任するが、第二次世界大戦の勃発によって本国に召還される。ドイツのフランス侵攻後は、ポール・レノー内閣に入閣。
しかしフランス軍は連戦連敗。戦況はどんどん悪化し、イギリス軍は本国に撤退。マキシム・ウェイガン将軍とペタンはこれに激怒し、これ以上ドイツ軍を止める術はないと判断。ドイツとの早期の講話を主張した。
1940年6月10日、政府は戦火を逃れボルドーまで後退。レノーは最後まで抗戦を主張したが、最終的にペタンを次の首相に任命した。
6月22日、フランスはドイツと休戦協定を結び、パリを含む北部、西部の太平洋側をドイツ勢力下とすることで合意。中部の街ヴィシーに首都を置き、フランス国を樹立(ヴィシー政府)。
Map by User:Adam Carr, August 2006
黄はドイツ軍の占領地域、橙は「保留地域」、紫はベルギー占領軍統治下の「禁止地域」、赤が禁止地域のうち、沿岸防備地域。青がドイツへの割譲地、緑がイタリア軍の占領地、白はヴィシー政府の支配地域である「自由地域」。
古き良きフランスに戻れ
ペタンが首班のヴィシー政権は、共和国の退廃した道徳がフランスの敗退を招いたとして、カトリックを柱としたフランス革命以前の権威主義・家父長的なイデオロギーを重視する「国民革命」を推進した。
すなはち、フランス革命以来フランス国民のスローガンであった「自由、平等、友愛」は、「労働、家族、土地」にとって変わられた。
政権崩壊、逮捕、流刑
ヴィシー政権は建前は中立国ではあったが、ドイツ軍に物資を供給したり、日本軍の仏領インドシナ駐留を許可したり、枢軸国側への協力をしていた。
1944年に連合国と共に、亡命政権であるシャルル・ド・ゴールのフランス共和国臨時政府がフランスに上陸。ペタンはヴィシー政権をド・ゴールに引き渡そうとしたが、拒否され南ドイツに亡命。
戦後に逮捕され死刑が宣告されるも、高齢を理由に減刑され、流刑先のユー島で死亡した。
なぜ売国奴と呼ばれるのか
ペタンは冷徹な現実主義者であったため、自らの視野の先に「フランスの栄光の復活」を見いだせなかったのだと思う。
バクチを打たずに国土と国民を守る回答が、ドイツ融和策だったのではないだろうか。
どう転ぶか分からない戦線の先に、連合国の反転攻勢があることを信じることができなかった。
売国奴と言われる理由はこうだろう。
- 非人道的なナチス・ドイツに魂を売ったフヌけ野郎!