「イタリア軍は弱い」は本当か
ネットの文脈ではよく「イタリア軍は弱い」とからかわれ、ジョークの対象になっています。
「ヘタレなイタリア」という意味の「ヘタリア」というアニメがあるほど。
しかし、本当にイタリア軍は弱かったのか?
今回は近代(1861年のイタリア王国成立以降)の、イタリア軍の戦績を中心に、本当にイタリア軍が弱かったのかを調べてみようと思います。今回は前編です。
1. 普墺戦争(1866年)
概要
1815年、ドイツ諸王国を束ねる国家連合である「ドイツ連邦」が成立。盟主はハプスブルグ家のオーストリア帝国でした。
東の大国・プロイセン王国は参加していたものの、連邦はオーストリア派とプロイセン派に別れて対立するようになり、主導権を奪い合う戦争にまで発展します。
プロイセンは統一して間もないイタリア王国に、背後からオーストリアを突くよう依頼。勝利の暁には、当時オーストリア領だったヴェネツィアを譲渡すると約束します。
結果:プロイセン王国・イタリア王国連合の勝利
参謀総長大モルトケの指揮の元、プロイセン軍が旧態依然たるオーストリア軍を各地で圧倒。
従来通りの銃剣突撃をしてくるオーストリア軍を、優位な武器を持った組織的な軍隊運用のプロイセン軍がなぎ倒していきました。
さてイタリア軍は、南部からオーストリア領内を脅かしますが、オーストリア軍相手に連戦連敗。プロイセンのおかげで勝ち馬に乗れた戦争でした。
イタリア軍の戦い その1. クストヴァの戦い
1866年6月のクストヴァの戦いでは、オーストリア軍7万5千はヴェネツィアに進撃するイタリア軍12万に、意表をつく背後からの攻撃を加えます。
パニックになったイタリア軍は戦線が乱れ、その後抵抗を試みるも効なしと判断し撤退。
イタリア軍の戦い その2. リッサ海戦
7月18日、イタリア海軍装甲艦12隻はオーストリア領のリッサ島に対する艦砲射撃を敢行。これに対し、オーストリア海軍は装甲艦7隻、非装甲艦12隻を派遣し、揚陸準備中のイタリア海軍に海戦を挑もうとします。
イタリア海軍のペルサーノ提督は、不審船発見の報告を受けていながらこれを無視。陣形構築の準備時間をみすみす逃してしまいます。
突撃してくるオーストリア海軍を間近に見て慌てて陣形を組むも、時既に遅し。大混乱の中で装甲艦2隻沈没、戦死620という惨惨たる結果で終わります。
2. エリトリア戦争(1880年)
概要
領土拡張戦争に遅れて参入したイタリアは、東アフリカでまだ独立を保っていたエチオピア帝国への野心を見せ始めます。エチオピアは独自の皇帝を奉ずるアフリカ最古の王国で、当時の東アフリカにて大きな勢力を持っていました。
イタリアは紅海沿岸の土地を購入して兵を駐屯させ、エチオピア国内の介入を強めていきました。これに対してエチオピア皇帝ヨハンネス4世は反発し、軍事衝突に発展します。
結果:イタリア軍の勝利
イタリア軍はドガリの戦いに勝利を収め、その後は散発的で小規模な衝突にも勝利を収め、現在のエリトリアを勢力下に収めます。
苦戦続きのエチオピアでは内戦が勃発して対外戦争どころではなくなったので、イタリアとウッチャリ条約を結び正式にエリトリアをイタリア領とすることで合意します。
ドガリの戦い
将軍ラス・アウラ率いるエチオピア軍は、7,000の兵で紅海沿岸の町サハティを包囲・攻撃。駐屯するイタリア軍はたちまち武器弾薬が欠乏します。
イタリア軍の援軍500は、背後からエチオピア軍を攻撃。不意を突かれたエチオピア軍は大混乱に陥って壊滅。約80の負傷兵を除いて7,000のエチオピア兵すべてが殺されたとのことです。
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3. 第一次エチオピア戦争(1889-1896)
概要
イタリア軍のエリトリア駐留を受け、エチオピアでは国王の座を求めた内乱や地方軍閥の内乱が相次ぎますが、メネリク2世が国内勢力を抑えて実権を握ります。
