第7回:ヴィドクン・クヴィスリング(1887 - 1945)
20世紀前半のノルウェー の政治家。通称「ノルウェーのヒトラー」。
ファシスト運動を率い、ナチス・ドイツを国内に手引きした功績で、ドイツ支配下のノルウェーで実権を握った人物。
ノルウェーでは「お前はクヴィスリングだ!」は「お前は裏切り者だ!」という意味になるほど、売国奴の代名詞となっています。
ロシア留学、共産主義に傾倒
1887年に、ノルウェー南部のFyresdal生まれ。父は宣教師。
幼い頃は「シャイで静かだけど協調性があって、時々ニカッと笑う」少年。
成績は優秀で、ノルウェー 陸軍学校にトップの成績で入学します。
第一次大戦中にまっただ中にロシアに留学し、現地で結婚までしています。
パリ留学を経てノルウェーに戻ったクヴィスリングは、共産主義運動に傾倒してゆきます。
左派政治家として活躍、人気者に
1929年に政治家デビューし、ソヴィエト風の社会改革案を提示。左派政党に所属するも離脱し、ノルウェー中央党に入党。防衛大臣に就任します。
その後、財務大臣フレデリック・フリッツの社会福祉案に反発し内閣解散に追い込みます。クヴィスリングはこのことで国民のスターになり、「マン・オブ・ザ・イヤー」にも選ばれます。
ノルウェーのヒトラー
1933年、クヴィスリングは自らが党首を務める、右派政党「国民連合」を結成。選挙に臨みますが2.5%の得票率しか獲得できずに失望します。
何とか国民連合を強くすべく、国家社会主義路線を明確にして奮闘しますが単独では如何ともしがたく、党はどんどん勢いを失っていきます。
そこでクヴィスリングは1934年の「国際ファシスト会議」に出席。
イタリアやドイツのファシスト党に自らをアピールするとともに、自身も彼らに大きな影響を受けます。
帰国後にファシズムの思想を打ち出して選挙に臨んだことで「ノルウェーのヒトラー」として大きな注目を浴びることに。しかし結果は10議席しか獲得できず、国民連合は分裂してしまいます。
ドイツの軍事行動に便乗して成り上がる
1939年クヴィスリングは親ナチスドイツの動きを活発にします。
ヒトラーに対してノルウェーのユダヤ人問題を訴えたり、
「赤軍やユダヤの脅威からヨーロッパを守る献身的な活動へのお礼」と称してドイツの指導層におべっかをしたり、
「ノルウェーはドイツとともに歩む」と宣言したり、
しきりに「ごますり」を繰り返しています。
その頃にはドイツは近隣諸国への軍事的威圧を強めており、ドイツと太いパイプを持つクヴィスリングは必然的に、ノルウェーの政界で重要人物と見なされるようになっていきました。
ドイツ軍のノルウェー占領に手を貸し、戦後処刑
1939年12月14日、クヴィスリングはヒトラーと面会しています。
その席上、ヒトラーは「イギリス軍が近々ノルウェーに上陸するだろうから、先んじてドイツがノルウェーに上陸する」と通告しドイツ軍のノルウェー占領に対して協力を求めています。
クヴィスリングはこの時、自分の病気を理由に穏便に断ろうとしたようなのですが、最期は渋々ノルウェーの防御施設や軍の配置などをナチス幹部に渡しています。
1940年4月6日、ドイツ軍はノルウェーに侵攻を開始。約2ヶ月半でノルウェー軍およびイギリス軍とフランス軍は一掃されます。
その功績が認められ、ヒトラーはクヴィスリングにノルウェーの政権を委任。
クヴィスリング支配下のノルウェーでは、クヴィスリングへの個人崇拝が推進されるとともに、ユダヤ人の財産没収や強制収容所への連行が行われます。
一方でドイツへのレジスタンス運動も激しく起こりました。
クヴィスリングは国内を秘密警察や軍隊で締め付け、またドイツへの軍事・経済的協力に奔走します。
しかし最終的には、1945年のドイツの降伏によって連合軍によって逮捕され、銃殺刑にされました。
なぜ売国奴と呼ばれるのか
ざっと眺めてみても、売国奴の典型のような人ですね。
自分の政治キャリアのために、外国に媚びを売りまくって最期は国まで売り渡す。
「クヴィスリング=裏切り者」という代名詞ができるのは、こりゃしょうがないですね。
- 自らの政治キャリアのために国を売った
- ノルウェー人の意思を無視し、ひたすらドイツに協力した