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「売国奴」と呼ばれる人たち:ベネディクト・アーノルド

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第13回:ベネディクト・アーノルド(1740 - 1801)

ベネディクト・アーノルドはアメリカ独立戦争で活躍した、アメリカ植民地軍の将軍。

様々な戦役で活躍して武功を挙げ、将軍ワシントンにも信頼された優秀な将軍でしたが同時に、カネを巡って様々な疑惑が付きまとった人物でもありました。

周囲と衝突し、大陸会議のメンバーに信頼されず、その活躍に見合うだけの報酬や昇進ポストを与えられず不満が爆発。

あろうことか敵のイギリス軍に寝返ってニューヨークのウェストポイント砦の引き渡しを画策します。結局謀略は未遂に終わりますが、アーノルドはイギリス軍に逃亡し、独立戦争後はイギリスに移住します。

そのためアメリカの愛国者の間では、アーノルドは「裏切り者」であり「300万人のアメリカ人を売った男」と言われています。

1.  没落した家を立て直す

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没落するアーノルド家

アーノルドは1741年、コネチカットの生まれ。父は実業家でアーノルド家は地区の成功した名家でした。

しかし一家に不運が襲います。アーノルドの兄弟たちが悪風にたたり次々と病死。父はそれを悔やみ酒に溺れてアルコール依存症になってしまう。アーノルドは学校を中退し、奉公に出て商売を学び始めます。18歳の時に母が、20歳の時に父が他界し、若くしてアーノルドは一家の大黒柱として家族を支えることになったのでした。

商売人として成功するも、イギリスのせいで破産寸前 

アーノルドはニューヘイブンで薬剤師と本屋として事業を成功させ、積極的に投資を行って商売を拡大させました。そしてすぐに両親が作った借金を返済し、家産を取り戻し、さらに家名を上げるべく西インド諸島の貿易に乗り出します。

しかし1764年の砂糖法と翌年の印紙法は、植民地の商売人の経営を圧迫。多くの商人は闇ルートを使って密貿易のような商売を行っていましたが、それでものしかかる税金は経営に大きなダメージを与え、一転してアーノルドは破産寸前にまで陥ってしまいます。

2. アメリカ独立戦争勃発

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大尉として戦争に従軍

アメリカ独立戦争が勃発すると、ニューヘイブンの町で実業家として名の高かったアーノルドは大尉となって、市民を率いて戦いに馳せ参じます。タイコンデロガ砦に大量の武器弾薬、大砲が保管されていることを知ったアーノルドは、マサチューセッツ安全員会を説得し、砦を奪取するための遠征資金を認めさせ、それを元に「マサチューセッツ民兵隊」を組織。アーノルドは大佐に就任します。

砦に向かう途上、バーモントの民兵を率いるイーサン・アレンの部隊「グリーン・マウンテン・ボーイズ」と合流。1775年5月10日、早朝に一斉に砦に攻撃をかけようとしますが、何と銃をほとんど撃たないうちにすぐに砦に白旗が上がった。さらにアーノルドの部隊は、周辺の中小規模の砦を攻撃し、それらを落とす戦果を上げます。

アーノルドはタイコンデロガ砦に戻ると、複数の部隊の指揮を執り始めますが、後にやってきたベンジャミン・ハイマン大佐がアーノルドを部下として組み入れ、自分の指揮下で動くようにと通達。これにアーノルドは「砦を落としたのは私の手柄なのにそれを認められていない」と激怒し勝手に故郷に帰ってしまいました

アーノルドはこのことがきっかけで、「自分勝手なヤツ」ということで大陸会議の一部の人間に嫌われてしまうことに。

3. カナダ侵攻作戦

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モントゴメリー将軍のカナダ遠征軍に従軍するも揉める

ニューヨーク北部を脅かす位置にいるイギリス軍を追い払うべく、リチャード・モントゴメリー将軍はカナダへの遠征を決定。アーノルドはワシントンに、自分が別動隊を組織しイギリス領ケベックの攻撃を加えることを提案。ワシントンはこれを受諾し、アーノルドをケベック攻撃隊の対陸軍大佐に任命します。

アーノルドはセントローレンス川を渡り、ケベックに近づきますがこの時この町を占領するには部隊があまりにも少なすぎることに気づき、モントゴメリー将軍の部隊の到着を待つことに。

モントゴメリー将軍はモントリオールを占領し、アーノルド隊と合流しケベックに向かいますが、カナダ総督ガイ・カールトンの軍の前に大陸軍は惨敗。ケベックの壁に近づくことすら出来ず、モントゴメリー将軍は戦闘中に戦死。多くの兵が戦死し、捕虜となった者も数百にも上りました。アーノルドは残った兵を時下に組み込み、ケベックの包囲を続けますがもはや無為な戦いとなっていました。

