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ベトナムの英雄たちの救国の歴史(後編)

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常に外敵と戦い続けた過酷なベトナムの歩み

 ベトナムの救国の英雄を軸に、異民族と戦い続けた過酷なベトナムの歴史を追っていきます。後編の今回は、三度のモンゴル軍の侵攻に向かい打ち、これを打ち破ったチャン・フン・ダオの活躍から、清とシャムを打ち破ったグエン・フエの活躍までを見ていきたいと思います。

 前編をご覧になりたい方はこちらよりどうぞ。

それではいきます。

 

 

5. チャン・フン・ダオ(陳興道)

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Photo by  Xiaoao

チャン・トゥ・ドの王位簒奪

李朝ベトナムは216年続きますが、末期には中央政権の力は衰え地方には地場勢力が割拠し、国民は困窮し飢餓が多発するようになりました。

李朝最後の王リ・フエ・トンの娘の女帝昭皇のとき、王宮の臣チャン・トゥ・ド(陳守度)は甥のチャン・カインを昭皇と結婚させて王に就けて実権を握りました。その上でリ・フエ・トンの一族をことごとく殺害し、陳朝ベトナムを開きました。

 

ゲリラ戦で元軍を打ち破る

モンゴルは帝国は第五代汗フビライの時代に本格的に中国経営に乗り出し、未だ南部で抵抗を続ける南宋を取り囲むべく東南アジアに進出し始めました。

1253年にタイ族の大理王国を滅ぼし、1277年バーモ(上ビルマ)、1282年クメール帝国、1283年ペグー王国(下ビルマ)、1287年パガン朝と、怒涛のように周辺各国を飲み込んでいきました。

1257年、陳朝初代チャン・タイ・トンの時代に元の将軍ウーリャンハタイが大軍を引き連れてベトナムに侵攻。首都タンロンはすぐに陥落し、チャン・タイ・トンは逃げ延びましたが首都一帯は荒廃。元軍は有利に戦いを進めていましたが、暑さに加え住民が食料を隠してしまったため食料調達ができず、厭戦気分が高まっていたため雲南に撤退することにしました。

ここでベトナムの将軍チャン・フン・ダオは撤退するモンゴル軍の背を狙って散々に打ち負かし、手痛い打撃を与えました。陳朝は南宋と連合しようとしましたが、元の使者が朝貢を求めたため、それを断りきれず三年の一度の朝貢を約束されました。 

 

その後の1278年、元は南宋を征服し、ベトナムの直接統治を目指して再侵攻の構えを見せ始めました。

第三代王チャン・ニャン・トンはチャン・フン・ダオを全軍の指揮官に任命し元軍の侵入に備えました。1285年1月、元軍はウマルを総大将にベトナムに再度侵入。ベトナム軍は各地で苦戦を強いられ、首都タイロンは再び陥落。住民は虐殺され、将軍チャン・ビン・チョンも斬首されてしまった。

チャン・ニャン・トンは南方のタインホアに都を移して抵抗を続けるも、昭国王チャン・イック・タックなど有力者の離反者が相次いぎました。さらに元軍は海上からチャンパに迂回し、南北からベトナムを挟撃する作戦に打って出ます。

チャン・フン・ダオは正面から戦うと勝ち目がないと考え、ベトナム軍を山岳地帯に避難させてゲリラ戦を展開しました。

住民は食料を隠してしまったため元軍は再び食料の調達に苦しみ、ベトナム軍のゲリラ戦術にも苦しめられることに。次第にベトナム軍は勢いを取り戻し、元軍を紅河デルタ地帯まで撤退させ、さらに水軍を打ち破り首都を奪回。5万人以上の元軍を捕虜にし勝利を掴み取ったのでした。

 

第三次バクダン江の戦いで元軍を破る

元は1287年12月、三度目のベトナム遠征を決行しました。

この時は前二回が食料調達に苦労した経験を活かし、艦船500隻に食料を詰め込み、約30万人の大軍で国境を超えました。

陸路の大軍は瞬く間に首都を陥れ、チャン・ニャン・トンは三度首都を脱出し南方に逃れました。

海岸沿いで元軍の艦船を見張っていたベトナムのチャン・カイン・ズ(陳慶余)将軍は、水軍を率いる元軍のウマル将軍が通過した後、それに続く食料輸送船団を襲って300隻を焼く大戦果を挙げました。

