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【抵抗者】豚商人・カラジョルジェのセルビア独立運動

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セルビア人のリーダーになった豚商人

カラジョルジェ・ペトロヴィッチ(1768 - 1814)は、南スラブ系民族のセルビア人がオスマン帝国からの自治を求めて武力蜂起した「第一次セルビア蜂起」の指導者。

貧困家庭から身を起こし、オーストリアに豚を卸す商人として成功を治めます。

その後反オスマン帝国運動に身を投じ、スラブの大国・ロシアの支援を取り付け、一時的には優位に戦いを進めました。

しかし最後は物量にまさるオスマン軍に敗れて亡命した後、同じセルビア人に暗殺されてしまいます。

セルビアの英雄・カラジョルジェの抵抗の生涯です。

 

1. オスマン・トルコのバルカン統治

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 地方軍団スィパーヒーによる支配

オスマン帝国は1389年のコソボの戦いでセルビア公国とボスニア王国を打ち破り、

バルカン半島の多くはオスマン帝国の軍門に降ることになります。

オスマン帝国は極めて中央集権的な国家体系を築き上げましたが、

一方で地方の被支配民族においては、既存の社会機構を温存し宗教的にも一定の自治を認める緩やかな統治を行いました。

地方の統治機構の背骨を成したのは、スィパーヒーと呼ばれる軍人。

スルタンと直接主従関係を結んだ地方の軍人で、戦役があるとスルタンの旗の元に集まり戦いに従事。武功を上げればより大きな軍事封土を得られる、というものでした。

スィパーヒーは自らの軍事封土に対する領有権を保有していましたが、バルカンの農民の生活拠点の村々にまでは干渉しなかったため、生活基盤や文化は損なわれずに維持されます。

拡大政策の行き詰まり

スィパーヒーによる地方支配は、軍事による帝国の拡大が続かないと成り立たないシステムでした。

1529年に第一次ウィーン包囲が失敗に終わり帝国の膨張が弛緩すると、

富を軍事に転換し、それによりさらに富を手に入れる、というサイクルが崩壊。

スィパーヒー層は没落し、軍事力を背景に恐怖の力で地方を治めることが困難になってきました。

そこで台頭したのが地元の名士(アーヤーン層)。昔から続く土着の豪族だった彼らは建前上の支配者であるスィパーヒーと結びつき、世襲の土地所有体系を作り上げて農民に対する二重支配を行いました

この支配構造の中で農民たちは大土地所有者所属の小作人の立場に転落。

生活苦から「従来のスィパーヒーによる統治の再来」をスルタンに求める運動が盛んになっていきました。

 

2. オスマン支配下のセルビア

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オスマン帝国は地方を支配するにあたり、ミッレト制と呼ばれる宗教共同体を形成し、それぞれ内部の自治を認めていました。

例えば、正教徒、アルメニア教徒、ユダヤ教徒、カトリック教徒など、それぞれ1つのミッレトが形成され、住民はいずれかのミッレトに属していました。

これによりそれまで独立していたいくつかの正教会が、イスタンブールに総主教座がある「東方正教会」として統一されることになり、バルカンの正教徒はギリシア人聖職者やギリシア語を介して正教徒としてのアイデンティティを保有していました。

ところが、16世紀半ばに帝国の大宰相に上り詰めたセルビア人ソコロヴィチが、セルビア正教会を別個のミッレトとして独立させ統治をしました。

そのためセルビア人は宗教上の自治を手に入れ、セルビア人としてのアイデンティティを保有することになりました。

文化的にも、コソボの戦いで活躍したクラリヴィチ・マルコにまつわる英雄叙事詩が語り継がれ、セルビア人意識を受け継ぐ役割を果たしました。

加えてセルビアは帝国の辺境にあったため、経済的に隣のハプスブルグ帝国の影響を大きく受けることになります。

 

3. セルビア名物・ドングリを食わせた豚

18世紀後半の段階でも、セルビアのベオグラード地区は森林地帯であり農業は未発達でした。

その代わり発達したのが牧畜。

森ではドングリが豊富に採れたため、豚の牧畜にはもってこいだったのです。

セルビア商人たちは大規模な豚の牧畜に乗り出し、それを隣国のハプスブルグ帝国に輸出。莫大な利益をあげます。 

セルビア人豚商人と結びついたのが、17世紀から18世紀にかけて帝国から逃げ出してオーストリアやロシアなどに逃げ出したバルカン商人

彼らは帝国外に商館をかまえつつ、バルカンの農作物や特産品の輸入に従事していました。この交易ネットワークにセルビアの豚商人も乗り、経済的にハプスブルグ帝国との結びつきを強めていきました。

これらバルカン商人は最先端の西欧の思想を受けて、バルカンの土着勢力と結びつき、民族解放の動きを進めていくことになります。

 

