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弱小国を大国に育てた「中興の祖」

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危機にあった国を建て直した国王

 偉大なる創業者が立ち上げた国家や組織は、創業時の熱狂が醒めてしばらくすると、内部にはらむ矛盾やシステム的な欠陥が表面化し、集団としての力が弱まっていきます。

 そのまま統率が取れずに内部対立が深まって空中分解してしまう集団もありますが、傑物が出現し内政の立て直しを図り、さらなる高い次元に集団を導いていく場合もあります。今回のテーマは後者です。

 弱小国を大国に育てあげた「中興の祖」をピックアップします。

 

  1. アスパルフ(第一次ブルガリア帝国)640-701

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Photo by kosigrim

 現在のブルガリア国家の礎を築いた国王

5世紀末にバルカン半島に侵入したチュルク系の遊牧民族ブルガール族は、長年遊牧民族アヴァールの支配下にありましたが、カール大帝の遠征によってアヴァールが弱体化した後に独立。黒海北岸に部族連合国家「大ブルガリア」を建国しました。

しかしハザール・カガン国によって大ブルガリアは征服され、残党が現在のロシアにあるヴォルガ川中流域と、現在のブルガリアであるバルカン半島南東部に逃げました。

初代君主クブラトの三男アスパルフは、ドナウ河口付近に逃げた一人です。

彼はスラブ人を従えてたびたびビザンツ帝国に軍事侵入した挙句、680年にコンスタンティヌス4世率いるブルガール征伐軍を撃破。アスパルフの軍はビザンツ軍を散々に打ち破って南下し、黒海沿岸の港町ヴァルナにまで進出しました。

コンスタンティノープル近辺にまでブルガールが進出することを恐れたビザンツ帝国は、681年にブルガールと領土割譲と貢納金の支払いを約束する和平条約を結びました。アスパルフはドナウ・ブルガール・カン国(ブルガリア)を建国。現在のブルガリア、ルーマニア東部の広大な領土を支配下に置き、現在のブルガリアの礎となる領土を獲得しました。

 

2. サンチョ三世(ナバラ王国)1134-1158

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イベリア半島におけるナバラ王国の覇権を築いた大王

ナバラ王国はピレネー山脈西部にあり、創設者のバスク人貴族イニゴ・アリスタがアル・アンダルスのムスリム貴族と結んで成立した王国です。そういった経緯もあり、コルドバ・スルタン国(後ウマイヤ朝)と連携しますが、後に同じキリスト教国のレオン王国と連携し、勢力圏を拡大しました。

ナバラ王国が拡大したのはサンチョ3世の時代です。

コルドバ・スルタン国が崩壊し、ムスリム諸侯が各地に小王国を林立する「第一次タイーファ時代」になると、サンチョ3世は王族の娘を周辺の国・伯の王に嫁がせる「婚姻政策」により、影響力を一挙に拡大しました。

1029年、サンチョ3世は妻ムニアの弟で甥でもあるカスティーリャ伯ガルシア・サンチェスの死後、妻を通じてカスティーリャ伯の領有権を取得。その後、義理の甥であるレオン国王ベルムード3世が内乱で危機に陥った際に軍事干渉し、ベルムード3世を追放し、自らレオン国王に就きました。

バルセロナ伯爵ベレンゲル・ラモン1世も説得して臣下にさせ、ガスコーニュ伯もサンチョ3世に統治権を与え、その後彼はレオン東部でカスティーリャの支配権を主張し、レオンの首都を占領して戴冠。皇帝の称号を得ました。

しかしサンチョ3世は生前に自らの帝国を分割し、息子に分け与えました。長男ガルシアにはナバラ王国、ゴンサロは、ソブラルベとリバゴルサ、フェルディナンドはカスティーリャ、庶子のラミーロはアラゴン。

後にフェルディナンドは伯領を王国として独立させ、レオン王国の継承権を得て、1037年にカスティーリャ=レオン王国を成立させました。

ラミーロも1035年にアラゴンを王国として独立させ、1076年にはナバラ王国を併合し拡大しました。

カスティーリャ=レオンとアラゴンの二カ国はレコンキスタの原動力となっていきます。

 

3. カジミェシュ3世ヴィエルキ(ポーランド)1310-1370

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ポーランドを回復し後の大王国の礎を築いた

カジミェシュ3世が王位に就く前ポーランドは分裂状態にありました。

ルクセンブルク家が現在のチェコであるボヘミア、現在のポーランド南西部シフィドニツァ公領、ポーランド北西部ブランデンブルク辺境伯領も獲得し、さらにドイツ騎士団の東進の脅威にもさらされていました。