早々に食料がなくなってしまったことに動揺したウマル将軍は撤退を開始しました。これを見たチャン・フン・ダオは、ゴ・クエンの作戦を再び実行しました。つまり、バクダン江の川底に杭を打ち付け、元軍の水軍をおびき寄せて転覆させる作戦です。

4月3日、満潮になったのを見計らいバクダン江を下る元の水軍にベトナム軍が襲いかかり、すぐに退却して元軍を杭の箇所に元軍をおびき寄せました。そして潮が引くと元の船は杭にさえぎられ動けなくなった。ベトナム軍は一気に元軍に襲いかかり、艦船100隻を沈め、400隻を捕獲、元軍はウマル将軍を含む大量の将軍・士官が捕虜となりました。

陸路を撤退するトアホアン将軍も、国境山岳地帯で待ち伏せていたファン・グー・ラオ将軍指揮下のベトナム軍によって打ち負かされ、多くの兵が死亡。

その後陳朝は元に直ちに使者を送って、朝貢を申し出、捕虜を丁重に送り返した。フビライは四度目のベトナム遠征を望んでいたようですが、その死によって中止となりました。

 

チャン・フン・ダオの教訓

チャン・フン・ダオは1300年に地震によって亡くなってしまいましたが、生前第4代英宗は「もし元が再び侵入してきたらどうすればよいか」と訪ねていました。その時のチャン・フン・ダオの回答は、その後のフランスやアメリカとの戦いにも大いに生かされた教訓でありました。

北方の敵は数をたのんでいるのです。これに対抗するには、しぶとく、また一気に敵を攻撃することです。これはわれらの能力によります。(中略)敵が辛抱強く、まるでカイコが桑の葉をゆっくりと食べるように、手順をじっくりとすすめてきたら、また略奪もせずに、勝利も急ぎでもぎとろうとしなければ、われらはもっともすぐれた将軍を選び、将棋を戦うようにもっとも効果的な戦術を駆使して戦うべきでしょう。軍隊は親子のようにこころを一つに一致団結しなければなりません。民衆はこころやさしく接しなければなりません。民衆の力を育まなくてはいけません。山奥の道をうがち、永続的な基地を建設するようにです。

 

 

6. レ・ロイ(黎利)

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Photo by Nguyễn Thanh Quang

ホ・クィ・リによる王位簒奪と明軍の侵入

陳朝は175年続きますが、やはり末期になると暗愚な王が出てきて宮廷は乱れ、地方では武装勢力が割拠し、民衆は飢餓に苦しむようになりました。

宮廷官僚のレ・クィ・リ(黎季犛)は出世欲の塊のような男で、一部の官僚の支持を得て王位を簒奪しようと考えました。宮廷はレ・クィ・リ派と反対派に分かれて政争に明け暮れましたが、レ・クィ・リは機先を制してトアン・トン(順宗)を殺し、反対派300余人を殺害し、1400年にホ・クィ・リ(胡季犛)と名乗り国号をダイグゥ(大虞)とし、息子のホ・ハン・トゥオンを王位に就けて胡朝を成立させました

ホ・クィ・リから陳朝が途絶えた報告を受けた明は、「陳朝の回復」を大義名分に軍事介入をしてきました。

明は1406年3月、陳朝の正統跡継ぎと称するチャン・ティエン・ビンと共に約80万の大軍を送り込みます。ホ・クィ・リは迎え撃ったが各地で敗退を重ね、翌年3月水軍同士の激突で胡朝軍は決定的な敗北をし、ホ・クィ・リとホ・ハン・トゥアンは明軍に捕らえられ南京に送られ処刑されました。

その後胡朝の旧臣たちは明軍に善戦しますが、次第に追い詰められていき、1413年にチュン・クァン帝はラオで明軍に捕まり、北京に連れていかれ処刑されました。ここに胡朝は滅び、ベトナムは明の支配下に入ってしまいました。

 

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レ・ロイの救国戦争

明は占領下に置いたベトナムで徹底した同化政策を敷き、明の行政制度を導入し、衣服や宗教など風俗も明のものを適応させ、税を重くし人々を賦役や軍役に強要した。中央からやってきた官僚は、私腹を肥やすべく権力をかさにきて民衆から富を巻き上げまくりました。かつて漢がやったことと全く同じですね。

