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一代で崩壊した帝国・王国

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 創業者の代で崩壊してしまった短命の帝国・王国

いかに短命な王朝・王国であっても、皇帝・国王の代は数代続くのが普通です。大抵は二代目以降に混乱が生じてきます。後継者問題、前王朝・王国の末裔の抵抗、地方有力者の反乱、外国の侵略、自然災害など。

多くの場合、創業者は前王朝・王国の混乱を収束させ治安と安定を回復し、国を開きます。信望があったからこそ支配者となれたわけです。

それだけに、創業者が亡くなるとその王朝・王国も滅びてしまうということは、よほどその人物に問題があったか、かなり無理な状態で国を建設したか、外国の侵略や自然災害など想定外の出来事が起こったか。

いずれにしても異常事態と思われるわけです。

今回は一代で崩壊してしまった帝国・王国をピックアップしていきます。

なお、満州帝国などの傀儡国家は除外して純粋な民族国家のみで選んでいます。

 

1. エジプト第28王朝

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 謎に包まれたエジプト人の王

エジプト第27王朝はペルシアのアケメネス朝ペルシアによる支配下にあった王朝で、紀元前525年から紀元前404年、121年もの間続きました。

紀元前465年ごろ、リビア人の首長イナロスという男がペルシア人に対して反乱を起こし、エジプト解放のための戦いを始めました。イナロスはペルシア人に捕らえら処刑されるも、サイスのアミルタエウスという男が後継者となり闘争を続けました。

アミルタエウスの死後もエジプト解放の闘争は続き、その近親者(孫?)と考えられるアミルタエウスが紀元前405年にアケメネス朝のダレイオス二世の軍を打ち破り、ペルシア人をメンフィスから追放することに成功。ダリウス二世の死後、アミルタエウスはファラオとなり第28王朝を成立させました。

しかし、エジプト第28王朝はわずか5年後、ネフェリテスという男がアミルタエウスを殺害したことで絶えてしまいました。このネフェリテスがネフェリテス一世として即位し第29王朝が成立することになります。

この当時の記録はほとんど残っておらず、アミルタエウスがなぜ殺されたかは一切不明。後のエジプトの伝承によると、アミルタエウスは何らか当時の法律に背く行為をしたため、彼の息子は後を継ぐことができなかったそうです。

 

2. 新王朝

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中国の古典国制を確立させた王莽の王朝 

前漢末期は災害が相次ぎ民衆の生活が困窮したことに加え、跡継ぎのなく短命の皇帝が続出して帝位に混乱が生じました。この混乱に乗じて漢王朝を簒奪し新王朝を打ち立てたことで悪名高いのが外戚の王莽。第11代元帝の皇后王政君のきょうだいにあたります。

王莽は儒学の勉学に励み、成帝に大司馬を拝命して仕えますが成帝は早逝。哀帝の治世は田舎に戻りますが、哀帝死後に叔母である皇太后によって王莽は大司馬に復位。幼帝である平帝に代わり政務を掌握しました。そして平帝の死後、王莽は傍流から劉嬰(りゅうえい)を即位させつつ自ら仮摂皇帝につき、やがて権力を移譲させ後八年に真天子に即位しました。王莽は新という名を王朝名として宣言。禅譲の形で王位を簒奪しました。

王莽は即位後、儒家経典を典拠とする改革を相次いで打ち出しました。貨幣改鋳や専売制などの経済改革は現実に即しておらず社会の混乱を招いたものの、畿内制度と州牧制度は後の国政の基本となる重要な統治制度の改革となりました。また、王莽は元帝の時代に始まった儒学による国政改革を完成させ、生民論(天子による民衆支配の根拠)と承天論(天子・肯定を中心とした天の秩序と、各種の祭儀と官僚制により地上に秩序を実現する理論)を皇帝の帝国支配とする理論を完成させました。

しかし東方や長江流域で大飢饉が発生。各地で盗賊が発生して秩序が乱れ、その中で漢王朝の復興を目指して劉氏一族が反乱を起こしました。その中から宗室の劉玄が台頭。各地の武装集団の支持を受けた劉玄は帝位につき、王莽は長安になだれ込んだ民衆反乱によって殺害されました。新はわずか15年で滅び、後漢王朝が成立しました。

