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大日本帝国の朝鮮人移民と移民政策

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 100年前に既に起きていた日本の移民問題

日本では移民問題はかなりセンシティブな話題です。特定のイデオロギーとつながりやすく、冷静で建設的な議論にならず、皆意図的にこの話題を避けている節もあります。

今後仮に日本が移民を受け入れるにしても、

「日本の社会に積極的に馴染む努力をし、日本語が話せ、専門的な技術を有し、生活態度は真面目で勤勉な人」

であればみんな納得すると思いますが、そんな素晴らしい人達がわざわざ日本を選んでくれる道理はありません。

さて、日本は1910年の韓国併合後、朝鮮半島出身の移民を大量に受け入れることになります。日本人と朝鮮人移民のコンフリクトがあちこちで発生し、苦慮した日本政府は「朝鮮人移民の日本流入を抑制し、朝鮮・満州に向かわせる」ことによって事態の打開を図ろうとしました。

 

1. 日本本土を目指す朝鮮人

韓国で言うところの「日帝強占期」の間、多くの人々が朝鮮半島から日本帝国の支配地域へ移住を行いました。

1930年の時点で東アジア各地域に居住した朝鮮人の人口は以下の通り。

日本本土:42万人

満州  :60万人

ソ連  :19万人

その他、中国に1万人、アメリカに1万人ということで、当時の朝鮮の人口が約2000万人なので、約6%の人口が半島外に移住した計算になります。現在の日本で例えたら、埼玉県民(約720万人)が全員移住をしたようなレベル感です。

 

なぜこのように多くの朝鮮人が移民をしたかと言うと、理由は以下が考えられます。

  • 植民地化と中央集権システムの導入で旧来の方法で生きる農民が困窮したこと
  • 日本資本主義の発展で安価で高品質な労働力への需要が高まったこと
  • 日本と朝鮮半島を結ぶインフラが整備され移動が容易になったこと
  • 日本語教育が普及し本土で暮らすことへの心理的障壁が下がったこと

では、貧しい農民が働き口を求めて日本に殺到したのかというとそうではなく、農民の中でもある程度カネを持った中〜上層の農民が日本に渡る傾向にありました。

鉄道や客船により日本行きが容易になったとはいえ、日本に行くには高額な運賃が必要だったので、「ある程度教育を受け、カネもあり、日本で一山当てようという気概を持つ者」が日本に渡ったわけです。

農民の中でも一層貧しい者やヤル気のない者は、困窮化する農村で貧しさに耐えながら生きていくしかないのでした。

 

ただし、「ジャパニーズ・ドリーム」を抱いてやってきた者全員が成功できるわけもなく、就職難・経済困窮・言葉の壁による社会不適応など、失敗して故郷に戻る者のほうが多く、特に1930年代の世界恐慌の時は帰還者が圧倒的に多かったのです。

それでも努力して生活基盤を日本に作った朝鮮人は、正月や先祖供養のために故郷に帰ったり、親兄弟を日本に呼び寄せたり、日本から故郷に送金したり、故郷から日本に懐かしい味を送ってもらったりと、様々な形でヒト・モノ・カネを流通させていきました。

 

2. 「朝鮮人を管理せよ」

日本政府の朝鮮人の戸籍に関する基本方針

韓国併合により朝鮮人は「日本帝国臣民」になったわけで、戸籍も自由に日本に移動できて然るべきなのですが、最後まで政府は朝鮮人の日本本土への戸籍の移動を認めませんでした。政府内には「民族ノ混淆、同化乃至純粋保持当ニ関スル根本問題」があるとして反対意見が根強く、建前は平等を訴えておきながら、最後まで日本人と朝鮮人を区別する政策を採りました。

また日本帝国臣民となった朝鮮人は、「日本国籍から離脱できない」とされました。仮に朝鮮人の日本国籍離脱を認めると「不逞ノ企画ヲ起シ、内外総呼応シテ治安ヲ害スル」者を取り締まれなくなるからというのがその理由。特に三一独立運動や満州建設以降、治安維持や保護・取締りを名目に、朝鮮人を故郷の戸籍に固定し戸籍の離脱を禁じることで、政府は朝鮮人を強い統制下に置くことに成功しました。

 

日本本土への渡航者規制

日本が近代化して以来、十万単位の多民族の来訪と定着は、日本社会に大きなインパクトを与え、朝鮮人に対する偏見や差別意識から様々な形でコンフリクトを起こすことになりました。関東大震災の「朝鮮人虐殺」は、震災という極限状態で日常の不安や不満が最も残酷な形で爆発した事件でした。

三一独立運動以降、「暴動を起こす朝鮮人を本土に入れてはならぬ」という治安維持の観点から、それまで比較的自由だった朝鮮人の日本への渡航は「警察が発行する証明」が必要になりました。一方で朝鮮国内に入るには「在外帝国公館の証明」が必要になりました。日本本土と朝鮮内の運動家のネットワークを遮断することを狙ったわけです。また証明制度にすることで日本にやってくる朝鮮人の数を少なくし、質を上げることで、社会的軋轢をなるべく少なくしようという意図もありました。

 

密航の増加

渡航の証明制度は、当たり前ですが当の朝鮮人には大変不評でした。

故郷では適当な仕事がないため仕事を求めて日本にやってくる者が一定数おり、そのような「とりあえず日本行けば何とかなるだろ」的意識の労働者はブローカーの斡旋で日本海を渡り日本本土に密航しました。警察は摘発を強化し、年間で2,000〜5,000名ほどの密航者が摘発され本土に送還されました。