イタリアはウッチャリ条約によりメネリク2世を支援する立場でしたが、条約の文面や内容を巡ってイタリアとエチオピアの対立が高まり(イタリア語の記述がイタリア有利な文面になっていた)、ついにイタリアがエチオピアの全面保護国化を目指して軍事展開をするまでに発展します。
結果:エチオピア軍の勝利
戦争に先立ち、メネリク2世はフランスやロシアから火器を多数入手して軍の近代化を図っていました。これを知ったイタリア軍のバラティエリ将軍は、本国へ増援を要請しますが「未開な武器しか持たないアフリカ人相手に増援は不要」として退けられてしまいます。
戦争開始直後、イタリア軍はエチオピア配下の有力軍閥を大いに破り、地方国の首都であるアドワを陥落させ、エチオピア北部に軍を展開させます。
ところがアンバ・アラギの戦いで圧倒的な火力を持つエチオピア軍に敗退した後、有名なアドワの戦いで完膚なきまでに敗北。
ウッチャリ条約に代わり新たにアディスアベバ条約が締結され、エリトリア戦争時に締結された条約に戻ることになりました。
アドワの戦い
バラティエリ将軍は、エチオピア皇帝直下軍は軍閥とは違って手強いことを知っており巧みに決戦を避けてきましたが、イタリア首相クリスピの命令もあり、仕方なく決戦に打って出るべくアドワに進軍します。
バラティエリ将軍はアドワに夜襲をかけるべく夜行進軍をしていましたが、その途中に周辺の山からエチオピア軍12万人の襲撃を受けます。
イタリア軍は大混乱に陥り、7,000人の死者を出して撤退しました。
4. 伊土戦争(1910年)
概要
ロシアとオスマントルコとの間で戦われた露土戦争後の講話で、フランスは当時イタリアが権益を持っていたオスマン領チュニジアの領有権を獲得します。チュニジアの権益を失ったイタリアは、隣のトリポリ(リビア)に目を付けます。
イタリアメディアは、「トリポリは地味豊かで鉱物も豊富」であると宣伝。 不況に苦しんでいた民衆はこぞってトリポリ遠征を支持。
イタリアはオスマン帝国にトリポリ割譲を要求しますが、オスマン帝国はこれを完全な形で認めなかったため、イタリアは宣戦布告し武力でリビアの獲得に乗り出します。
今の常識では考えられない、やりたい放題ですね。
結果:イタリア軍の勝利
リビアに駐屯するオスマン軍は数千にしかならず、しかも援軍を送ろうにも陸路では無理だったので(途中のエジプトはイギリスの支配下にあった)海路しか使えませんでした。
しかし肝心の海軍はイタリアの方が圧倒的に優勢。トルコはイタリアにシーパワーを握られていたためなかなか援軍を送ることができませんでした。
そのためイタリア軍は易々と軍をリビアに上陸させ、陸海で戦闘を終始優位に進めました。
1年間戦争は続きましたが、結局リビアをイタリアに割譲することで講話が成立。イタリアの勝利はオスマン支配下のバルカン諸国の民衆に、独立への勇気を大いに与えたと言います。
ベイルート海戦
シーパワーを握ったイタリア海軍は、かつてはオスマンの海とまで言われた東地中海・エーゲ海を我が物顔で航行。巡洋艦「フランチェスコ・フェルッキオ」と「ジュゼッペ・ガリバルディ」は、オスマン領のベイルート港(現在のレバノン)に侵入。
応戦してきたオスマン海軍の巡洋艦1隻と水雷艇1隻を撃沈。さらにベイルートに対して砲撃を加えて町を破壊します。
その後2隻は、ドデカネス諸島とロードス島(かつてヴェネツィア領でオスマントルコに占領されていた)を占領。また首都イスタンブールにも砲撃を加えました。
繫ぎ
まだ4つしか見てませんがこれまでの傾向として
「確実に勝てる戦争は勝てるけど、リスクがあったり不利な状況だと負ける」
ってのが言えそうですね。
まあ当たり前ですし、イタリア軍だけに言えることじゃありません。ただ、前評判を覆したり、不利な状況をはねのけての勝利、という例は見当たりません。
イタリア軍の戦績シリーズ、あと2回続けます。