明の横暴に対し、タインホアの一領主に過ぎなかったレ・ロイ(黎利)は1416年、明朝打倒を掲げて兵を起こしました。レ・ロイは1000名の同志を集め自ら「ビンディン(平定)王」と名乗り戦いを始めた。最初の5年間は兵も武器も乏しく、山を拠点にしたゲリラ戦を展開しました。レ・ロイは明軍を襲っては山に逃げるやり方で打撃を与えましたが、1422年には食料も絶たれ疲労はひどく、やむなく明と講和に応じました。

しかし1424年に明の永楽帝が死去したとの報を聞き、レ・ロイは再び兵を興して明軍の本拠ゲアン城に向かいました。「レ・ロイ再び立つ」の知らせに各地の豪族も続々と馳せ参じ、明軍は一気に劣勢に立たされました。1426年から紅河デルタでの決戦が始まり、ベトナム軍は各地で明軍を打ち破りました。

完全に守勢になった明軍はゲアン城に篭って防戦するも、1427年1月についにゲアン城が陥落。あせった明は15万にも及ぶ援軍をよこしますが、レ・ロイはここでも得意のゲリラ戦を展開し、わざと退却するふりをして前後で挟み撃ちにするなど、散々に明軍を打ち破りました。

戦況は完全にレ・ロイに有利となり、とうとう明は和議を申し入れ、ベトナムの領有を放棄。1428年にレ・ロイは帝位に就き、黎朝を築きました。

 

 

7. グエン・フエ(阮恵)

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Photo by Tonbi ko

マック(莫)氏・チン(鄭)氏・グエン(阮)氏の抗争

レ・ロイから始まった後期黎朝は国政に熱心な王朝で、国内諸制度が形作られ国家としての組織が作られ、ベトナムの黄金期が築かれます。

しかし16世紀前半になるとやはり暗愚な国王が出現し、官僚は私腹を肥やすことに熱心になり、人々は武力で抵抗するようになり、各地に盗賊が溢れるようになります。

1527年、混乱する宮廷でどさくさの中、莫登庸(マック・ズン・タン)という軍人が権力をほしいままにし、ついに国王も殺し自ら帝王になってしまいました。

黎朝の旧臣グエン・キムはラオに逃げ、黎朝の跡継ぎとしてレ・チャン・トンを立て、反マックの軍勢を興すもマックが遣わせたスパイによって毒殺されてしまう。レ・チャン・トンは軍司令官にチン・キエム(鄭検)を任命するも、グエン・キムの息子グエン・ホアン(阮淦)が武功をたてて公に任じられており、チン・キエムとグエン・ホアンの対立が顕在化した。

そんな中、グエン・ホアンは「マック軍を討伐に赴く」と称して中部フエに赴き、そこで中部ベトナムを支配し事実上独立していしまいました。このグエン・ホアンの一族が広南阮氏で、後にチャンパーを討伐しベトナム南部にまでその領域を広げていきます

 

チン・キエムの死後、跡を継いだ息子のチン・トゥンはマック氏との戦いを継続し、ついに1529年にタンロン城を陥落させてマック氏を追い出し、黎朝を復活させることに成功しました。王位簒奪者マック氏は都合65年継続し、その後17世紀後半まで北部カオバン地方で反抗を続けますが、後に討伐され滅んでいきます

再興なった黎朝の有力者となったチン氏は、中部のグエン・フック・グエン(阮福源)に対し租税の納入を求めたがこれを無視されたため、チン氏とグエン氏の戦いが勃発。ベトナムは現在のドンホイを境に南北に分断されたのでした。

 

タイソン(西山)三兄弟、広南グエン氏討伐に立つ

広南グエン氏は富裕層による土地の買収拡大を制限しようとするも、地主や官僚たちに妨害され農村危機は進行し、土地の私有化が進んで公田がなくなりコメの配分ができなくり、飢餓が発生するようになり民衆の不満は高まっていました。

