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社会主義者になった王族・貴族

共産主義・社会主義の理想に共鳴した高貴な人々

共産主義・社会主義の思想では、王族や貴族は人民を搾取する悪であり、階級闘争によって打倒されるべき敵であると考えます。

当然、王族や貴族は自分たちの社会的地位やこれまで培ってきた体制を守ろうとして、共産主義・社会主義とは敵対し、時には多量の流血が流れることもありました。

ところが王族・貴族の中には共産主義・社会主義に共鳴して、自分自身の階級を弾圧する者もいました。

なぜそうなったかは、当時の社会の背景や雰囲気を見ないと分かりませんが、どういった人物だったのかをみていきましょう。

 

1. イラジ・エスカンダリ(1907年〜1985年)

イラン共産主義トゥーデ党の重要人物

イラジ・エスカンダリはイランの共産主義組織トゥーデ党の重要人物で、パフレヴィー朝の時代を通じて党第一書記として活動を続けた人物です。

父はカジャール朝の王子の1人であるヤヒヤ・ミルザ・エスカンダリで、彼は王族の出身です。しかし父も叔父のソレイマン・エスカンダリも立憲制の支持者であり、非常に開明的な家ではあったようです。

エスカンダリはイランの学校で学んだ後、18歳の時に法学の勉強を続けるためにフランスに渡りました。フランスでエスカンダリは、ブルガリア人の友人にマルクス主義の思想を紹介され、のめり込むようになりました。

エスカンダリは、ベルリンのフンボルト大学のイラン人学生のグループと連携し、「イラン左翼社会主義革命共和国党」を設立しました。

1931年にイランに帰国すると、仲間とマルクス主義雑誌『ドニャ』を創刊するなど、マルクス主義を啓発する活動を行ったため、エスカンダリはせっかく得た法務省の職をクビになり、後に逮捕されます。

3年の獄中生活を終えた後、イラジ・エスカンダリは若い進歩主義者が集まる組織を作ろうと、イラン共産主義トゥデー党の共同設立を行い、第1回大会で彼は3人からなるトゥーデ党の第一書記会のメンバーになりました。

トゥーデ党は共産主義革命を目指すとして当初は積極的な親ソ方針を採り、ソ連が北部のイラン産石油を接収することを主張すらしました。

1949年2月4日、皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー暗殺未遂事件が発生し、トゥーデ党が実行犯であることが判明しました。テヘランは戒厳令になり、トゥーデ党は非合法化され、多くの指導者が逮捕されました。エスカンダリにも死刑宣告がなされるも、たまたま国外にいたため逮捕を逃れ、以降30年亡命生活を余儀なくされました。

 

2. ルート・フォン・マイエンベルク(1907年~1993年)

ソ連のスパイとなった貴族の娘

オーストリア人のルート・フォン・マイエンベルクは、共産主義へのシンパシーからソ連のスパイとなり、ナチス・ドイツの重要な機密情報をもたらしたことで知られます。

ルート・フォン・マイエンベルクは、オーストリアの鉱山王マイエンブルクの娘で、古い貴族のルーツを持つ家系に属していました。しかし彼女は保守思想や王党派に背を向け、若い頃から左翼思想にのめり込んでいました。1932年に25歳のとき、オーストリア社会民主党と社会主義青年戦線に入党し、2度目の結婚相手は、左翼のジャーナリストでオーストリア共産党の議員エルンスト・フィッシャーでした。 

オーストリアでエンゲルベルト・ドルフースが政権につき、独裁的な権限を握ってファシズム的統治に乗り出しました。ドルフースは極右と極左を弾圧して一党独裁体制を敷き、イタリアのムッソリーニと協力関係を模索しました。1934年2月、社会主義者の武装組織「レプブリカニッシャー・シュッツブンド」が政府打倒を試みるも失敗し、ルートとフィッシャーはすぐにソ連に亡命しました。

1934年、ルートはソ連情報部に採用されスパイとなり、「レナ」と呼ばれるコードネームを持ちました。1934年から1938年にかけて、彼女は主にナチス・ドイツで活動し、ドイツの防衛力、国防軍の再軍備率、第三帝国のイタリアとの協力関係、ドイツ軍政部のヒトラーに対する態度などに関わる重要な情報をもたらしました。