1333年4月に戴冠したカジミェシユ3世は、外交で近隣諸国と平和的関係を構築することを試みました。ブランデンブルク辺境伯、ルクセンブルク公ヨハン、ドイツ騎士団と会談して和平協定を結び、ドイツ騎士団にポメラニア、クヤヴィア、ドブルジニランド、ミハウフランドを割譲する代わりにクジャウィとジエミア・ドブジンスカを獲得。一方で東方のルテニアの戦争でハールィチを支配下に収め、ポーランド王国の領土を倍増させました。

カジミェシユ3世は、軍改革でポーランド軍の規模を2倍に拡大。司法制度を改革して法典を導入したり、ポーランド最古の大学の1つであるヤギェロン大学を設立したり、ユダヤ人のポーランド移住を推進し商業を奨励するなど、国内の改革に努めました。

カジミェシユ3世は男子の跡継ぎがなかったため、死後にハンガリー国王がラヨシュ1世がポーランド王を継ぎますが、次にポーランド・ハンガリー王となった娘のヤドヴィガが同君連合を解消。その後ヤドヴィガはリトアニア王ヤゲウォと結婚し、東ヨーロッパ随一の大国として君臨するヤゲウォ朝(ヤゲロー朝)が成立します。

 

4. ムラト2世(オスマン帝国)1404-1451

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崩壊寸前のオスマン帝国を回復させた人物

オスマン帝国と言えば、コンスタンティノープルを陥落させたメフメト2世や、ウィーンを包囲したスレイマン1世などを思い浮かびますが、この栄光の時代があったのはムラト2世の尽力のおかげといっても過言ではありません。

ムラト2世が即位した1421年、オスマン帝国は1402年のアンカラの戦いでティムールに敗北して分裂状態になった状態からまだ回復していませんでした。

彼が即位した後、ビザンツ帝国はアンカラの戦いで死んだとされていた父メフメト1世の兄弟であるムスタファという男を支援し干渉をしてきました。ムラト2世は1425年に「偽ムスタファ」を撃破し、コンスタンティノープルを包囲。この時は陥落させることまではせず、ビザンツ帝国と和平条約を結び貢納金を受けることで妥協しました。

そして彼はバルカン半島に目を向け、1430年にヴェネツィアの支配下にあったギリシャ北部のサロニカ(現在のテッサロニキ)を攻略。バルカン半島の戦いでは、オスマン軍はハンガリー、セルビア、カラマン侯国に対して優位に戦いを進めますが、1441年以降、ドイツ、ポーランド、アルバニアの連合軍が侵攻してくると、オスマン軍はニシュとソフィアを失い、1444年にジャロワズの戦い(Battle of Jalowaz)で大敗。

同年、ムラト2世は12歳の息子メフメト2世のために退位するも、メフメト2世は官僚たちと対立。遠征にも失敗し国の舵取りがまだできなかったため、ムラト2世は2年後に復位。1448年に第2次コソボの戦いでハンガリー軍を破っています。

ムラト2世の死後、息子のメフメト2世が王位に就き、彼がコンスタンティノープルを陥落させ、バルカン半島の領土を拡大していきます。

 

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5. ダヤン・ハーン(北元)1464-1543

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Image by  Elder U.M.G

ウイグル勢力を駆逐しモンゴル人支配を取り戻した人物

北元は明によってモンゴル高原に追われた後、内部対立や永楽帝のモンゴル遠征、エセンによるハーン位の強奪などに諸部族の覇権争いが始まり、在位時期の短いハーンが相次いで擁立された挙句、1466年に「ハーン不在」となってしまいます。

その中でモンゴル高原で力をつけたのがウイグル出身のムスリム勢力です。強力な軍事力を率いたムスリム勢力はボルジギン家の出身者ハーン位にたて、自分たちはタイシ(太師)と称し実権を握りました。
1480年にマンドゥグリ・ハーンが死に、ムスリム勢力はフビライ家の血を引くバトゥ・モンケをハーンに擁立しました。彼が後のダヤン・ハーンです。

ダヤン・ハーンはムスリム勢力の傀儡としてハーン位に就きますが、彼は傀儡で満足するような人間ではなく、権力を自分の手にすることを目指しました。そのための賢さや行動力、野心も兼ね備えていた才気ある人物でした。

彼は反ウイグル勢力のモンゴル諸部族の助力も得て、3年後にムスリム勢力を中央から追い出すことに成功。ムスリム勢力はその後、内モンゴル周辺で略奪や襲撃を繰り返し返り咲きを狙いますが、ダヤン・ハーンは第二子のウルス・ボロトに命じイスラム勢力を追い出し、モンゴル東部・甘粛・青海地方までを勢力に治めました。

ダヤン・ハーンは諸部族の軍を上手く統制し、華北への略奪や通商をバランスよく行って明との関係を取りまとめ、富をモンゴル高原にもたらしたことで諸部族の信頼を得ました。