モントゴメリー将軍の配下のジョン・ブラウン少佐は、以前から将軍と約束していたらしい昇進をアーノルドに要求しますが、元々アーノルドはブラウンのことを良く思っていなかったためその要求を拒否。ブラウンはすぐに大陸会議にこのことを申請しますが、アーノルドはブラウンがイギリス軍の物資を掠奪したことを告発。ブラウンがこの汚名を削ごうと軍法会議の招集を要求しますが、アーノルドはこれを拒否。結局ブラウンは審問されることはありませんでしたが、2人の犬猿の仲は以降も続くことに。

カナダから撤退するも揉める

1776年5月、イギリスの艦隊がケベックに到着し大陸軍はケベックから撤退。アーノルドはモントリオールで指揮を執りますが、イギリスとインディアンの軍の攻勢の前にモントリオールの維持も困難になり撤退を決定。イギリス軍との捕虜交換交渉や、モントリオール駐在軍の撤退準備を始めます。

しかし、以前から仲の悪かった第2カナダ連隊隊長のモーゼス・ヘイズンと物資保管を巡って衝突します。ヘイズンはアーノルドがモントリオールの商人から手配した物資を、不法に掠奪したものだと信じ、保管の命令を拒否してしまう。結局せっかく手配した物資は野ざらしになって台無しに

アーノルドはこれに激怒し、ヘイズンを職務怠慢で逮捕するように命じますが、ヘイズンは逆に「アーノルドが問題の荷物を掠奪し、物資輸送の担当者が損壊した。私の問題ではない」と反論。結果、軍法会議ではヘイズンは無罪、アーノルドに逮捕状が出てしまった。

しかしアーノルドの能力と彼の指揮下の部隊が今後の戦争を継続する上で必要であるとして、逮捕状は取り消されます。しかし、アーノルド自身はこのことで同胞に対する信頼を失い、またアーノルドを嫌悪していた人たちは、やっぱりコイツは信用がならないとの意識を固いものにしました。

11月にはアーノルドと衝突したブラウンとヘイズンが連名でアーノルドに関する告発書を提出。「アーノルドはケベックの軍隊に意図的に天然痘を流行らそうとした」「敵軍への逃亡を図ろうとした反逆行為」等が記されており、結局この告発に対する審問は行われませんでしたが、後にブラウンは「アーノルドの神は金であり、それが得られるならあいつは国だって平気で売るだろう」などと書いたチラシをバラまいたりしています。

4. サラトガ方面作戦

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大陸会議、アーノルドの出世を見送る

1776年12月、イギリス軍のクリントン将軍率いる大舞台がロードアイランド植民地のニューポートを占領。

ワシントンから指示を受けたアーノルドは、ロードアイランドを防衛する民兵隊の立ち上げに奔走しますが苦戦し、イギリス軍相手に不利な戦いを強いられます。1777年2月にワシントンと大陸会議と今後のロードアイランドについて打ち合わせるためにフィラデルフィアに向かっていたアーノルドは、イギリス軍がノーウォークに上陸し物資倉庫を破壊して回ったことを知り、急遽地元の志願兵600を率いてイギリス軍に反撃しました。

5月にフィラデルフィアに到着したアーノルドは、当時のフィラデルフィアで位階が最上位で、先述のような活躍があるのに関わらず、大陸会議は新しく昇進したトマス・ミフリン少将をフィラデルフィアの司令官に任じます。大陸会議内の反アーノルド派に妥協した形でした。

サラトガ方面作戦で活躍するもまた揉める

ワシントンは代わりにアーノルドを北方方面軍の任務に就くように指示。

1777年、ニューヨーク北部オールバニー近辺でサラトガ方面作戦が開始され、ここでアーノルドは獅子奮迅の活躍を見せ、大陸軍の勝利とイギリス軍のジョン・バーゴイン将軍の降伏をもたらしました。

1778年6月、イギリス軍はフィラデルフィアから撤退し、アーノルドは町の軍事指揮官に就きます。

アーノルドは大陸会議とペンシルベニア政府を取り持つべく、様々な豪華なパーティーを開いたり、奢侈な品物をあつらえたりしますが、それには多大なカネが必要。

アーノルドはそれをフィラデルフィア軍事指揮官という自分の立場を利用し、物資の取引で不正なカネを蓄え費用に充てていました

反アーノルドの者たちはこの事実を公にさらし、「アーノルドが職権を乱用し自分の懐に多額のカネを不正に取得している」と糾弾。

アーノルドは「自分は国のために尽くしているのに、なぜこんな仕打ちを受けるのか」と激怒し、汚名を晴らそうと軍法会議を要求します。

ワシントンから非難される

1779年12月に開かれた軍法会議では、初期の頃からのアーノルドの行動や論争についてはほぼ無罪とされました。

しかし、その1月後ワシントンはアーノルドへの非難書を出版しました。

総司令官はアーノルド少将としてこの国のために傑出した働きをした士官に称賛の言葉を送る機会に接して喜ばしい限りである。しかし、現時点で義務感と虚心坦懐なところでは、(告発された行動での)彼の行いは軽率で不適切だったと考えると宣言せざるを得ない。