最も貴重な情報提供者は、ドイツ国防軍のクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト将軍で、彼も同じく貴族の生まれでマイエンベルク家と親しい間柄でした。彼はドイツ国防軍で上級大将という地位でしたが、「チンピラ」のナチズムとヒトラーを心底嫌っており、旧友を助けることを快く承諾してくれました。 

ルートはエクヴォルト将軍をソ連に逃がすことを模索しますが、将軍はこれを断り、1943年に癌で死ぬまでヒトラーに対する陰謀に加わり続けました。

1938年にルースはソ連に戻り、その後コミンテルで働き、1943年にはスターリングラードで捕虜となったオーストリア人捕虜の通訳として働きました。

終戦後、ルースはフィッシャーとともにオーストリアに戻り、オーストリア・ソビエト友好協会の事務局長として一時期活動し、1993年に亡くなるまで回想録を書いたりなどして暮らしました。

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3. オロフ・パルメ(1927年~1986年)

Photo by John88934

スウェーデンの中立政策を維持発展させた首相

オロフ・パロメはスウェーデンの元首相で、中立国スウェーデンの政治的立場を明確にしながらも、彼自身は一貫して社会主義者でした。

1927年にストックホルムの貴族パルメ家の末っ子に生まれ、スウェーデンで最も優秀な私立学校の一つシグトゥーナ・ヒューマニスティスカ・ラロヴェークを1年早く17歳で卒業。奨学金を得てオハイオ州のケニオン大学に入学し、政治と経済を学び、1948年に学士号を取得しました。

卒業後、パルメはヒッチハイクで4カ月間、米国内34州を旅したのですが、「世界で一番豊かな国にいかに貧しい人々がいるのか」を目の当たりにして衝撃を受け、社会主義思想に傾倒するようになりました。

パルメは1950年にスウェーデン社会民主党に入党し、1954年にタゲ・エルランダー首相の個人秘書となり、1956年に国会の上院議員に当選しました。1963年にはエルランダー首相の内閣に入閣しました。

1968年、ストックホルムで行われたベトナム戦争反戦デモに北ベトナム大使とともに行進し、ニクソン大統領のハノイ爆撃をヒトラーの行為になぞらえ、徴兵逃れのアメリカ人を亡命させるなど、激烈なアメリカ批判が国際的にも有名になりました。

1969年9月、エランダー首相が引退を表明するとパルメは後継者に選出され、国王グスタフ6世によって首相に就任しました。欧州最年少の42歳の首相でした。

パルメは産業振興、輸出拡大、社会保障・労働制度の改革を進めつつ、世界に向けて反戦の発信を続け、基本的には西側陣営の戦争を批判し、東側陣営を擁護しました。

共産ベトナムのカンボジア侵攻は国際的な議論を呼び、パルメは一貫してハノイを支持したものの、経済的な閉塞感も相まって彼の支持率は下がり社民党は70年代半ばから低迷し、1976年の選挙で下野しました。

その後6年間、パルメ氏は野党として党を率い、特に国際政治に関与し続けました。アメリカとイスラム革命後のイランの仲介に入ったり、イラン・イラク戦争で国連特使を務め戦争妥結を調整するなどしました。しかしこうした彼の努力は最終的に失敗に終わっています。

1982年に社民党が与党に返り咲き、第二次パルメ政権が成立すると、彼はNATOとワルシャワ条約機構に、ヨーロッパに非核地帯を設立するよう呼びかけ、スウェーデンで欧州軍縮会議を開き核軍拡競争を批判しました。

またパルメは、ソ連の潜水艦がスウェーデン領海に侵入した時に、ソ連との良好な関係を重視し何もしなかったことで、特に海軍士官たちから猛烈に批判されました。

1986年2月の首相在任中に何者かによって暗殺されました。容疑者は親ソ政策を批判する右派の犯行説から、KGB犯行説まで様々ありますが、誰の仕業か未だに謎に包まれています。

 

4. スパーヌウォン(1909年〜1995年)

革命勢力パテト・ラオに参加した「赤の殿下」

スパーヌウォンはルアンパバーン副王の子として1907年に生まれました。

ベトナムのハノイで学び、その後フランスに留学して土木工学を学びました。ベトナム人と結婚し、1945年まで土木技術者として働きベトナムやラオスで橋梁や道路建設に従事しました。