北元はその後、ハーン位をめぐる戦いや内乱がありつつも、1636年に後金のホンタイジに「ボグド・ハーン」の位を譲るまで存続しました。

 

6. サイイド・サイード(オマーン)1791-1856

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 海上帝国オマーンの最盛期を作った王

 オマーンはアラビア半島南東部にあり、歴史的にインド洋交易で栄えた国です。

1650年にオマーンはポルトガルとインド洋交易の覇権をめぐって争い勝利し、東アフリカに勢力を拡大してインド洋覇権を不動のものにしました。

しかしオマーン本土の政治的混乱で東アフリカのオマーン領は独立していき、19世紀前半にはかろうじてザンジバル島が勢力圏として残っているだけで、オマーン本土の交易港マスカットもかつての賑わいを失っていました。

ブーサイード朝第5代国王のサイイド・サイードは、自ら陣頭指揮をとって自立した東アフリカの豪族たちと戦って従わせ、国内統合を果たすと、首都をザンジバル島に移してストーンタウンを建設しました。サイード王はここのストーンタウンを拠点に、北はソマリア南部から南はモザンビーク北部、さらにはタンガニーカ湖に至る内陸交易の交通路を抑えました。そして各地に要塞を築いて軍事的支配を強め、関税制度を整えて諸外国と外交関係を結び、海外貿易に着手しました。

ザンジバル島ではクローブ、タンザニアでは象牙やコーヒーを生産し、ヨーロッパやアメリカ向けの貿易で巨万の富を得ました。

サイード王死後は、オマーンはザンジバルとオマーン本土に分裂し、後にイギリスの保護領となりました。

 

7. ウィルフリッド・ローリエ(カナダ)1841-1919

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 カナダ国家の方向性を決定づけた指導者

ウィルフレッド・ローリエはカナダ連邦の第7代首相。初のフランス系の首相でした。

カナダでは長年、イギリス系とフランス系の対立が続いていました。19世紀末の人口構成は、イギリス系が約60%、フランス系が約33%、先住民が約7%と推計され、フランス系は東部に、イギリス系は西部に、先住民は辺境にと固まって暮らしていました。

イギリス国王・女王を君主に戴く大英帝国の一部であるカナダは、イギリスとの強い政治的・経済的つながりを持ち、イギリス系はフランス系よりも優位な立場にありましたが、カナダはもともとフランスの北米植民地ヌーヴェル・フランスを元に成り立っていたため、先住のフランス系はイギリス系に対する反発を強め、フランス系居住地の自治を強く求めていました。

1885年には、フランス系の権利保護を訴える政治家ルイ・リエルが中心となり、イギリス系の横暴からフランス系住民を守るとして臨時政府を樹立し、武装組織をたてて抵抗運動を行う「レッドリバー蜂起」が勃発。イギリス系とフランス系の対立は一触即発状態で、国家分裂の危機を迎えていました。

そんな時代の1896年7月にウィルフリッド・ローリエは首相に就任します。

彼は将来あるべきカナダを、イギリスの政治的支配下から独立し、民族的ルーツではなく人々が「カナダ国家」への国民意識を持つ国になるべきだと考えていました。

ローリエはフランス系ながら「ヌーヴェル・フランスの征服こそが今のカナダを作ったと認めるべき」として、フランス系の強硬な反イギリス系感情を批判する一方で、イギリス系にも本国イギリスとの強いつながりも批判。地政的にカナダを考えた時に、アメリカとの関係を強化すべきという立場に立っていました。

ローリエのこの考えは当時は急進的に過ぎ、多くのイギリス系・フランス系の支持を得ることはありませんでしたが、彼は内政・外政の中で自主独立を目指しながらイギリスとの従属を保つという難しいかじ取りをしました。妥協の中でローリエは、イギリスとの政治的枠組みの中で地位を高め、カナダを政治的に独立させるというベクトルに向けていきました。

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 まとめ

危機の時代こそチャンスであると言いますが、 内部の反発や軋轢を招きつつも、次の時代を見据えて政治を行ったからこそ、次の時代の栄光があったのだろうと思います。

突然変異的な才能もあったかもしれませんが、こういう有能な人物を排出できたのは前時代の政治文化教育の蓄積があってこそで、それこそが国力というものにダイレクトに表れてくるのだろうなと思います。

 

 参考文献・サイト

「バルカン史 (世界各国史18) 」 柴 宜弘 山川出版社  

"Sancho III Garcés" Britannica

"Murad II" Britannica

"Kazimierz III Wielki (1310–1370)" dzieje.pl - Historia Polski

「岩波講座 世界歴史11 中央ユーラシアの統合」 ポスト・モンゴル時代のモンゴル 森川哲雄

「スワヒリ都市の盛衰(世界史リブレット)」  富永智津子 山川出版社 

カナダ史(新版 世界各国史)」 細川道久, 吉田建正, 木村和男 山川出版社