ベトナムのジャンヌ・ダルク
ハイ・バー・チュン(徴姉妹)は、中国の後漢王朝の支配に抵抗し、ベトナム初の王朝を築いた姉妹。
現在でもベトナムでは民族的英雄で、現在のハノイ市やホーチミン市には「ハイ・バー・チュン通り」という名前の通りがあったり、姉妹を祭る寺院があったりなど、国民に敬愛されています。
ベトナム初の王朝を築いたのが女性であるということも面白いのですが、
現在も激しいベトナムの反中国(漢人)運動が2,000年前から起こっていることにも注目したいです。
漢の武帝によるベトナム支配
ベトナムは古来から中国の支配下にありました。
紀元前203年、秦王朝から自立した嶺南地方が南越国として独立。南越は雲南地方を中心に、現在のベトナム中部までを支配下に置きます。
紀元前111年、漢の武帝が南越国を征服。武帝はこの地に九郡(南海、合浦、憺耳、珠崖、蒼梧、鬱林、交趾、九真)を置き、それぞれに大守が派遣され、治安維持や租税の徴収、軍役の徴発などに当たりました。
現在のベトナムにあたる交趾・九真は、燕の巣や真珠、べっ甲、香木など南海の珍品の産地であったため特に重用視されました。
ベトナムの支配者として君臨した中国
中国の支配に入る前から、ベトナム社会には田を耕す一般層と、それを支配する豪族、それらを束ねる王がいました。
王や豪族は、土地の支配権や灌漑水利権を支配。一般層とは異なるエリート層として君臨します。
そこに圧倒的な武力を背景とした、武帝の中央集権的勢力が覆いかぶさりました。
中国人にとってベトナムの資源は魅力的でした。
燕の巣や真珠、べっ甲、香木などの珍品は中国本土で高値で売れたため、漢人太守はここベトナムで中央政府での出世のための資本金を大いに蓄えていく。
さらには中央政府のお墨付きを得た商人や、偽造文書で装った闇業者も、支配者の権威をかさに富を奪い取っていく。
一般層はもちろんのこと、これまでの支配層であった地場の豪族も困窮し、その鬱屈した不満が爆発します。それが、ハイ・バー・チュンの乱でした。
豪族の娘姉妹 チュン・チャクとチュン・ニ
姉妹は交趾群メリン県の土着豪族の娘。
姉のチュン・チャクは、チャウジェン県の豪族テイ・サクに嫁ぎます。
しかし、夫が交趾太守・蘇定に反抗したことで罪に問われ、あげく殺害されてしまいます。
姉チュン・チャクは怒り狂い、妹のチュン・ニと共に反・漢人の反乱ののろしをあげます。
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反乱の拡大、独立王国の設立
チュン姉妹が反乱に立ったという話を聞きつけ、周辺の土着豪族たちも次々と馳せ参じます。
反乱軍の指揮官であるチュン姉妹は象にまたがり、長刀をかざして太守・蘇定の城に攻撃を与えます。蘇定はたまらずに逃亡。反乱軍はさらに漢朝の城を65も攻略。
ここにおいて、姉のチュン・チャクはメリン県を首都として「微王」と名乗り独立を宣言(40年)。
チュン・チャクは支配地の住民に、2年間の徴税と使役の免除を言い渡します。
民衆は大いに喜び、微王を讃えたと言います。
漢王朝の討伐軍の襲来
2年後の42年、漢王朝の馬援将軍が海陸からチュン姉妹の反乱軍の拠点を攻め、ことごとく粉砕。数千の首級を上げる戦果を収めたといいます。
チュン姉妹は、現在のソンタイに近いカムケの戦いで捕えられ、首を切られて洛陽でさらされたとも、その前に入水自殺をしたとも伝えられます。
その後
漢王朝はその後、豪族を使った間接統治を辞め、直接統治に乗り出します。
このことによりベトナムの中国化は進み、実質ベトナムは中国の一部となります。
しかしベトナム人の反漢人の反乱は終わることがなく、たびたび反乱が起こっては漢人部隊が鎮圧する、というサイクルを繰り返しました。
ベトナムが独立を達成するのは、唐王朝が崩壊した10世紀のディン・ボーリン(丁部領)まで待たねばなりません。
また、このエントリーで語った「ベトナム」はあくまで、現在の北〜中ベトナムまでで、中〜南ベトナムは、このときはチャム族の土地でした。
ベトナム人がチャム族の国チャンパーを滅ぼし、メコンデルタからクメール人(カンボジア人)を追い出して現在の領土に近いベトナムを形作るのは、なんと19世紀。
そういう歴史もあり、根強い反中国感情を持つのは主に、ハノイを中心とする北部〜中部の人たちで、南の人は長くチャム人やクメール人の支配下にあった後にフランス領コーチシナに組み入れられたこともあり、特に激しい反中感情は持っていないそうです。
ただ、ネットの発展や人口の移動もあり、現在では若者を中心に現状不満や愛国心と結びついた反中感情が高まっており、南部のホーチミン市でも反中デモが起こっているようです。(2014年5月10~11日に発生 外務省海外安全ホームページより)