日本の敗戦後、ホー・チ・ミンと会って感化され、フランスからの独立を目指すようになります。1946年に蜂起してフランス軍と戦うも、重傷を負い、辛うじてタイに移送され一命をとりとめています。

1949年にフランス連合内でラオス王国が成立するも、スパーヌウォンら左派は冷遇され、右派で王族のスワンナ・プーマが強い影響力を持ったため、スパーヌウォンは1950年にラオス自由戦線を設立し議長となり、あくまでフランスからの独立を目指す抗戦政府の首相に就任しました。

1953年10月にラオス王国が独立を果たした後は、ラオスでは内戦が勃発し、スパーヌウォンは左派の指導者となり、ラオス自由戦線をパテート・ラーオ(ラオス愛国戦線)と改称し、北ベトナムの支援を受けながら戦闘を継続しました。

1975年に南ベトナムの首都サイゴンが北ベトナム軍により陥落すると、ラオスは右派左派の連合政府が王政の廃止を宣言し、社会主義国のラオス人民民主共和国を樹立します。

スパーヌウォンは初代国家主席兼最高人民会議議長に就任し、ラオス国家建設戦線議長も務めました。

 

5.ピョートル・クロポトキン(1842年〜1942年)

貴族ながら壮絶な逃亡生活を送った革命家

クロポトキンは、ロシアのアナーキストで、その生涯において、資本主義批判、競争論、相互扶助論など数多くの著作を残した人物です。

ピョートル・クロポトキンは、1842年にロシアで最高位の貴族家であるクロポトキン公爵家に生まれました。

当時ロシアの若い貴族の間では、デカブリストの乱に象徴されるように共和主義・自由主義が流行し、そのような雰囲気の中でクロポトキンも自由主義への共感を強めていました。

帝政ロシア軍に入隊したクロポトキンは、自分の意志で征服されたばかりのアムール地方のシベリア・コサック連隊に入隊しました。当時流行のナロードニキ(人民の中へ)運動の影響だったかもしれませんが、彼のような高い地位の貴族が辺境勤務をするなど異例中の異例でした。そこで彼は亡命した急進派の作家ミハイル・ラリオノヴィッチ・ミハイロフの無政府主義思想や、ピエール=ジョセフ・プルードンの『経済矛盾の体系』などに触れ、社会主義者となりました

1867年、クロポトキンはサンクトペテルブルクに戻り軍を辞職し、サンクトペテルブルク大学に入学し、数学と物理学を学び、同時にロシア地理学会の物理地理学部門の幹事となり、ここから地理学者としてのキャリアをスタートさせました。

1872年、父アレクセイ・ペトロヴィチが亡くなり、その遺産によりクロポトキンは西ヨーロッパへの旅行を実現させました。同年スイスに渡り、チューリッヒでロシアの社会主義者の学生たちと懇意になりました。ロシアに戻ると、彼は反ツァーリの疑いで逮捕され、サンクトペテルブルクのペテロ・パウル要塞に収容され、劣悪な獄中環境のためにリューマチや壊血病で倒れました。

しばらくして、20人の助っ人の助けを借りて脱獄を果たしてイギリスに亡命し、その後ヨーロッパの無政府主義者の活動拠点であったスイスに留まり、この時期に無政府主義者に変身していました。

ロシア政府の圧力でスイスから追放され、以後はレマン湖畔のフランスの町トノン・レ・バンに居住しました。1882年の暮れ、フランスのモンソー・レ・マンでストライキが起こり、小型ダイナマイトによる襲撃事件が相次ぎました。フランスのマスコミの多くは、クロポトキンにも責任の一端があると報道し、彼は60人ほどのアナキストとともに逮捕されました。検察側は裁判で証拠を提示することができなかったものの、被告たちはインターナショナルのメンバーであることを理由に有罪判決を受け、クロポトキンは5年の禁固刑と1000フランの罰金という処罰を受けました。

このクロポトキンの不当な投獄に対し、アルフレッド・ラッセル・ウォレスやヴィクトル・ユーゴーなど多くの英仏の著名な学者が非難し、反対する世論が形成され、フランス政府は1886年1月にクロポトキンら囚人たちを釈放しました。

