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ラオスの歴史(後編)―フランス領からの独立、社会主義ラオスの成立

インドシナ山岳国家の現代史

ラオスの歴史の後編です。

前半では、ラーンサーン王国の成立から分裂、後継国家のビエンチャン王国がシャム王国との戦争の末に破壊される経緯をまとめました。

前編はこちらからご覧ください。

後編はシャム王国の支配下からフランスの保護領となり、太平洋戦争を経て独立を果たすもベトナム戦争と連動した革命戦争が起こり、社会主義ラオスが成立する過程を解説します。

 

7.フランスの植民地に

ラオスを完全に併合したシャム王国は、ルアンパバンを中心とする北部、ノーンカーイを中心とする中部、チャンパサックを中心とする南部の3つの行政地域に分割しました。現在のタイ東北部コラート高原は正式にシャムに併合されました。

シャム王国はラオスの土地を3つの行政地域に分1831年には、シャム王国はカンボジア全土とベトナム南部の併合を目指して軍事侵攻を行いますが、阮朝ベトナムの守備軍に撃退されています。この戦争でベトナムはプノンペンを含む東部カンボジアを併合し、チャンパサックなど南部はベトナム属領となりました。

シャム王国による軍事支配と住民の強制移住によってラオスは荒廃しました。1830年代から1890年代にかけては、農民反乱、盗賊の跋扈によって無秩序状態となります。

特に大きな被害をもたらしたのが、太平天国の乱の前後に南中国に発生し、ラオス北部に侵攻してきた中国人の無法者集団である黒旗軍です。

彼らとシャム軍の戦いであるホー戦争では、ラーマ5世が派遣したシャム軍も完全に鎮圧できず、ラオスは荒廃に任せるような状態でした。

この時、東南アジアにはイギリス、フランス、オランダなどが植民地獲得のために勢力を拡大しており、1883年にはベトナムが、1884年にはカンボジアがすでにフランスの保護下に入っていました。

さらなる領土拡大を目指すフランスのコーチシナ総督ル・ミール・ドゥ・ヴィレーは、ラオスの植民地化を進めるべく、1886年にルアンパバンに副領事館を設置することをシャムに認めさせました。

総督には東南アジアの文化習俗に詳しくカンボジアで電気技師として働いていたオーギュスト・パヴィという人物を派遣しました。

オーギュスト・パヴィは、高慢な態度をとらず真摯な態度で、ルアンパバン王ウン・カムの信頼を得ました。1887年、黒旗軍がルアンパバンに襲来したとき、オーギュスト・パヴィは自ら国王と王族たちを連れてルアンパバンの脱出に成功。命を救うことに成功しました。

その後、オーギュスト・パヴィは黒旗軍の重鎮と直接会って、襲撃を止めてくれないか、と話をします。すると黒旗軍は、バンコクに捕われている自分の兄弟を釈放してほしい、と言います。オーギュスト・パヴィはバンコクと交渉をし、翌年に釈放させました。黒旗軍はオーギュスト・パヴィを信頼し、ルアンパバンからの撤退を約束しました。

ルアンパバンの王族たちは、何もしてくれないシャム王国よりも、フランス人のオーギュスト・パヴィのほうが信頼できるとして、フランスの保護領になることで合意します。

シャム王国はこれに抵抗し、1893年フランス・シャム戦争が勃発しました。フランスは勝利し、「フランス・シャム平和条約」を締結させ、メコン川左岸がフランスの保護領となりました。

こうして現在のラオス全域が正式にフランスの保護領となりました。伝統的にコーラート台地はラーンサーン王国の地域でしたが、メコン川がフランス領とシャム領の国境となったため、ラオ族の居住地がラオスとタイに分割されることになったわけです。

1899年にフランスは旧ラーンサーン王国の地域を、ラオの複数形である「ラオス」と改名しました。

 

