ポルトガルを駆逐しインド洋交易を独占したオマーン
海洋帝国と言えば、スペインやポルトガル、オランダ、イギリスを連想します。
しかし17世紀後半から19世紀までインド洋は、アラビア半島の王国オマーンが海上交易を牛耳っていました。
オマーンは元々アラビア半島の小さな小国家に過ぎませんでしたが、ポルトガルを駆逐しアラビア半島と東アフリカをに領土を構え、インド洋を自分たちの内海とし海上交易で大いに発展。
しかし、最後は進出するヨーロッパ列強に抗しきれず、イギリスの植民地になってしまいます。
今回はあまり日本人には有名でない、アラブの海洋帝国オマーンの歴史です。
1. ポルトガル支配以前のオマーン
イスラム教少数派イバード派
オマーンは紀元前から人が集落を作って住んでいましたが、歴史に登場するのは7世紀にイスラムが進出してきてからです。
オマーンのイスラム教は、世界的に見たら少数派であるイバード派が多数派を占めるところに特徴があります。
イバード派は指導者イマームに「資質がある者」は誰でもなることができます。
多数派のスンニ派では「クライシュ族」しかなることができず、
シーア派では「4代カリフ・アリーとその子孫」しかなることができないのがそれぞれ異なる点です。
イバード派はイスラム教の初期の頃、8世紀に多数派(スンニ・シーア)から独立。
オマーンの地に移住して独自の統治を始めました。
アラブ世界の辺境の地
オマーンは長い間アラブ世界の辺境と位置づけられ、たびたび異民族王朝の支配下に組み込まれました。
10世紀には神秘主義教団カルマティア、11世紀にはイラン系のブワイフ朝、12世紀にはセルジュク朝と、様々な宗派の集団に統治されますがイバード派の信仰は守られ、1154年にオマーンの独自王朝であるナブハーニ朝が成立。
この王朝はイバード派の信仰に基づき、1470年まで独自にオマーンを統治しました。
2. インド洋交易を支配するポルトガル
インド洋港湾諸都市を支配するポルトガル
ヨーロッパの辺境国ポルトガルは、14世紀から海洋交易に本格的に乗り出しました。
いくつもの失敗と挫折を味わいながらも、とうとう15世紀末にヴァスコ・ダ・ガマがインドへの航路を開拓。
インドに駐在官を派遣し、本格的な香辛料貿易に乗り出します。
インド洋では中国〜インド〜アラビア半島〜東アフリカの間のインド洋交易が古くから発達しており、「インド洋経済圏」のような1つの経済圏が出来上がっていました。
ポルトガルはこれらの地場勢力を駆逐して自らの支配下に組み込むべく、東アフリカ諸都市やアラビア半島の港町を武力で制圧していきました。
そんな中でオマーンのマスカット港も1515年にポルトガルによって占領されます。
ポルトガルとオスマン帝国の覇権争い
一方で、1580年頃からオスマン帝国も盛んにインド洋交易に乗り出し始め、一時は現在のインドネシアにまで艦隊を派遣するまでに。オスマン帝国の大航海時代の幕開けでした。
ポルトガルはオスマン帝国とたびたび衝突し、その都度オスマン帝国はポルトガル軍の反撃にあって撃退されていました。トルコ民族はやはり陸の民であって、海の戦いは不得手だったのでしょう。
ポルトガルは支配下の在郷勢力とオスマン帝国が結ぶのを恐れて、東アフリカで最後までポルトガルに抵抗していた港湾都市モンバサ(現在のケニア)を武力制圧。
17世紀半ばまでポルトガルはインド洋交易を支配し、莫大な利益を本国にもたらしました。
3. オマーン、ポルトガルを追い落とす
なぜオマーンはポルトガルを駆逐し得たか
ただ、ポルトガルの天下はそう長くは続きませんでした。
ポルトガルの支配下にあったオマーンでは在郷勢力が力をつけ、1650年にはオマーン王がポルトガルを駆逐して独立。
その後インド洋各地に覇権を持っていたポルトガルを武力であっと言う間に追い落とし、東アフリカ諸都市もその支配下に組み入れ、インド洋交易を支配してしまいます。