加えてアーノルドはケベック侵攻の間に発生した出費の文書を用意できず(撤退時に消失していた)、大陸会議に借金が1000ポンドあることにされてしまいます。

激怒したアーノルドはフィラデルフィア軍事指揮官を辞任してしまいました。

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 5. イギリス軍との内通

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 妻を使ってイギリス軍とコンタクトを取る

1779年、アーノルドはフィラデルフィアの判事の娘ペギー・シッペンと結婚。

実はシッペンは過去にイギリス軍スパイ主任のジョン・アンドレ少将と交際していたことがありました。当時の植民地の女性たちは、商人を通じてイギリス軍にいる愛人とコンタクトを取っていました。このことを知ったアーノルドは、そのネットワークを駆使して、妻の元カレであるアンドレ少将とコンタクトを取り、イギリス軍への寝返りについて画策し始めます。

 ウェストポイント引き渡し提案

1780年、アーノルドはウェストポイント砦の指揮官に就任します。

その前後から、アーノルドは妻シッペンを介してアンドレ少将、そして上官のクリントン将軍に提案をしていました。

ウェストポイント砦をイギリス軍に引き渡す代わりに報酬をいただきたい。

クリントン将軍はこれに飛びつき、20,000ポンドの報酬を渡すことを条件に合意。

アーノルドは寝返り計画の合意が済むと、意図的にウェストポイント砦の弱体化に務めます。兵を別の前線に派遣したり、物資の補給を遅らせたり、砦の整備を怠ったり等々。

6. バレてしまった寝返り計画

1780年9月、アーノルドは今後の具体的な作戦を話すために、ハドソン川西岸にある家(二重スパイ、ジョシュア・ヘット・スミスの所有)でアンドレ少将と会見します。アンドレは艦船ベンチュアで戻る予定でしたが、リビングストン大佐がベンチュアを攻撃したため、陸路でニューヨークに戻らざるを得なくなりました。アーノルドは通交証を書き、不用意にもウェストポイントに関する作戦の書類をアンドレに渡して別れます。

そしてなんと、アンドレがタリータウン近くでアメリカ軍に捕まってしまった

このことを知ったアーノルドは急いでイギリス艦船ベンチュアに飛びのり、ニューヨークに脱出しました。

アーノルドの裏切りを知ったワシントンは特段驚きもせず、淡々と「どのような裏切り行為だったのか」を報告するように指示したらしいです。

なお、アンドレはスパイの容疑で処刑されました。

 

7. イギリスに寝返った後のアーノルド

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結局ウェストポイント砦の引き渡しが未遂に終わったため、アーノルドは合意していたカネを受け取れませんでした。その腹いせか、イギリス軍の准将となったアーノルドはバージニア植民地各地で掠奪を繰り返し、またアメリカ軍に対し過剰とも思えるような攻撃的な作戦をクリントン将軍に何度も提案しました。

家族を連れ立ってイングランドに移住したアーノルドは、厭戦気分が高まっている議会で対アメリカ戦の継続を主張しますが、反戦派のホイッグ党が多数派になり、アーノルドの目論みは外れてしまいました。

アーノルドはその後、ロンドンを拠点に西インド諸島との貿易業を営みますが、60歳で死亡。

アメリカではアーノルドの裏切りは「最悪の売国行為」とみなされ、悪魔と同じくしたような風刺画が描かれ、独立戦争におけるアーノルドの貢献も、ほとんどが無視されるか意図的に矮小化されているのだそうです。

 

バックナンバー

第1回:秦檜(中国)

第2回:呉三桂(中国)

第3回:フィリップ・ペタン(フランス)

第4回:李完用(朝鮮半島)

第5回:汪兆銘(中国)

第6回:朴泳孝(朝鮮半島)

第7回:ヴィドクン・クヴィスリング(ノルウェー)

第8回:マリンチェ(メキシコ)

第9回:洪大純・洪福源・洪茶丘(朝鮮半島)

第10回:ダーマット・マクマロー(アイルランド)

第11回:東京ローズ(アメリカ)

第12回:ミール・ジャアファル(インド)

第13回:ベネディクト・アーノルド(アメリカ)

第14回:ジャン=バティスト・ベルナドット(フランス)

第15回:オルドリッチ・エイムズ(アメリカ)

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