8.フランスのラオス統治

フランスはビエンチャンを首都におき、ルアンパバンを除く各省に理事を派遣して直接統治を行いました。ルアンパバンは保護領となり、国王による統治体制が継続されました。

ラオス全土にはフランス人は数百人しかおらず、実際の統治にはベトナム人が活用されました。

いわゆる間接統治というやつで、一番上がフランス人、その次がベトナム人、三番目がラオ族で最下層が少数民族というヒエラルキーを敷き、何か統治に不満があっても直接的な怒りはベトナム人に向かい、腹いせは少数民族を弾圧することで溜飲を下げさせるというものです。

当初フランスはラオスの鉱物資源開発を進めようとしましたが、開発は思ったように進まず、輸送路の整備も進まず、植民地のコストはまかなえず、むしろ赤字経営でした。

そこでフランスはなるべくコストを抑えた経営に舵を切ります。具体的には、インフラ整備や行政、教育になるべくコストをかけないというものです。

通常フランスは支配下の地域にフランス語教育を行う学校を設立するのですが、ラオスの場合はその数も少なく、通ってくる子供もベトナム人官吏の子供でした。

ラオス人はほとんどフランス式学校にはこなかったため、ラオス人の教育機会は少なく、地方から首都ビエンチャンに行って高等教育を受けるとか、高等教育を受けた人が地方に戻ってラオス人としての国民意識や言語、文化を伝えるといったことが起こらず、ラオス意識の一般民衆レベルでの成立が遅れることになります。

また、基本的にフランス人はラオス人を「だまされやすく、何事も他人任せで、きつい仕事にはむいていない」と考えていたということもあります。

何事もゆっくりのんびりしているラオス人、勤勉で抜け目のないベトナム人という構図は今も昔も変わっていないようです。

第二次世界大戦後、フランス本国がドイツの占領下に入り、傀儡政権であるヴィシー・フランスが成立します。

ますますラオス統治に構っていられなくなったフランスは、ルアンパバン国王と正式な保護条約を締結し国王の法的な地位を確定し、ルアンパバン宮廷会議を内閣に改造し、副王の家系である知識人ペッサラートを首相に就任させました。

また、フランス領への進出を目論むタイと日本に対抗するために、ラオス刷新運動、通称ラオ・ニャイ運動を推進してラオス人エリートの本格養成を始めました。

狙いは親仏のラオス人エリートを養成し、仏領インドシナの安定を目指すものでしたが、高いレベルの教育を受けたラオス人エリートは逆にフランスからの独立を目指すようになります。

このラオ・ニャイ運動がラオス・ナショナリズムの始まりです。またこの時のラオ・ニャイは多数派であるラオ族を対象としたもので、少数民族は含んでおらず、ラオス・ナショナリズムにも少数民族は統合対象になっていませんでした。

 

9.ラオス独立と内戦のはじまり

太平洋戦争末期の1944年10月、ヴィシー・フランス政権が崩壊しフランス共和国臨時政府が成立し、仏領インドシナの行政府も連合国の支配下に入ったため、日本軍はインドシナ半島の単独支配を目論み、クーデターを行ってフランス駐留軍と行政官を追放しました。

ラオスでは4月8日に日本軍はシーサワーンウォン王を担いでルアンパバン王国に独立を宣言させます。もちろん大東亜共栄圏の枠内での独立なので儀式的なものでした。
1945年8月15日に太平洋戦争が終わると、ルアンパバン王国の首相ペッサラートが主導し、ラオスの独立運動が始まりました。これはラオ・イサラ、自由ラオス運動と呼ばれます。

ラオ・イサラ運動はラオス各地にいた少数の独立運動家が集まってできた運動体で、独立の志向は共通していたものの、タイとラオスの政治的結合を主張する者から、歴史的なラーンサーン王国の領域であったタイ東北部イーサーンを併合する大ラオス主義までさまざまな主張がありました。


ラオ・イサラはラオス臨時人民政府を樹立し、暫定憲法を制定しフランス統治下の条約を無効としますが、1946年にフランス軍が再上陸したため、ラオ・イサラはバンコクに亡命し亡命政府を樹立しました。フランスは1949年7月にラオスにフランス連合内での独立を認めたため、これを容認するグループと完全独立を求めるグループに分裂してしまいます。

