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【我々は媚びる】ナチス占領に協力したヨーロッパの団体

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抵抗せずにナチスに協力したヨーロッパの人々

「悪逆非道のナチスの支配に対し、ヨーロッパの人々は雄々しく立ち向かったのだ!」

映画や小説はもちろん歴史本に至るまでそんな文脈が主流で、実際抵抗運動も激しかったのですが、話はそう単純ではなさそうです。

ナチス・ドイツが圧倒的な武力でヨーロッパを席巻し支配を強めていく中、占領下の国々の中には結構、ナチス支配に協力をする者がいました。

どの時代・場所にもいる「世渡り上手」な人だったのでしょうか。

今回はそんなナチス支配に協力した団体をピックアップします。

 

 

1. ドイツ・フランダース労働集団(ベルギー)

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親ドイツ活動の功を競った「文化集団」

ドイツ・フランダース労働集団(Devlag: Deutsch-Vlämische Arbeitsgemeinschaf)は、1936年にベルギー・フランドルの極右政治家ジェフ・ヴァン・デ・ウィールによって設立された団体。当初は、ルーベン大学とケルン大学の教授と学生の交流促進が目的でした。

1941年にフランドルがドイツに占領されると、Devlagはナチス・ドイツ親衛隊(SS)によって組織改編され、ゴットロープ・ベルガーが代表に就任しました。

当時フランドルにはDevlagの他にフランドル・ナショナル・ユニオン(VNV)という名前のフランドル独立派のナチ組織があり、SSはフランドル支配のイニシアチブをどちらに取らせようか決めかねていました。

Devlagは主に親ドイツ的「文化活動」が主な活動でしたが、ライバルのVNVに負けじとリクルート活動を活発化させてユース組織を作ったり、自分たちのほうがナチスに忠誠を尽くしていることをアピールしようとしました。1943年にはメンバーが5万人にも達しました。

SSはその功を認め、Devalgをフランドル支配の中心に据えようとしましたが、既に連合国の反転攻勢は始まっており、まもなくベルギーは解放され、Devalgの努力は水泡に帰してしまいました。 

 

 

2. デンマーク自由団(デンマーク)

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 ドイツのソ連侵攻に協力したデンマーク人部隊

1940年4月にデンマークはドイツの支配下に入りますが、同年6月に始まったドイツによるソ連侵攻作戦にあたり、ドイツ政府はデンマーク政府に部隊を派遣するように依頼しました。その7日後、デンマークの親独派Fædrelandet紙は、紙面に「デンマーク自由団(Free Corps Denmark)」の結成を掲載し、同時に隊員の募集を呼びかけました。

加入すれば元の階級を維持できるとあって、デンマーク王国軍の隊員約6000名と、指揮官77名が参加。

1か月後の7月にはハンブルクに送られてトレーニングを受け、9月からポーランドで待機し、翌年5月にはデミャンスクとノブゴロドの前線に送られソ連軍と戦いました。

ところが被害は甚大で指揮官が次々と戦死。8月には部隊は前線任務を解かれデンマークに帰還しました。その後部隊はラトビア、次いでニュルンベルクと転々とし、1943年6月に解散。メンバーはHIPO CorpsやSchalburg Corpsといった他のデンマーク人部隊に合流させられ、終戦までドイツと共に戦いました。

 

 

3. 反共フランス義勇軍団(フランス)

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「シャルルマーニュ軍団」の前身組織

反共フランス義勇軍団(LVF: Légion des volontaires français)はヴィシー政権下の1941年に、新独派のフランス人政治家たちが自発的に創設した軍隊で、ナチス・ドイツの軍事侵攻に積極的に協力することを目的としました。

メンバーはフランス人のナチ党メンバーとフランス外人部隊に所属していたロシア人隊員で、お金が目的だったり、ドイツでの労働を逃れたい者がほとんど。

訓練を受けた後、1941年10月に2452名の隊員がモスクワ近郊に送られますが、ソ連軍の猛攻と寒さにすっかりやれられてしまう。ドイツはVLFを士気の低い無能部隊とみなし、後方任務を充てがってしまいました。

その後1943年、フランス外人部隊出身で有能なエドガー・ピュオ大佐が指揮官に就くと部隊は瞬く間に生まれ変わり、1944年6月にベラルーシのボブル川でソ連軍の大攻勢を跳ね返すという活躍を見せました。