1771年、中部タイソン郡でグエン・ヴァン・ニャック(阮文岳)、グエン・ヴァン・フエ(阮文恵)、グエン・ヴァン・ルゥ(阮文侶)の三兄弟が、打倒広南グエン氏の兵を挙げた。通称「タイソンの蜂起」です。彼らは広南グエン氏に対し、西山グエン氏と言われます。

タイソン三兄弟は「我々は貧しい農民の味方だ」と立場を明確にしたため、中部山岳地帯の少数民族を始め、様々な勢力が支援をして西山グエン氏の勢力は次第に大きくなっていきました。

2年後にはクィニヨン城を占拠し、北上してクァンガイ、クァンナムの広南グエン勢力を追い払い、とうとう首都フエを占拠。広南グエン氏は南部に逃亡しました。

タイソン勢力は南部に逃げた広南グエン氏のグエン・フック・アインを追って南部に侵攻し、旧チャンパ王国の都ドバンを占拠。グエン・フック・アインはシャムに逃亡しました。

フエン・フック・アインは逃亡先のシャムで、フランス人宣教師アドラン司教に助けを求め、またシャム国王から水兵2万人を援助してもらった。

こうして1784年、広南グエン・シャム連合軍と西山グエン軍はメコンデルタで衝突。「ラックガム・ソアイムットの戦い」です。

タイソン軍を率いるグエン・フエは、ココナツ椰子が生い茂るラックガム・ソアイムットに待ち伏せ部隊を待機させ、別働隊にメコン川を下るシャム船団を奇襲させました。タイソン軍はわざと退却するふりをして、川を下る。追撃するシャム船。突然一発の大砲が鳴り響いた。すると逃げていたタイソン船隊はシャム船に突然襲いかかった。あわてるシャム船団に、さらに上流からはラックガム・ソアイムットで待ち伏せしていた別のタイソン軍が攻撃を浴びせ、また川岸の砲撃部隊が砲弾を浴びせました。

この戦いでシャム軍は大敗を喫し、カンボジアに退却。グエン・フック・アインも逃走しました。

 

グエン・フエ、清軍を打ち破る

グエン・フエは軍を北に転じ、チン氏勢力を破って黎朝の守護を声明しました。

黎朝のレ・ヒエン・トンはグエン・フエを召し抱えますが、すぐに死んでしまい孫のレ・チュウ・トンが跡を継ぎますが、タイソンはタンロンを黎朝に任せて軍を引き上げ、1787年4月にグエン・ヴァン・ニャックは自ら皇帝を名乗りクィニョンに都を置きました。孤立したレ・チュウ・トンは清に助けを求めました。

1788年10月、清軍20万の軍勢がベトナムに侵攻。これに対し、グエン・フエは10万の兵力を集め北に進撃しました。

タイソン軍は三方からタンロンを包囲し、周辺の清軍の陣地を破壊し、100頭の象兵は清軍を蹴散らしました。なんとわずか3ヶ月足らずでタイソン軍は清軍を打ち破り、清軍総司令官・孫士毅はあわてふためいて北に逃走。大将の逃走を知った清軍も恐慌状態になりながら逃亡していきました。

レ・チュウ・トンも清国に亡命し、1793年に北京で客死。ここに置いて黎朝は滅ぶことになります。

 

 

 

まとめ

 ここまで見てくると、ある程度ベトナムの歴史のパターンというものが見えてくると思います。

王朝末期になると暗愚な王が出現し国が乱れる。宮廷の臣下の中で支持を得た者が無力な王を廃して王位簒奪をして乗っ取り、新たな王朝を興す。混乱に乗じた外国勢力の侵入を、ドタバタはするが結局追い出してしまう。

そうして政権は安定するも、何代かすると国が乱れて同じことを繰り返す。

このような伝統的な循環は、今回初めて登場したフランスなどの欧米勢力の出現により、次第に大きく変わっていくことになります。

本当はホー・チ・ミンの対仏・対米闘争まで書こうと思ったのですが、あまりにも長くなりそうなのでいったんここで終わりにしたいと思います。

リクエストありましたら書いていきます。

 

 

参考文献

物語 ヴェトナムの歴史- 一億人国家のダイナミズム 小倉貞夫 中央公論社

物語 ヴェトナムの歴史―一億人国家のダイナミズム (中公新書)

物語 ヴェトナムの歴史―一億人国家のダイナミズム (中公新書)

 

 

 

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