第一次世界大戦が勃発すると、クロポトキンは雑誌『自由』でアナーキストの戦争参加を主張しましたが、反戦を訴える主流アナーキストと衝突。二月革命後、クロポトキンはロシアに帰国し、人々に熱烈に迎えられました。しかし彼は第一次世界大戦におけるロシアの努力を継続するよう訴えたため、戦争で疲弊したロシアの人々の反感を招いてしまいました。

ボルシェビキ独裁政権成立後、政敵への迫害が始まり、特にアナーキストは大きな打撃を受けましたが、クロポトキンは影響力と民衆の人気が大きく政権も手を出せず、1921年2月に死去するまで自由に生活しました。

 

6. ノロドム・シハヌーク(1922年~2004年)

権力のために共産主義者を支援した国王

ノロドム・シハヌークはこのリストに入れるにはちょっと微妙で、彼自身が共産主義者かというと違います。どちらかというと、権力のために共産主義勢力を利用しようとしたという方が近いかもしれません。

シハヌークは、ノロドム・スラマリット王子とシソワス・モニボン国王の娘シソワス・コサマク王女との間に生まれた、文字通りのサラブレッドです。

1941年に祖父のシソワス・モニボン王が死去すると、フランス支配下で国王となりました。第二次世界大戦後、1953年にフランスと交渉してカンボジアを独立させました。

その後1955年に退位し、父スラマリットを王位に就け、その年の総選挙で自分の政治団体「サンクム」を設立して勝利し首相に就任します。

そして1960年、自らに反する支持団体を弾圧し「シハヌーク翼賛体制」を築きました。シハヌーク独裁下のカンボジアでは、左翼の政策を取り入れ、政治的には反帝国主義・中立外交を掲げ、中国に接近し、アメリカ、南ベトナム、タイへの非難を強めました。

1970年にアメリカの支援を受けたロン・ノルによるクーデターで失脚したシハヌークは、中国と北朝鮮に亡命し、亡命政府と抵抗運動を結成。カンボジア内戦では、ポル・ポトのクメール・ルージュを支援しました。

1975年、クメール・ルージュが内戦で勝利すると、国家元首に返り咲くも、1979年にベトナム軍がクメール・ルージュを打倒するまで自宅軟禁されました。

再び亡命したシハヌークは1981年に抵抗政党フンシンペックを結成し、翌年には反ベトナム抵抗勢力三派(シハヌーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派)の連合体である民主カンボジア連合政府(CGDK)の大統領に就任しました。

1991年、パリ和平協定が締結され、翌年には国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が設立され、UNTACは1993年のカンボジア総選挙を組織し、その後、息子のノロドム・ラナリッドとフン・センが共同で率いる連立政権が成立しました。1993年にカンボジア国王として復権し、2004年に退位し息子に王位を譲るまで影響力を維持し続けました。

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まとめ

王族や貴族は保守派、王党派であるというイメージがあり、それはおおよそ間違ってはいないと思います。それまで築きあげてきたレガシーがあるし、富や権勢を維持できます。しかし本当に自分が信じる理念のためにアドバンテージを捨てられるのは凄い異端児です。

もしかしたら、親や祖父世代がホールドしていた特権というものが、音を立てて崩れていくであろうことが分かっていて、「先手」を打ったというだけなのかもしれません。そしてそれは、成功だったのでしょうか、失敗だったのでしょうか。

それは本人に聞いてみないと分からない領域で、亡くなっている以上もはや確かめようがありません。

 

参考サイト

"Iraj Eskandari: The ‘red prince’ 1908–85" Journal of Communist Studies 
Volume 1, 1985 - Issue 3-4: Military Marxist Regimes in Africa

"How this Austrian aristocrat became ‘The Red Countess’ of Soviet intelligence" Russia Beyond

"OLOF PALME, ARISTOCRAT TURNED SOCIALIST, DOMINATED THE POLITICS OF SWEDEN" New York Times

"Visionär einer freien Gesellschaft"  deutschlandfunkkultur.de

"Pjotr Kropotkin and the Theory of Mutual Aid" SciHi BlogSciHi Blog

「アジアの基礎知識5 ラオスの基礎知識」 山田紀彦 めこん 2018年9月25日初版1刷発行

「ポル・ポト<革命>史 虐殺と破壊の四年間」 山田寛 講談社選書メチエ 2004年7月10日第一刷発行