アラブの辺境だったオマーンが、なぜそこまでの爆発力を持ったのでしょう。
1. ポルトガルの支配下に入ったことで、急速に発展したため
伝統的にマスカット港はそこまで重要な港ではありませんでしたが、ポルトガル支配下に入ってから国際貿易港として急浮上。
マスカット港は経済的に発展を遂げ、オマーン王家を始め在郷の商人たちは大もうけ。後の拡張政策のための資本金を蓄えることができたのでした。
2. ポルトガルがオスマン帝国の進出を防いでくれた
オスマン帝国は2度に渡って大規模な艦隊をマスカット港に派遣して占領を試みているものの、2回ともポルトガルの反撃を喰らって撤退しています。
ラッキーなことにオマーンは自分たちで戦うことなく、オスマン帝国の東進がない状態で交易圏を拡大することに成功したのでした。
3. 東アフリカのオマーン移民
ポルトガル以前のインド洋経済圏の中で人の交流はかなり活発でしたが、
10世紀以前からオマーン人は東アフリカの諸都市に住みいており、当地で土着化していました。
そのため、17世紀後半にモンバサを始めとするスワヒリ諸都市がポルトガルに抵抗した際、オマーン王は艦隊を東アフリカに派遣して「仲間たち」の窮地を救っています。
そのような関係で、オマーンとスワヒリ諸都市の人的・経済的交流は盛んになり、東アフリカはオマーンの経済圏の中に入っていきます。
そしてサイイド・サイード王がザンジバル島に遷都をするに至り、アラビア半島と東アフリカの政治的統合にまで発展していきました。
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4. 欧米列強の存在
サイイド・サイード王は、東アフリカに進出してきていたイギリスとフランスの脅威を肌で感じており、いずれこれら欧米列強が東アフリカに進出してくるに違いないと予測。そのため、東アフリカ沿岸の支配強化を急いだのでした。
ボヤボヤしてたらまた元のアラブの辺境に逆戻りして、オマンマの食い上げですからね。
4. オマーンの東アフリカ交易
オマーン王サイイド・サイード(1791 - 1856)は、経済的統合を成し遂げたアラビア半島と東アフリカ沿岸の政治的統合を達成すべく、現在のタンザニア沖合の島ザンジバルに遷都。
サイード王はここのストーンタウンを拠点に、北はソマリア南部から南はモザンビーク北部、さらにはタンガニーカ湖に至る内陸交易の交通路を抑えました。
そして各地に要塞を築いて軍事的支配を強め、関税制度を整えて諸外国と外交関係を結び、海外貿易に着手しました。
何が流通したのか
18〜19世紀にアフリカ内陸部から調達されて海外に流通した代表的な輸出品は「奴隷」でした。
以前「なぜ西アフリカ諸国は奴隷貿易に加担したか」という記事を書きましたが、状況は東アフリカでも似たようなものでした。
タンガニーカ湖周辺の住民は、商人がもたらす外国産の綿布やビーズ、そして武器を購入するために競ってキャラバンを内陸に出し、奴隷狩りに奔走しました。
奴隷の買い手は主にフランスで、奴隷たちはモーリシャスのサトウキビプランテーション農園に連れて行かれ働かされました。
1815年にフランスが奴隷交易を禁止すると、奴隷のマーケットはアラビア半島やインドに拡大。
東アフリカの奴隷たちは一度ザンジバル島に連れてこられ、そこで競売にかけられ各地に売りさばかれていきました。
1873年にイギリスの介入によって奴隷交易自体が禁止されると、奴隷たちはタンザニア沿岸部にとめおかれ、奴隷たちはアラブ人主人のもとで農業生産に従事することになります。
イスラム式ダブルスタンダード
もともとイスラム教の聖典コーランでは、奴隷は禁止されています。
しかし、これはあくまで「イスラム教徒の奴隷」に限定されており、異教徒の奴隷はOKだったわけです。