 

3. トンブリー朝

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Photo by Pitt

次第に傲慢になったため(?)処刑される

 1767年、コンバウン朝ビルマの軍がアユッタヤーを陥落させ、約400年続いたアユッタヤー朝は崩壊しました。しかしビルマ側の支配が緩むと各地で軍事蜂起が発生。その中で旧アユッタヤー軍の将軍でチャンタブリーを拠点にしたタークシンが、潮州系華人の支援を受け勢力を拡大。ビルマ軍を追い出し、バンコク(トンブリー)の地に都を建設しました。その後タークシンは現在のタイ全域、ラオス、カンボジア、マレーシア北部まで、アユッタヤー朝の旧領土をほとんど回復しました。

しかし、タークシン王は僧侶に対して自分に跪拝を要求するなど、タイの文化からすると考えられないような傲慢な態度をとるようになったといいます。これが事実かどうかはよく分からず、後の作り話である可能性も高いです。

タークシンは戦場から遠のき、代わりに部下でモン族の血をひく将軍チャオプラヤ・チャックリーが武功を数多く上げて威信を高めていくことになります。チャオプラヤ・チャックリーは王の命令で1781年にカンボジアに進軍しベトナムと戦いますが、首都トンブリーで反タークシンのクーデターが起こると急遽都に引き返して事態を収拾。タークシンは処刑されてトンブリー朝は廃止され、チャオプラヤ・チャックリーがラーマ一世として現在まで続くチャックリー朝を開きました。

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4. アルバニア王国

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大統領が国王になるもイタリア軍の侵攻で崩壊

アルバニアは15世紀からオスマン帝国の支配下にありましたが、第一次バルカン戦争によって独立を認められ、ルーマニア王妃エリザベタの甥ヴィート公子ヴィルヘルムを王位に就けアルバニア公国として独立しました。

しかしオスマン帝国支配下で定着した地方諸侯の力が強く、国王ヴィルヘルムは首都ティラナ近辺しか支配できませんでした。第一次世界大戦が始まって以降各地は分裂し、地方政府が独自に統治する状態になりヴィルヘルムはドイツに亡命。無政府状態となりました。

そこで隣国ユーゴスラヴィアは1925年、アルバニア総督の家系出身のアフメト・ムフタル・ゾグを支援して政権を掌握させました。ゾグは王政を廃してアルバニア共和国を成立させました。

しかしゾグはわずか3年後の1928年に共和制の廃止を決定し王政に復帰。自らゾグ一世と称して王位に就きました。

ゾグ一世はムッソリーニ政権下で好景気に沸くイタリアから多額の投資を受け、ヨーロッパ最貧国と言われた経済は、もっとも経済成長著しい国と称されるまで成長。イタリアの全面的な支援の下、経済、法律、教育、文化が急速に発展しました。

しかし1939年、ゾグ一世の子供の誕生が間近に迫る中で、ヒトラーがムッソリーニに事前に通知することなくチェコスロバキアに侵攻した後、イタリアはアルバニアの併合を決定。1939年4月7日にイタリア軍がアルバニアに侵攻しました。アルバニア軍はいくつかの戦闘で頑強に抵抗するもイタリア軍の物量に屈し、首都ティラナは陥落。ゾグ一世はイギリスに亡命しました。

その後アルバニアは議会の合意の上でイタリアと併合。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がアルバニアの王位に就きました。

 

5. ハイチ帝国

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独立運動家が皇帝に就任

ハイチはもともとサン=ドマングと呼ばれ、フランス植民地の中で最も裕福な地域でした。特にサトウキビ栽培が盛んで、白人の土地所有者の下で、圧倒的多数の黒人奴隷が強制労働を強いられていました。

1789年、本国フランスで革命が勃発すると、サン=ドマングの白人たちはフランスからの独立を画策するようになります。一方でサン=ドマングのカラードは革命に乗じて人種差別撤廃と平等を訴え蜂起。反乱が全土に拡大していきました。