1944年秋、VLNはその他の親独武装組織(フランス民兵団や第8フランスSS義勇突撃旅団など)と合流し、新設の「シャルルマーニュ軍団」の所属となり、隊員は「第58SS所属武装擲弾兵連隊」という正式な組織名が付けられました。

隊はその後の連合国の攻勢の中でもドイツ軍と共に戦い、1945年5月の解散以降も一部の隊員は自発的にベルリンに移動し、終戦まで果敢に戦い抜きました。

 

 

4. ギリシャ社会主義愛国者団体(ギリシャ)

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 途中で頓挫したギリシャ版SS設立の夢

 ギリシャ社会主義愛国者団体(ESPO: Hellenic Socialist Patriotic Organization)は1941年夏に、スパイロス・ステロディマス博士によって設立された親独組織で、メンバーは超国家主義者やナチ信奉者で、イデオロギーとして反共・反ユダヤを掲げました。

活動は主にユダヤ人狩りやシナゴーグの取り締まりで、ステロディマス博士はゆくゆくは団体をギリシャ版のSS(武装親衛隊)に育てドイツに自分たちの存在と活動をアピールし認めてもらいたいと考えていたようです。

ところが博士と28人の隊員は、反ナチ抵抗組織・汎ギリシャ武装連合青年部(PEAN)が仕掛けたテロで吹っ飛ばされて死亡。

指導者を失ったESPOはやがて消滅しました。

 

 

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5. アラジャス・コマンドー(ラトビア)

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 ラトビアのホロコーストの主体となった組織

アラジャス・コマンドーは1941年にSSが主体となって作られたラトビア人が主体の組織。メンバーの多くはナチ思想の持主か、若い学生でした。設立当初はあくまでボランティア組織で、メンバーは入隊も退会も自由でした。

彼らのミッションはナチス・ドイツが提唱する「劣等民族の根絶」を実践することで、ユダヤ人やロマ、共産主義者の殺害を主導しました。ソ連国境付近でのユダヤ人殺害任務の他、ドイツから送られてきた数千人単位のユダヤ人をリガ近郊のゲットーに収容させた上で処刑する任務にもあたりました。合計で約26000人のユダヤ人がアラジャス・コマンドーによって殺害されたとされています。

当時は300~500名の隊員で組織されていましたが、ラトビア国内でのパルチザン活動が活発になると、その取り締まりのためリクルート活動に力を入れ約1500名にも膨れ上がりました。

ラトビアがソ連によって占領されると、一部のメンバーはラトビア版SSの「ラトビア部隊」に移動し、ベルリン陥落まで戦い抜きました。 

 

 

6. リトアニア領土防衛隊(リトアニア)

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最終的にナチスによって潰されたリトアニア人主体の組織

リトアニア領土防衛隊(LVR: Lietuvos vietinė rinktinė)は、1943年に設立されたリトアニア人主体の防衛組織。

ドイツ占領下のリトアニアにおいて、東より怒涛のように迫るソヴィエト赤軍から国土を守る事は焦眉の課題でした。さらに国内では共産主義ゲリラやポーランド人パルチザンが侵入して治安を乱しており、リトアニア人自身による国土防衛と治安維持の必要性が叫ばれていました。

リトアニア独立戦争の英雄ポヴィラス・プレヴィウス将軍は、ドイツに働きかけて合意を得てLVRを設置。当初ドイツ側から許された計画では、21の隊と250名のメンバーのみでしたが、リトアニアの地下政治組織はこぞってLVRを支持して協力した上、1944年のリトアニア独立記念日にプレヴィウス将軍がラジオ放送で有志を募ったところ応募者が殺到し、2万から3万にも膨れ上がってしまいました。

ナチスは短期間で膨れ上がったLVRに不信感を募らせ、あくまでドイツの配下にあることを明示すべく宣誓式でヒトラーやSSへの忠誠を誓わせたり、あまり力を持ってしまわないように武器や制服の配給を滞らせたりしました。

1944年3月、ドイツは突然LVRの解散を命じ、指揮官を逮捕し処刑。配下のメンバーはナチスが組織した対ソ武装組織への編入を命じられましたが、残党はリトアニア人ゲリラ組織「フォレスト・ブラザーズ」など、他の反ソ組織に加入しました。

 

 

7. イギリス自由軍団(イギリス)