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4.  豚商人カラジョルジェ

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ひょんなことからオーストリアに逃亡

本記事の主人公であるカラジョルジェは、1768年セルビア中部の町ヴィシェバスの貧しい農家の生まれ。

幼い頃から利発だったらしく、豚の牧畜で家計を助け一家は貧困から抜け出します。

ところがある日、支配者のトルコ人憲兵とケンカになり彼を殺害してしまう。

カラジョルジェは国境の川を渡ってオーストリアに逃亡。

家族が殺されるのを恐れたカラジョルジェは、オーストリアで対オスマン義勇軍に参加し、オーストリアによるセルビアの解放を目指すようになります。

カラジョルジェ以外にもセルビア人は多数オーストリアに亡命してきており、彼らは1788年〜1789年に行われたオーストリア=トルコ戦争に参画。

カラジョルジェもベオグラード攻略戦や西セルビア・南セルビア戦線で活躍し、功績が認められメダルを授与されるほどでした。

自治拡大と反動体制

戦後結ばれたシストヴァ条約でオーストリアは、反オスマンで戦ったセルビア人を罪に問わないことを認めさせたため、

カラジョルジェは無事に帰郷し家族との再開を果たすことが出来ました。

スルタン・セリム3世は、帝国にセルビアを繋ぎ止めるためにセルビアの大幅な自治の拡大と、セルビアからのイェニチェリ軍団の追放を決定。

自治が拡大したセルビアでは、ベオグラードのムスタファ・パシャが領内統制のために独自にセルビア人民兵団を組織するようになりました。

しかしスルタンはこの民兵団がオーストリアなどの外国と結びつくのを恐れ、一度は追放したイェニチェリ(ダヒーヤ)を再度招集してセルビアを掌握させ、抵抗する者をことごとく抹殺させました。セルビアの貴族や名士約150名が粛清されました。

「反動」体制の復活を受け、カラジョルジェを始めとする粛清から免れたセルビアの貴族や名士たちは、反動前の拡大自治体制の復活を求めて支配者のイェニチェリ(ダヒーヤ)追放の暴動を決行することで一致。

オーストリア=トルコ戦争で従軍の経験の豊富なカラジョルジェが、蜂起のリーダーとして選出されました。

蜂起にあたっては帝国の外にいるバルカン商人が大きな役割を果たし、オーストリアやロシアから最新式の武器を調達し次々とセルビアに運び込みました。

 

5.  第一次セルビア蜂起勃発

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1804年5月、カラジョルジェはセルビアの各地に存在した自治組織に「一斉蜂起」を呼びかけました。同年末にはほぼ全土に暴動が拡大。

イエニチェリ(ダヒーヤ)を各地で破りつつ、蜂起のリーダーであったセルビア人名士たちは議会を招集し統治会議と呼ばれる執行機関を形成。

1805年3月には、カラジョルジェはセルビアの指導者として認知されるようになっていきました。

オスマン帝国は暴動の鎮圧のために、数万のトルコ軍を派遣しますが、

1805年8月カラジョルジェ率いるセルビア軍は、イヴァンコバスの戦いでオスマン軍相手に決定的勝利をつかみとります。

これをきっかけに、これまでイェニチェリ(ダヒーヤ)の追放と自治の復活が目的だった反乱は、反オスマン帝国とセルビアの独立を求める運動に発展

この時期はナポレオン戦争の時期と重なり、また1806年に露土戦争が始まると蜂起軍はロシアの支援を期待。

スルタンは当初の要求だった自治の許可を与えて妥協しようとしますが、蜂起軍はこれを拒否し、さらに闘争を拡大させていきました。

 

6. ロシアの撤退、抵抗運動鎮圧へ

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暴動の拡大と鎮圧

1806年以降も、蜂起軍はミサル(Mišar)、デリグラッド(Deligrad)、ベオグラード、シャバス(Šabac)、ウジツェ(Užice)のなどの戦いで勝利。

ロシアの支援を受けることに成功した蜂起軍は、各地で破竹の勢いを見せました。

しかし、1807年にはロシアはナポレオンとティルジットの和約を結び、オスマン帝国とも休戦協定を締結。セルビアへの支援を打ち切ってしまいました

補給が滞りがちになりながらもセルビア軍は戦い続けますが、1809年のシェガルの戦いで敗北し、同年にはベオグラードが陥落。

その後も着実にセルビアの諸都市を制圧していき、1813年には蜂起軍は完全に鎮圧されてしまいました。

カラジョルジェはルーマニアのベッサラビアに逃げ、その後ギリシャの反オスマン秘密組織フィリキ・エテリアに匿われました。

 

6. 第二次セルビア蜂起

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暴動鎮圧後の2年後の1815年。

やはり豚商人出身の指導者・ミロシェ・オブレノビッチをリーダーとする第二次セルビア蜂起が勃発しました。

カラジョルジェは亡命先のギリシャから秘密裏にセルビアに渡航し、蜂起に加わろうとします。

しかしその際にオブレノビッチの刺客によって暗殺されてしまいました

運動の目指す方向性の違いか、指導者の座を巡った権力争いが原因かは不明です。

ただ、第二次セルビア蜂起を率いたオブレノビッチはカラジョルジェよりは柔軟な男だったようです。

当時すでにナポレオン戦争は終わっており、ロシアは再びバルカン半島へ睨みを利かせることができたため、オスマン帝国はセルビアに強固な手段を講じることができませんでした。

そのような状況を活かしつつ、オブレノビッチは独立ではなく「自治の獲得」という現実的な政策をオスマン帝国に要求。

これが認められ、セルビアは一定の自治権を獲得し、蜂起運動は沈静化していきました。 

なお、抵抗運動のリーダー・カラジョルジェとオブレノビッチはその後、

近代セルビア王朝の「カラジョルジェヴィチ王家」と「オブレノヴィチ王家」の始祖となったのでした。

 

 

「抵抗者」バックナンバー

第1回:ジャラールッディーン(イラン)

第2回:ペラーヨ(スペイン)

第3回:ヴラド3世(ルーマニア)

第4回:チュン姉妹(ベトナム)

第5回:ラウタロ(チリ)

第6回:テカムセ(アメリカ)

第7回:スカンデルベグ(アルバニア)

第8回:シモン・キンバングー(コンゴ)

第9回:ティプー・スルターン(インド)

第10回:アブドゥッラー・オジャラン(トルコ)

第11回:カラジョルジェ・ペトロヴィッチ(セルビア)

 

参考:http://en.wikipedia.org/wiki/Kara%C4%91or%C4%91e(2015/05/06時点)

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