とは言えイスラム圏の奴隷制度は、欧米列強の奴隷よりは温情的であるとされており、その社会的地位も主人との間で交渉の余地がありました。
そのため歴史上、週休二日の奴隷もいたし、自由民に近い奴隷もかなりいたようです。
ただ、アラブ人が東アフリカで展開する農業生産は、以前のそれとは異なる「アメリカ型」の大量の奴隷による搾取型に展開していきました。
なぜなら、このほうが儲かったから。
本来「イスラムの教え」を野蛮な異教徒の間に広げ、文明を啓蒙するのがムスリムの義務です。
そういう点で言うと、アラブ人はアフリカ内陸部の民にイスラム教を広げ、奴隷の立場に陥ることを防がなくてはならないのですが、
アラブ人奴隷商人は奴隷交易を「ムスリムの正統な権利」「イスラム法に則った商行為」だとみなし、自らの行為の矛盾を正当化していたのでした。
5. オマーンを牛耳るインド商人
オマーン国家の財源は王室の財源と一緒になっており、すなはち王自らが商人でした。
輸出品は象牙、クローブ、砂糖、コーヒー。
輸入品は銃弾薬、ビーズ、綿布、時計、鏡などでした。
ただ、王が直々に行う商取引なものだから、王がしこたま儲るような仕組みになっているのは当然で、欧米の商人はたびたび泣かされたようです。
そこでアメリカ商人は王に抗議し、これ以上取引に介入するなら取引を停止する、と通告。
さすがの王もこれには参ったらしく、次第に王直々の商取引は減っていきました。
その代わりに王室の財源を埋めたのは、シヴジ一族を筆頭とするインド商人。
彼らの出身はインド北西部の港町カッチで、シヴジ一族はカッチにある9つの港の中の1つムンドゥラーを拠点にしてインド洋交易に乗り出しました。
ムンドゥラー港は隣接する地域で生産されるインド綿を仕入れて東アフリカに輸出し、象牙やクローブ、奴隷を輸入し莫大な富を得ました。
3代目のジェイラムの時代には、シヴジ一族はオマーン王国の財界の第一人者にのし上がり、オマーン国内の商取引のすべてに介入。絶大な権力を振るいました。
オマーン王ですら、シヴジ一族に譲歩せざるを得ない場合もあったらしく、オマーンでの商取引を成功させるにはシヴジ一族に上手く取り入る他ない。
欧米の商人たちは、この厄介なインド商人に泣かされること限りがなかったそうです。
政治統合の解消
1865年、オマーンを統治したサイード王はオマーンからザンジバルに向かう途上で病死。
跡継ぎを巡って争いが始まり、イギリス政府はオマーンとザンジバルそれぞれに王を即位させて事態を収拾させました。
ここにアラビア半島と東アフリカの政治的統合は解消し、オマーンとザンジバルはそれぞれ別の国としての歩みを始めることになります。
6. その後のオマーン
ザンジバルを失ったマスカット・オマーンは急速に衰退。
国王イマム・アッザンは国内の部族たちを統合し中央集権化を急ぎますが、イギリスの介入を招きます。
イマム・アッザンは有力部族のガフィリ族と結んでイギリスに対抗しますが、
イギリスはライバルのイブン・サイード・アルブセイドを援助し、とうとうイマム・アッザンを1871年に殺害することに成功。
そうしてイギリスとの関係を深めていったオマーンはとうとうイギリスの保護国となってしまいました。
独立し、国連に加入するのは1970年のことです。
まとめ
もともとの地理的な要因に加え、
16〜17世紀に起こった国際関係上のいくつもの偶然が重なって、辺境の貧しい国を世界史を変えるほどの大国に変えてしまいました。
ある条件が重なったときに、ひとつの集団が爆発的に外に拡張する、民族の勢いというか、歴史のダイナミズムがとても面白いです。
今回は外的要因しか取り上げられませんでしたが、オマーン人が持っていた内的な要因を探る必要があるかもしれません。
参考文献:スワヒリ都市の盛衰 富永智津子 山川出版社