完全独立を求めるグループはホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟の支援を求めてベトナムに向かいました。一方でフランス容認派はビエンチャンに戻り、フランス連合内でのラオス人の権利向上を図ろうとしました。

一方元首相のペッサラートはバンコクに残り、ベトナムにもフランスにも頼らない独立を目指そうとしました。

 

1950年8月、ベトナムにいた一派はラオス自由戦線(ネオ・ラオ・イサラ)を樹立しました。

これはベトミンの影響を強くうけ、帝国主義を打倒するための社会主義体制の確立、少数民族含むラオス全民族の平等、人民の生活水準の向上などを目指して革命路線を打ち出します。

これが後にパテート・ラオと呼ばれるようになる勢力です。

率いたのはルアンパバン王族の出自であるスパーヌウォン、庶民出身のカイソーン・ポムヴィハーン、ヌーハック・プームサワンです。

1953年10月にフランスはラオス王国の完全な独立を認めますが、フランス連合内での独立であったため、ラオス自由戦線は王国はフランスの傀儡であるとして闘争を継続しました。

1954年にジュネーヴ会議が開かれ、ラオスからの外国軍の撤退や総選挙の実施が定められました。ところがこの時参加を認められたのは王国政府のみで、ラオス自由戦線は出席できませんでした。

ラオス自由戦線は組織の拡大を図り、党名をラオス愛国戦線(ネオ・ラオ・ハック・サート)に改名し、選挙で勝つためにラオ族庶民や少数民族への支持を拡大しようとしました。

ラオス愛国戦線はラオス国民の構築を強く志向しており、ラオ族のみならず山岳地帯の少数民族もラオス人としての意識を持たせようとしていました。

一方でラオス王国の指導者はラオ族の王族出身者が多く、少数民族への意識はほとんどありませんでした。

1957年11月、王国政府とラオス愛国戦線は交渉の結果、連合政府を成立させるに至りました。そして翌年に選挙を実施しました。ところが選挙の結果、ラオス愛国戦線が21議席中9議席獲得し、危機感をつのらせた王国政府右派がラオス愛国戦線と対決姿勢を見せるようになります。

連合政府は8ヶ月で崩壊し、ラオス内戦が始まりました。

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10.社会主義ラオスの成立

1955年3月、ラオス人民党が設立され、パテートラオの政治部門を指導する体制が作られました。軍事闘争を率いたのはラオス愛国戦線です。

内戦が進行する中で、1960年王国政府のコン・レー将軍がクーデターを敢行して中立派のプーマ内閣が成立。

1962年6月にプーマ内閣と右派、パテートラオも支援し第二次連合内閣が成立しますが、ますが、アメリカがプーマ政権を支援せずに再び内戦が拡大します。

北ベトナムがパテート・ラオ、アメリカが王国政府が支援し、ベトナム戦争の代理戦争的な様相を呈しました。北ベトナムはパテート・ラオ、アメリカは王国政府を支援し、1964年5月からアメリカによるラオス本土への爆撃も激しくなっていきました。

1964年から1973年のラオス内戦の間にアメリカ軍がラオスに落とした爆弾の数は第二次世界大戦中にヨーロッパ全土に落とされた量に匹敵します。

これにより人々のアメリカへの不信感が増したこともあり、1960年代後半になるとパテート・ラオはラオス国土の大半を支配下にいれるようになりました。

ベトナムでは共産党はソ連や中国の支援を受け、アメリカを主力とする連合軍と南ベトナム政府軍を相手に泥沼の状態に追い込み、国際的な反戦世論の高まりにより、アメリカは1973年にパリ和平協定にサインしベトナムから撤兵。

1975年4月30日に北ベトナムは武力で南ベトナムを制圧し南北統一を果たします。

ラオスでも同年にパテート・ラオが全国で攻撃を活発化し、王国政府を打倒。1975年12月に全国人民代表者大会を開催し、王政の廃止とラオス人民共和国の成立を宣言しました。

 