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ナチ心酔者のイギリス人が作った「イギリス人軍団」

イギリス自由軍団(British Free Corps)は、イギリス人捕虜によって構成された部隊で、設立したのはジョン・アメリーという人物。

もともと反共主義者でナチスに心酔していたアメリーは大戦中にドイツに渡り、ヒトラーに「イギリス人による反共義勇部隊」の設立を打診。これに感銘を受けたヒトラーはアメリーに協力を約束。「イギリス人によるドイツ軍部隊」の設立を指示しました。

これに発奮したアメリーはイギリス国内での部隊設立に奔走しますが、スパイが本国で逮捕されたりしてなかなかうまくいかず、最終的にイギリス人捕虜の中から「待遇改善」をエサに隊員をつのり、ようやく14人の志願兵が加わりました。

その後も引き続き隊員のリクルート活動を続けますが、精神的におかしい者や、規律違反で元のイギリス人部隊に戻れない者、イギリス人による差別に反発したマオリなど、何らかの問題を抱えた者ばかりで、当初アメリーが想定したような「反共の精神に燃えるイギリス人」はほとんど集まらなかった。部隊は最大時でも27名のごく小規模なものでした。どちらかというと、「ナチスの思想に共感するイギリス人有志」のようなナチスの宣伝材料となっていました。

1945年、部隊は東部戦線の一部隊ノルトラント師団の一部として配置されたものの、戦況は厳しく師団は西へ西へと追い詰められていく。最終的に生き残ったイギリス人隊員はアメリカ軍に投降。

戦後、部隊を創設したアメリーは処刑されました。

 

 

8. ヒヴィ(ソ連)

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 自発的にドイツ軍に協力した者の総称

ヒヴィは一般的に、ナチスに協力した敵国の民間人や脱走者のことを指して言い、ドイツ語のHilfswillige(自発的協力者)の略語。特にロシア人やソ連領内からの逃亡者に多く、ヒヴィと言うと「ロシア人協力者」と結びつけられて語れることが多いようです。

ヒヴィには大きく分けて3つあり、一つ目が「戦闘部隊」でドイツ軍と共に戦闘に参加した者で、ドイツ軍に降ったコサック部隊から成る。二つ目が「補助部隊」で斥候や補給の任務にあたった者で、占領下の地元の人々や囚人。三つ目が「雑用部隊」で清掃や料理などの肉体労働にあたった者で、主に囚人が多かったようです。

ヒヴィのロシア人部隊はドイツ軍第6軍の一員として、スターリングラード攻防戦や南方戦線(ウクライナ・ルーマニア)で戦い、おおよそ5万人もいたそうです。

戦後彼らの多くは故郷に戻りますが、戦争中にヒヴィをしていたことがバレると、逮捕され容赦なく殺害されました。

 

 

まとめ

もし仮に中国軍が攻めてきて日本を占領し、中国領日本自治区などになったとします。

アメリカ軍は西太平洋から撤退し、ヨーロッパ諸国は様子見を決め込み、ロシアは中立を貫いている。 

圧倒的な物量であなたの街を支配する中国軍に、銃ひとつで抵抗する自信はありますでしょうか?そんな気概はありますか?

ぼくは全然自信がないです。

だって、今日食うメシ代稼がにゃならん。家族もいる。抵抗しておっ死ぬより、新たな支配者である中国軍と上手くやったほうが生きる望みがあるではないか。

仮に一部の日本人レジスタンスが中国支配をひっくり返してしまった場合、ぼくは真っ先に殺されます。そんなことにならないよう、きっとぼくは同胞である日本人レジスタンスを叩き潰すのを支持するでしょう。

親中国派と反中国派で国内は2分されて、何らかの形で国が安定した後も将来に大きな禍根を残すに違いない。ぼくは殺す側かもしれないし、殺される側かもしれない。

「馬鹿野郎、何を空想めいたことぬかしてやがるんだ」

と思うでしょうが、アメリカが東アジアから手を引きたがっている今、本当にそんなことにならないように、日頃から準備を怠らないことが重要だと思うのですが。

 

 

参考文献

Devlag - Wikipedia, the free encyclopedia

Free Corps Denmark - Wikipedia, the free encyclopedia

Legion of French Volunteers Against Bolshevism - Wikipedia, the free encyclopedia

Hellenic Socialist Patriotic Organisation - Wikipedia, the free encyclopedia

Latvian Legion - Wikipedia, the free encyclopedia

Lithuanian Territorial Defense Force - Wikipedia, the free encyclopedia

British Free Corps - Wikipedia, the free encyclopedia

Hiwi (volunteer) - Wikipedia, the free encyclopedia