1791年、黒人奴隷が突如蜂起し、全土で白人の土地所有者や金持ちを襲撃し虐殺。混乱が広がる中で、黒人奴隷を組織化したのが家事奴隷出身のトゥサン・ルベルチュール。

トゥサン・ルベルチュールの軍はサン=ドマングの島を掌握し、隣のサンドミンゴ島までも支配してしまいます。ナポレオンは義弟のシャルル・ルクレール率いる遠征隊を送り鎮圧を試みます。トゥサン・ルベルチュールは捕らわれて牢獄で死亡。一時黒人奴隷反乱は鎮圧されてしまいます。

しかしトゥサン・ルベルチュール軍の有力者で、これまた奴隷出身の将軍ジャン=ジャック・デサリーヌが1802年に再蜂起。ヴェルティエールの戦いでフランス軍を打ち破り、1804年に国号を先住民族タイノ人に由来がある「ハイチ」として独立を宣言。自らジャック一世と名乗り皇帝に就任しました。

▽ジャック一世

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ハイチ帝国は史上初めて黒人が自立した国で、独自の帝国憲法を制定するなど注目されました。ジャック一世はこれまでの白人支配の報復として白人を大虐殺し、白人の土地所有を禁じてハイチ人のみに認められると定めました。しかしジャック一世は稼ぎ頭であるプランテーション農業での就労を黒人に強制し、経営や教育者にムラート(白人と黒人の混血)を就けたため不満が高まり、1806年10月に暗殺され、帝国はわずか2年で崩壊しました。

 

6. ハイチ王国

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再度失敗した王政を作ろうとする試み

ジャック一世の死後、ハイチは内乱状態に突入。

北部は奴隷出身の軍人アンリ・クリストフがハイチ国を建て大統領に就任。南部はムラートの軍人アレクサンドル・ペションがハイチ共和国を建て、南北分割しました。

北のハイチ国では、大統領アンリ・クリストフがアンリ一世と称して王政に突入。国号をハイチ王国としました。

▽アンリ一世

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アンリ一世はジャック一世の失敗に学び、王政を安定させるために貴族階級を創設。また、サンスーシ宮殿を含む6つの城と8つの宮殿を建設し、フランスの侵略から王国を守るべくシタデル・ラフェリエール要塞を建設しました。

しかし国内の反発も根強く、国民の支持は薄れていき、アンリ一世は脳卒中で倒れた後に神経衰弱となり1820年10月にピストル自殺しました。彼の息子で皇太子であったジャック=ヴィクトル・アンリは、10日後にサンスーシ宮殿で反乱軍によって暗殺され、ハイチ王国は崩壊。南部ハイチ共和国の大統領ジャン・ピエール・ボワイエが北部を併合し、ハイチは再統一されました。

 

7. ポルトガル北部王国

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 1か月で崩壊したポルトガルの王政復古政権

ポルトガルの19世紀は王党派と自由主義者が争い続ける内乱・反乱の時代でした。

内戦を経て勝利したのは自由主義者で、その中核は都市部の商人・銀行家と地主を筆頭とした農村ブルジョワで、主に公共事業の投機で大きな利益を得、軍人や医者、弁護士などの職業に就いて支配的階級を築き、政権を担えるほどの実力を蓄えるようになっていきました。

20世紀に入るとさらなる改革を望む力が強まり1910年10月、共和主義者による反乱が起こり、国王マヌエル二世が退位させられブラガンサ王朝が崩壊。マヌエル二世を含む王室はイギリスに亡命。リスボンにポルトガル第一共和政(ポルトガル共和国)が成立しました。

パイヴァ・コウセイロを始めとした国内の王党派は、共和制打倒を掲げて1911年に蜂起するも失敗。王党派は北部ガリシア州に集結し、支援者や兵士を集めつつ行動の機会を伺っていました。一方リスボンでは、クーデターで実権を握った軍人シドニオ・パイスの政権が、当初は大衆扇動的で人気を集めたもののすぐに左派・右派両方の支持を失って、最後は暗殺されてしまいました。

