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ラオスの歴史(前編)―戦国インドシナの強国ラーンサーン王国

東南アジア山岳国家の戦乱の歴史

ラオスは東南アジア、タイ、ベトナム、カンボジア、中国、ミャンマーに国境を接した内陸国で、国土の約70%が山岳地帯です。

面積は23万6800平方キロメートル。人口は2021年時点で約733.8万人。本州よりやや小さい面積に、埼玉県の人口が住んでいる計算になります。非常に日本と比べて人口密度が低いことがわかると思います。

首都のビエンチャンと旧王都ルアンパバーンを除くと、豊かな自然の恵みから人々は食料を得てのんびりとした暮らしをしています。田舎に行くと電気、ガスが通っていないことも普通です。

民族は低地に住むラオ族、タイ族で約62.3%を占めます。少数民族として山岳地帯に住むモン系、クメール系語族が24.8%、モン・イウミエン系語族が9.8%、シナ・チベット系語族が2.9%という内訳で、2008年段階でラオス政府は民族数を49と定めていますが、この枠に入ってない民族もいるので厳密にはもっと多いとされます。

経済発展は遅れており、2022年のIMFの名目GDPランキングでは第133位。2018年3月に国連が出した後発発展途上リスト48カ国にも名を連ねています。最貧国の一つと言っても過言ではありません。

今回は前後編で、ラオスの歴史をまとめていきます。

 

1.ラーンサーン王国の成立

ラオ族は広義にはタイ族の一派で、ラオ語はタイ語と親和性があります。特にタイ東北部イーサーンに住む人々とは、のちに述べますが人的な交流が盛んだったこともあり、文化的・言語的なつながりは強くあります。

現代のラオスを構成するラオ族が東南アジアにやってきたのは、いわゆる13世紀の「タイ族の大沸騰」と呼ばれる時代です。

タイ族が漢民族の南下によって圧迫され、現在の中国の雲南や貴州のあたりから南下し、東南アジア各地に移動して行きました。

一部はチャオプラヤ川中流域に落ち着いてスコータイ王国を作り後のタイ王国となります。一部はチェンマイを中心にラーンナー王国をたて、現在のミャンマー東部に落ち着いたシャン族は13世紀にマオ王国、インドのアッサム地方に進出したアーホーム族はアーホーム王国を建てています。

ラオ族はそういったタイ系部族と同じく、南下してメコン川上流域に落ち着いた人々です。

東南アジアの国家の興隆を理解するキーワードとして「マンダラ国家」というものがあります。これはアメリカの歴史学者オリーバー・ウォルタースが提唱したモデルで、東南アジアには大小様々な国家群があり、その中で例えばカリスマ的な指導者が現れた国や、経済的・軍事的に他国を圧倒するようになった国の王が「王の中の王」として他国を従属させるというものです。

それを仏教のマンダラに例えてマンダラ国家と呼びます。

ただその構図も不変ではなく、中心国家が衰退し他国が強くなればマンダラの中心が入れ替わることがあるわけです。

ラオスも同じで、山岳地帯の中に無数にムアンと呼ばれる共同体があり、強いムアンは弱いムアンを支配し、強いムアンはもっと強いムアンに従属するという形で、マンダラを形成しました。

 

そんな大小ムアンを統一したのがファーグム王です。

伝説では、ファーグムは現在のルアンパバーンであるムアンサワーを追放され、メコン川を下ってクメールの都アンコールに逃れ、クメール王に育てられたとされます。

そしてクメールの王妃をめとり、クメール王の支援を受けて遠征を行い、南部のチャンパサックを征服したあと、メコン川中流域に沿ってターケーク、カムムアンを北上し、ヴィエンチャンをはじめ大小様々なムアンを支配下に入れながら、最後にムアンサワーを征服し、1353年にラーンサーン王国を建国したと言われています。

正式名称はラーン・サン・ホム・カオ(Lan Xang Hom Khao)といい、「百万頭の象と白い傘の国」という意味です。


当時、チャオプラヤ川中流域で勃興していたのがシャム人です。クメール帝国は衰退期に入り、シャム人から度重なる領土の蚕食を受けていました。

クメール帝国はシャム人と自国との中間地帯に自国の息のかかった緩衝国を設けることで、シャム人勢力を牽制しようとしていたと考えられています。現代風にいうと傀儡政権が出発点なわけです。

そのシャム人勢力は、1350年にアユタヤの地にウートーン王が都をたて、アユタヤ王朝が築かれます。ウートーン王は軍事力でもって領土の拡大を図り、1350年代にクメール帝国の西部とラーンサーン王国の領土であったコーラート台地、現在のタイ東北部に拡大しました。1352年にクメール帝国の都アンコールはアユタヤの攻撃を受け、大きな被害を受けています。