そもそも「日本帝国臣民」であるにも関わらず、日本本土への密航で捕まるという事自体がおかしいのですが…。

 

朝鮮の工業化の進展

1934年頃から帝国全体で朝鮮人移民に対応する方針の策定が始まり、

  •  日本本土に渡る朝鮮人を一層減らすこと
  • 朝鮮内に朝鮮人を安住させられる環境を作ること
  • 満州や朝鮮北部に朝鮮人を移住させること
  •  日本本土の朝鮮人を日本に融和させること

の4項目がまとまり、これに伴い朝鮮内で半島出身者の失業者を吸収することと、さらなる発展が見込める満州や朝鮮北部へ労働力を振り分けることが企画されました。

1930年代に朝鮮半島は工業化が急速に進展するのですが、それは朝鮮人の日本本土への流入を防ぐこと、ひいては治安維持や社会秩序維持がその背景にあったのでした。

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3. 満州へ移住する朝鮮人

 満州、現在の中国東北部への朝鮮人の移住は、古くは19世紀半ばにロシアが沿海州を手にしてから始まり、豆満江以北の間島地方の開墾を清朝政府が許可してからさらに進展しました。

満州に移住した人の多くは貧しい農民で、生活苦で故郷を棄てて新天地に一家をあげて移住するケースが大半でした。

 

英国人旅行家イザベラ・バードの紀行文には、ロシア領で真面目に働き豊かな生活をする朝鮮人農民の姿が描かれています

reki.hatenablog.com

一方で韓国併合後は、朝鮮人の抗日武装勢力が満州に逃げて本拠地にし抵抗を続けるケースも見られました。

満州帝国成立後、日本政府は満州への朝鮮人の移住を促進しようとしますが、満州国を支配する関東軍は抗日武装闘争の激化を懸念し朝鮮人の大量移住に反対しました。しかし結局政府との調整が図られ、1937年以降に毎年1万戸とする取り決めがなされ、1941年までに約2万6000戸、10万7800人が満州に入植しました。

 

中国人と朝鮮人の新たな緊張関係

満州への朝鮮人の大量の移住が行われたことは、中国人と朝鮮人の間に新たな緊張関係をもたらしました。

日本は朝鮮人を保護する立場にあったので、朝鮮人の利益を優先し中国の主権を侵害するケースがあり、一般の中国人の目から見たら朝鮮人は日本の手先になって自分たちの生活を脅かす存在に見え警戒感を強めたのでした。

例えば、1931年に満州の長春近郊の万宝山で、中国人地主から借りた土地に水路を引こうとした朝鮮人農民と中国人農民との間に小競り合いが起き、中国側の警察と日本側の警察が両方出動しにらみ合いする事件が勃発(万宝山事件)。

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このニュースが伝わると、朝鮮人の間で反中感情が高まり、朝鮮と日本で朝鮮人による中国人襲撃事件が発生。109名が死亡し160名が負傷したのです。

 

一方で日本の侵略に抵抗するという点で中国人と朝鮮人の協調が図られたケースも多く、例えば中国人民解放軍の東北部隊、東北人民革命軍の幹部には後の北朝鮮のトップ金日成が就いていますし、大韓民国臨時政府は上海に設置されました。

しかし1936年以降、関東軍のゲリラ取締りが厳しくなり、朝鮮人の抗日ゲリラ運動は壊滅状態になり、金日成もソ連に越境し、戦後に朝鮮に帰還しています。

 

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まとめ

戦前の日本の朝鮮人移民政策をひとことでまとめると、

「保護し、管理し、取り締る」

という点に尽きます。

朝鮮人の活動家のネットワークは、アメリカ本土、ハワイ、中国、ロシア、満州と広範囲に渡って存在し、日本・朝鮮在住の活動家と連携を図ったのですが、日本はそのようなネットワークの破壊を目指しました。戸籍の移動・離脱は認められず、出入国も厳密に管理され、海外の活動家との連携は各個分断され、独立のための大きな力を蓄えることができなかったのでした。

一方で日本人と朝鮮人の間の社会的軋轢は大きく、日本政府は朝鮮人に「日本への同化」を迫り、同化できない者は朝鮮に帰還するように迫ったのでした。

 

さて今後の日本政府の移民に対する基本政策として「高度人材」「技能者、技術者を中心に」「例えば、年間20万人」というザックリした方針が打ち出されています。

 内閣府「目指すべき日本の未来の姿について」

20万人という数字が多すぎるとか失業者が増えるとか議論が盛んですが、そもそもの議論が「困っているから移民を受け入れよう」というところから出発してるのが変だと思うんです。外国人からすると「そんな困ってる国なんか行きたくねーよ」って思います。ブラック企業の大量雇用みたいなもんです。

必要な法制度も、企業の受け入れ体制も、国民の意識のレベルも、全然整ってない。

このままだと「社会的軋轢が大きく、外国人移民が良からぬことをせぬように徹底的に監視すべきだ」と戦前と変わらない議論が繰り返されるんじゃないでしょうか。

正直、もう遅きに失していると思います。

 

 

参考サイト

岩波講座 19 移動と移民-地域を結ぶダイナミズム 「朝鮮人の国外移住と日本帝国」水野直樹

岩波講座 世界歴史〈19〉移動と移民―地域を結ぶダイナミズム

岩波講座 世界歴史〈19〉移動と移民―地域を結ぶダイナミズム