このリスボンの政治的混乱を好機と見たパイヴァ・コウセイロは、1919年1月に北部の大都市ポルトに軍事侵攻をして制圧。南部から独立させたポルトガル北部王国の設立を宣言し、国王としてマヌエル二世を戴きました。

しかし北部王国はまったく国内の支持を得られず、国家としての組織化もなされず、1か月あまりで崩壊しました。

 

8. 中央アフリカ帝国

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強欲な独裁者が皇帝就任を宣言 

中央アフリカはコンゴやガボンと共にフランス領赤道アフリカを構成していた地域で、1958年のフランス第五共和制の成立に伴いフランス共同体の一翼である中央アフリカ共和国となりました。その後1960年8月に、反仏闘争の指導者の家系であったダヴィド・ダッコを大統領にして独立します。

しかし1965年、ダッコの経済政策を不満として、従弟で陸軍参謀のジャン=ベデル・ボカサがクーデターを起こし大統領に就任します。大統領となったボカサはウランと金の採掘を強化して経済発展を強化すると同時に、空港、国会議事堂、スポーツスタジアム、高層ホテル、大学、病院などのインフラ建設を推進しました。中央アフリカには投資家からの投資が殺到し、中央アフリカは一躍経済発展著しい国として注目されることになります。

一方でボカサはダイヤモンド、象牙、コーヒーの生産収入をすべて自分の懐に入れました。また国際援助もポケットにしまいこみ、強大な富を独占します。同時に、ボカサは、忠誠心を疑われた何十人もの信奉者を拷問して殺害し、ライオンの餌にすべきかワニの餌にすべきかを判断し、復讐のために家族を抹殺するなどしました。

1972年にボカサは終身大統領を宣言し、その5年後にとうとう皇帝となることを発表。

1977年12月4日に行われた皇帝就任式は豪華絢爛そのもの。猛暑の中ボカサはナポレオンの緋色のマントのレプリカを身につけ戴冠式用馬車に乗って登場。パリから取り寄せた金メッキの鷲の玉座に座り、金の王冠をかぶり皇帝ボカサ一世就任を宣言しました。

戴冠式の費用は、その年のフランスの開発援助に匹敵するものでした。

▽ボカサ一世

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ボカサはフランス大統領ジスカール・デスタンと懇意で、フランスの承認と援助をとりつけました。皇帝に就任したボカサはますます強欲となり、皇室に使われる多額の資金のため国の財政は悪化。さらに1979年初頭には、ボカサの一族が経営する会社が製造する制服の購入と着用を義務付けようとしたことがきっかけで、大規模な学生デモが発生。ボカサは軍を動員して学生を虐殺し運動を鎮圧させました。

事ここに至り、フランスは暴虐な独裁者を支援することができないくなります。

同年9月、ボカサはリビアのカッザーフィー大佐を公式訪問していたのですが、その隙にフランス軍空挺部隊が首都バンギを急襲し無血占拠。ジスカールは初代大統領ダッコを復位させ、共和制を復活させました。

その後ボカサはフランスに亡命し再度の帝位復帰を画策しますが実ることはありませんでした。

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まとめ

 腐敗や強権、失策、実情に合わない政策の強行など、どれも失脚の要素はてんこもりですが、どれもいつの世・いつの時代もあるものです。腐敗していても崩壊せず、代替わりして改善されるケースも史上枚挙にいとまがありません。一代で滅びてしまうのはやはり国家運営のための組織をちゃんと整備できず、あるいは整備していても脆弱だったことがあるのではないかと思います。

 いかに組織を属人的にせずに組織化していくかは、大は国家経営から小はチーム経営まで永久の課題で、歴史に学べることが多いのではないでしょうか。

 

参考サイト

"Egypt: History - Dynasty XXVIII (Twenty-eighth Dynasty)" Tour Egypt

「中華の成立: 唐代まで」 渡辺信一郎 岩波書店 

 "Albanian Kingdom (1928-1939)" Albanian Studies

Monarchy of the North - Wikipedia

"The Central African Republic, where Emperor Bokassa ruled with violence and greed" THE IRISH TIMES