1356年にファーグム王は、アユタヤに占領されたヴィエンチャンとコーラート台地を奪還するために軍をおこし、主要都市を占領し、アユタヤにコーラート台地の支配を認めさせました。ウートーン王は100頭の象、金、銀、1,000以上の象牙を送り、娘をファーグム王に嫁がせています。

ファーグム王は1360年代に宮廷クーデターで追放されてしまいますが、現在のラオスでは建国の父とされています。

 

2.ラーンサーン王国の戦乱期

ラーンサーン王国はファーグム王の息子ウンフアンがサームセーンタイ王として第2代国王となりました。

サームセーンは30万、タイは自由な民という意味で、30万の自由民を代表する王ということです。この30万は王が召集できる軍隊の数を指し、ラーンサーン王国が軍事力でもって周辺のムアンや少数部族を従えていた強力な国であったことがみてとれます。

またクメールよりも支配領域のラオ族、タイ族を優先する方針をとり、それがおそらく先代のファーグム王との確執とクーデターであったと考えられます。

サームセーンタイ王は、1390年代にチェンセンでチェンマイを首都とする同じタイ族のラーンナー王国と戦い勝利しています。1402年、明から正式に冊封をされています。

1416年にサームセーンタイ王は60歳で死去し、甥のラン・カム・デーン王が跡を継ぎました。彼の治世では、隣国ベトナムで明の支配に抵抗する武将レ・ロイの反乱がおき、明側から助力の求めがあり、明側についたという記録があります。

ラン・カム・デーン王の死後、ラーンサーン王国の政治は不安定となり、1428年から1440年まで7人の王が相次いで即位しました。王妃マハーデーヴィーの権力を背景にした後宮勢力の暗躍により、国王が相次いで殺害されたとされます。混乱に乗じて、ベトナム国境沿いの半独立国ムアン・ファンとその領域が黎朝ベトナムの支配下に入りました。

ラーンサーン王国の政治的混乱は1456年にチャッカファト王の即位により安定をしましたが、ムアン・ファンをめぐる確執からベトナムとの争いが始まります。

黎朝ベトナムのレ・タイン・トン帝が南のチャンパ王国を侵略し滅ぼした年と同じ1471年に、ムアン・ファンが反ベトナムの反乱を起こしました。黎朝ベトナムはムアン・ファンの反乱の背後にはラーンサーン王国があるとして、本格的な侵攻の準備が進めます。

同じ頃、一頭の白い象が捕らえられ、ラーンサーン王国のチャッカファト王のもとに献上されました。これを聞いた黎朝ベトナムのレ・タイン・トン帝は、ベトナムの宮廷への贈り物として象の毛を要求しました。この要求はベトナムへの屈服を意味したため、激怒したチャッカファト王は、代わりに象の糞を詰めた箱をベトナム宮廷に送りつけました。

こうしてベトナム軍18万がムアン・ファン制圧のため軍をおこし、これを迎え撃つ20万のラーンサーン軍との戦いとなりました。

ベトナム軍はラーンサーン軍を打ち負かし、ムアン・ファンを制圧したのちに、首都ルアンパバーンも占領しました。

チャッカファト王は宮廷を脱出してヴィエンチャンに逃れます。ベトナム軍の一隊はラーンナー王国を侵犯しつつ、もう一隊はヴィエンチャンを目指して進軍しました。

ここでラーンナー軍が参戦しベトナム軍を敗走させ、ビエンチャンにこもるラーンサーン軍と合流して決戦を行いベトナム軍を壊滅させました。敗走するベトナム軍は報復としてムアン・ファンの町を破壊させました。

こうしてラーンサーン王国とラーンナー王国は緊密な同盟国となり、ベトナムはその後200年間ラオスには手を出すことはありませんでした。

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3.ラーンサーン王国最盛期

16世紀はラーンサーン王国の最盛期です。

1500~1520年のヴィスーン王の時代に芸術が花開き、叙事詩、音楽、彫像などが盛んに作られました。仏教も保護され多くの寺院が開かれました。

ヴィスーン王の息子のポーティサラート王は、ラーンナー王国やアユタヤ王国、クメールの政権の一つであるロンヴェークなど周辺各国から王妃をむかえ、正式に仏教を国教に定め、聖霊崇拝を禁止しました。

その次のセーターティラート王は、もともとラーンナー王国の王の一人だった人物です。ラーンナー王国はビルマとアユタヤからの圧迫を受けており、セーターティラート王は父の死後にラーンサーン王国に亡命し国王につきました。