11.社会主義国家建設から市場経済の導入へ

社会主義国家となったラオスでは、まずは中央から末端までラオス人民革命党が行政権力を握ること、人民の生活を古いものから新しいものに革新することを目指しました。

1978年からは農業集団化が本格的にスタートされ、伝統的な自給自足の農業から国家が農業生産と供給を管理する体制へと移行しました。

生産性向上に加え、農村への人民革命党の浸透という目的がありました。しかし農業のズブの素人の党の指導で生産性など上がるわけなく、集団化によって生産性はガタ落ちして、人々の生活状況は悪化しました。

1979年、党は方針転換をし、一部市場経済原理の導入を決定しました。この背景にはソ連や中国など社会主義大国での集団化の失敗と市場経済導入の動きもありました。

市場経済はこうして徐々にラオスで制度化されていき、1986年にラオスはチンタナカーン・マイ、新思考という新たなスローガンを提示し新経済管理を具体的に実施することを決定しました。

当時のカイソーン党書記長はチンタナカーン・マイは、率直に客観的事実に即して経済開発を行ない、社会主義にありがちな理想や非現実的な思考から脱することであると述べています。

そうして1991年位建国後初の憲法が採択され、この市場経済化は憲法にも取り込まれることになります。1980年代後半の東側諸国の民主化や権威主義体制の崩壊、そして1991年のソ連崩壊はラオスにも少なからず影響を与えました。

ラオス人民革命党は、地方の支配の深化と中央集権化を達成するために地方議会を廃止し、中央から派遣される県知事や郡長が担う体制に移行。一党独裁体制を強化しました。

その上で、党は後発発展途上国からの脱却を掲げ、経済開発を進めました。元が低いと言うこともありますが、ラオス経済は順調に発展し、1996年〜2000年の平均経済成長は6.2%でした。
経済発展を目指すと現れる弊害ですが、ラオスもご多分にもれず党幹部や政治家の汚職、地方と中央の経済格差が社会問題となり、社会主義を標榜しつつも不平等が顕在化している点が国民の不満を高めつつあります。

ラオス政府は2016年の党大会で新たな国家目標として「ビジョン2030」、新たな思想として「カイソーン・ポムヴィハーン思想」を掲げました。

「ビジョン2030」は、2030年までに所得を現在の4倍にし上位中所得国入りを果たすと大変野心的なもの。「カイソーン・ポムヴィハーン思想」は、元党書記長のカイソーンからとったもので、カイソーンが目指したマルスク・レーニン主義路線の継承を目指すものです。これは市場経済の導入により生じた社会の亀裂や歪みをカイソーンが掲げた思想を導入することで修復しようとするものです。

現在のラオスは社会主義社会の達成を目標に掲げつつも、現実路線で経済発展を目指しながらもなるべく衝突や問題が起きないように慎重に物事を進めようとしています。

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まとめ

世界史のメインストリームに入ってくる国ではありませんが、例えば大航海時代や太平天国の乱、英仏の東南アジア進出、太平洋戦争、ベトナム戦争、東西冷戦とかなり重要なトピックにも絡んできますし、インドシナ半島の山岳辺境国家でも世界的な出来事の大波を免れ得ないというか、国体も経済も思想も大きな影響を受けてきていることがわかったと思います。

私がラオスを訪れたのは2014年ごろで、その時はまだ田舎は水道ガスインターネットが通っていないのが普通にありましたが、今はラオス高速鉄道が中国の雲南とビエンチャンを結ぶようになり、また地方も大きく変わってきていると思います。経済的には最後のフロンティアと呼ばれることもあり、例えばセブンイレブンの1号店がビエンチャンでオープンしたのは2023年9月のことですし、まだ発展の余地を残した国ではあります。
ぜひ今後の動きにも注目していきたいと思います。

 

参考文献・サイト

『ラオスの基礎知識(アジアの基礎知識5)』 山田紀彦著 めこん

"Laos: A Country Study" Andrea Matles Savada, ed. Laos: A Country Study. Washington: GPO for the Library of Congress, 1994.

History of Laos - Wikipedia