おそらく宮廷争いがあったと思われ、1553年にラーンサーン王国は軍をラーンナー王国に派遣しますが敗北しました。

2年後に再度軍をおくり、この時にチェンセンを落としました。1556年に今度はビルマ軍がラーンナー王国に侵攻し、ラーンナー王国のメクティ王は戦わずに降伏してビルマに降りました。

警戒のためか、1560年にセーターティラート王は首都をラーンナーに近いルアンパバーンからメコン川をさらに降ったところにあるビエンチャンに遷都しています。

ラーンナー王国を臣下におさめたタウングー朝ビルマは、今度はアユタヤ王国を狙おうとしました。1563年、ラーンサーン王国とアユタヤ王国の間で同盟を結ぼうとする交渉が行われますがうまくまとまらず破談に終わりました。

ところがその後、1568年にビルマがアユタヤ北部に侵攻してきたのでした。あわてたアユタヤ国王チャクラパットはラーンサーン王国と同盟を結ぼうと、娘のテプカサットリ王女を北に送りますが、その途上で王女は死亡します。

結局ビルマ軍は首都アユタヤを包囲し、1569年にさらなる侵攻を防ぐためにビルマ王の臣下となりました。

 

4.ビルマ占領期

ラーンサーン王国はその後ビルマとの一進一退の攻防をしつつ、1571年には海上交易ルートの開拓を目指し、クメール遠征も行っています。この遠征ではクメール軍に敗れ、セーターティラート王もこの遠征の途中で死亡しました。

ラーンサーン王国では次の王位をめぐる争いが起き、ビエンチャンで内乱が起こります。その隙をついて、1574年ビルマ軍がビエンチャンに侵攻し占領しました。

セーターティラート王の息子ノケオ・クーマネはビルマに送られて養育され、ラーンサーン王国はビルマ支配下の1583年から1591年まで反ビルマの内乱が続きました。

1591年、ラーンサーン王国の仏僧はビルマのナンダバイン王に使節を送り、20歳になったノケオ・クーマネをビルマの臣下の王として国に戻すよう求めました。

これを受け入れたビルマ王はノケオ・クーマネをビエンチャンに戻し、彼はビエンチャンで戴冠しました。その後軍隊を集めて旧領土各地へ遠征を行い、かつての領土を再統一しました。

その少し前の1584年、タイではピッサヌロークの太守の息子ナレースワンが反ビルマの軍勢をおこし、アユタヤからビルマ軍を追放してアユタヤ王国の再建に成功し、1593年には完全な独立とラーンナー王国の宗主権もビルマに認めさせました。こうしてタイとラオスからビルマ勢力が追放されました。

1596年、ノケオ・クーマネ王は後継者を残さず死亡します。再び後継者争いが起こり、弱い王が続きますが、1637年に即位したスリニャウォンサー王によってラーンサーン王国は再び平和な時代を迎えます。

 

5.ラーンサーン王国の大分裂

スリニャウォンサー王は1637年から1694年の57年の間ラーンサーン王国を統治します。この間、ラーンサーン王国では仏教が厚く保護され、多くの仏教寺院が建設され、東南アジア全域から宗教研究のために僧侶が集まりました。スリニャウォンサー王は「仏法王、タンムカラート」と呼ばれ敬愛を受けました。また文学、芸術、音楽、宮廷舞踊が復興しました。

またこの頃、アユタヤ、パタニ、マラッカなど東南アジアの港市国家にはヨーロッパ、中東、中国、日本などから商人や宣教師が多数来訪しており、ビエンチャンにも商人や宣教師が訪れてきています。

1641年には、オランダ東インド会社のゲリット・ヴァン・ヴイストホフがラーンサーン王国と正式に貿易を開始しています。1642年にはイエズス会のジョヴァンニ・マリア・レリアがラーンサーン王国でカトリックの布教を行いました。

1694年にスリニャウォンサー王が死去すると、王位継承権を持つ2人の幼い孫、キン・キッサラート王子とインタソーム王子、2人の娘スマンガラ・クマリ王女が残され、王の甥であるサイオンフエも巻き込んで後継者争いが起きました。

争いの結果、サイオンフエが後継者として有力になり、1700年にセタティラート2世としてラーンサーン国王に就きます。キン・キッサラート王子とインタソーム王子は北部のムアンであるシプソンパンナに亡命し、スマンガラ・クマリ王女は南部のムアンであるチャンパサックに亡命しました。

1705年、キン・キッサラート王子はシプソンパンナの援軍を受け、ルアンパバンに向けて進軍しました。セタティラート2世の弟のルアンパバン総督は逃亡し、キン・キッサラート王子はルアンパバン王に即位します。

こうしてラーンサーン王国はビエンチャン王国とルアンパバン王国に分裂しました。さらに1713年、スマンガラ・クマリ王女の亡命先のチャンパサックで、アユタヤの後ろ盾でビエンチャンに対する反乱がおき、息子のシーサムットが王位につきチャンパサック王国が成立しました。

こうしてラーンサーン王国は北部、中部、南部の3つに分裂してしまいました。また、ムアン・ファンもルアンパバン王国に従属しつつも半独立状態となりました。

 

6.ビエンチャン王国の崩壊

1773年、ビエンチャン王国はスリニャ・ウォンサー王が率いるルアンパバン軍に攻撃されました。ビエンチャン国王のオン・ブン王はコンバウン朝ビルマに助けを求めてルアンパバン軍を追い出すことに成功しますが、その結果、ビエンチャンはビルマの属国となりました

ビルマの仇敵であるシャム王国トンブリー朝は、北にビルマの脅威を取り除くことを目指し、1775~76年のビルマ・シャム戦争のあと、タクシン王が後のチャックリー朝の初代ラーマ1世であるチャックリー将軍を派遣し、ビエンチャンに侵攻させました。

1779年にシャム軍はビエンチャンを略奪し、現在バンコクのワット・プラケオにあるエメラルド仏を含む貴重で高価な仏像が掠奪されました。

オン・ブン王はシャムに服従し、ビエンチャンはシャム王国の属国となりました。このシャム軍による遠征で、チャンパサック王国もムアン・ファンもシャム王国に占領され属国となりました。

オン・ブン王はシャムに反旗を翻し独立をしようとしたため、1781年にシャムに捕らえられ処刑されました。

シャム王国はオン・ブンの息子ナンタセンを支配者に据えました。1791年にナンタセンはチャックリー朝初代のラーマ1世にルアンパバン攻撃を進言し、シャムの支援を受けて1792年にルアンパバンを占領しました。こうしてラオスの3王国はすべてシャム王国の支配下に入りました。

ところがビエンチャンは、ベトナムの後黎朝の勢力をかくまっているとしてタイソン朝の侵攻を受けます。一時的にナンタセンはシャムに亡命しました。1795年、ナンタセンはシャムに対する反乱を企てたとして告発さ退位させられ、ビエンチャン国王は弟のインタウォンが継ぎました。

インタウォンは1804年に死去し、弟のアヌウォンがビエンチャン国王として後を継ぎます。当初アヌウォン王はシャムに対して忠実だったものの、ある時突然シャムに対して反乱の軍事的準備を進め、1826年12月に約10,000人の軍隊をコーラート台地に侵攻させました

なぜシャムに対して反乱したのか理由はよく分かっていません。ビエンチャンの軍勢はタイ東北部と中央部の境にあるナコンラーチャシーマを占領しますがシャム軍によって反撃されて軍は潰走し、1827年にヴィエンチャンはシャム軍によって破壊されました。

街は焼き払われ、ほぼ全ての財宝が略奪され、ビエンチャンの住民はタイ東北部に強制移住させられました。

アヌウォン王は死ぬまで独房に入れられたそうです。ビエンチャンの南部、メコン川沿いの遊歩道には、タイ領に向かって手を差し伸べるアヌウォン王の巨大な銅像が立っています。タイ人からすると裏切り者ですが、ラオス人からすると民族解放のために立ち上がった英雄とみなされています。

こうしてビエンチャン王国は消滅しました。

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つなぎ

ラーンサーン王国の成立からその後継国家であるビエンチャン王国の消滅までを今回はまとめました。

もともとクメール帝国の傀儡国家から始まった王権が、強大化しベトナム、シャム、ビルマなど周辺のライバル国と対決し征服し征服されというインドシナの戦国時代を勝ち抜いていきますが、タイやベトナムのように交易での軍事強国化に失敗し、とうとう最後にシャムの属国になってしまいます。

やはり港を取れなかったのが大きそうですね。そして西洋と交易できなかった。

もしセーターティラート王の遠征が成功していたら、その後の東南アジアの歴史はすごく変わったかもしれません。

次回はラオスが仏領インドシナに組み込まれるのと、フランスからの独立、社会主義ラオスの成立までをみていきます。

 

参考文献・サイト

『ラオスの基礎知識(アジアの基礎知識5)』 山田紀彦著 めこん

"Laos: A Country Study" Andrea Matles Savada, ed. Laos: A Country Study. Washington: GPO for the Library of Congress, 1994.

History of Laos - Wikipedia