死ぬまでイギリスに抵抗した"マイソールの虎"
ティプー・スルターン(1750? - 1799)は現在のインド南部にあったマイソール王国の支配者。
統治者・軍司令官として非常に有能な人物で、インドへの侵略を進めるイギリスに抵抗すべく、王国の整備や各国との連携を模索。
インドで最も精強な軍隊を作り上げ、何度かイギリス軍とも互角に渡り合います。
しかし最期はイギリス軍と絶望的な戦いを繰り広げ、壮絶に玉砕して果てます。
サムライ魂に満ちた壮絶な死に様はインド人の心を打ち、現代でも民族的な英雄として敬愛を受けています。
マイソール王国(1399 - 1947)
マイソール王国は13世紀ごろからインド南部に成立したヒンドゥー系の王国で、歴代の都がマイソールだったことからマイソール王国と呼ばれました。元々はヴィジャナガル王国の臣下だったウォディヤール家の領国だったのですが、国力をつけて独立。
16世紀、北インドにムガル帝国が興ってから当初は、その傘下に組み入れられ緩やかな連邦制のような形になっていましたが、アウラングゼーブ帝の死後、南インドの諸王国は徐々に自立し始め、マイソール王国も建前はムガルの傘下でありつつ、独自路線を歩むようになります。
天才的軍人だった父ハイダル・アリー
ハイダル・アリー、マイソール王国の国王に
ティプー・スルターンの父、ハイダル・アリーは元々マイソール王国のムスリム軍人でしたが、その非凡な軍事能力を活かし、南インド諸国同士で争われたカーナティック戦争で活躍。
1760年に王家のウォディヤール家を家臣の地位に落として王位に就き、強力なリーダーシップを発揮して軍事改革・中央集権化・税制改革など、強力に近代化を押し進めます。
マイソール戦争の勃発
1767年、マラーター王国やニザーム王国とマイソール王国との対立に乗じて、イギリス東インド会社が南インドに権益を確保すべく侵攻してきます。第一次マイソール戦争です。
ここでハイダル・アリーは、機能的な軍の運用を実践しイギリス軍相手に連戦連勝。この時ティプー・スルターンも従軍し、マンガロールの町を陥落させる活躍をしています。
思わぬ敗北に驚いたイギリスは、マイソール王国とマドラス条約を結んで講和し、相互の占領地と捕虜の返還をしただけでいったん引き上げています。
ロケット砲部隊の組織
再びイギリスとの確執が露見し、第二次マイソール戦争が勃発すると、ティプー・スルターンはマイソール王国の主力として活躍。
特筆すべきは、世界で初めて「近代的なロケット兵器」の運用を実現したことです。
火薬を使ったロケットのようなものは古代中国の時代から存在しましたが、それは紙や金属片を使用した簡素なもの。
ティプー・スルターンは地元マイソールの鍛冶屋と花火職人を総動員して鋼製のロケット兵器を大量生産。
このロケット兵器は射程が3キロもあり当時の世界水準よりはるかに優れたもので、しかも台車に装荷して機動力を上げたもの。
このロケット兵器にイギリス軍の、特に騎兵隊は大損害を被ったのだそうです。
PR
ティプー・スルターンの統治政策
第二次マイソール戦争の最中に父ハイダル・アリーが死亡したため、息子のティプー・スルターンは跡を継いで戦争を続行。戦争自体は引き分けに終わり、決定的なイニシアチブをイギリスに渡さずに主権を守ることに成功します。
1738年、ティプー・スルターンは主席大臣に任命され、事実上王国の支配者に就任。そして数々の近代改革を実施しました。
宗教政策
マイソール王国は元々ヒンドゥー王国でしたが、ティプー・スルターンは1786年、王国のイスラム化を宣言。
それまでヒンドゥー一色だった国の風俗や慣習をイスラム風に改めるように改革を実施しました。例えば、1788年にマルバール地方視察の際、上半身裸の女性に布で上半身を覆うよう指示したり、飲酒や売春の禁止を全土で実施したりしました。
ただし目的はあくまで「効率的な国家運営」にあり、別にヒンドゥー教を弾圧することが目的でなかったので、ヒンドゥー寺院に寄進したりヒンドゥーの女神像の再建費を立て替えたりしています。
税政策
民間の徴税官を排し国家による直接徴税を徹底化。
いいかげんな徴税を排し、毎年の税収入の見込みを把握し予測と実際との差異を追求するなど、効率的な税対策を実施しました。
税額は生産物の約30%に及びましたが、中抜きがなくなったおかげで庶民の税負担も減り、税収もアップしました。
経済政策
伝統的なインドの織物産業では、特にイギリス製品には勝てないと理解していたティプー・スルターンは、世界で勝てる産業を育成すべくフランスから職人を招いて養蚕や絹織物産業の育成を図りました。
また、海上交易を重視し特に利益率が高い胡椒・白檀・カルダモンは国家が独占貿易をすることにしました。
外交政策
圧迫を続けるイギリスに対抗すべく、ティプー・スルターンは世界の国々と連携をして友好を深め、外からの圧力でイギリスの進出を防ごうと考えました。
ティプー・スルターンが外交使節を送った国は、イラン 、アフガニスタン、オマーン、ビルマ、オスマン・トルコ、清国、フランス。
ほんとにアクティブな人だったんですね。
第3次マイソール戦争勃発
第二次マイソール戦争では、南インド諸王国(ニザーム王国、マラーター王国、トラヴァンコール王国など)はマイソール王国と同盟を結んでいましたが再び対立が高まり、 ティプー・スルターンがトラヴァンコール王国に侵攻することで第三次マイソール戦争が勃発。
イギリスは「トラヴァンコール王国の保護」を名目にして戦争に介入。
ティプー・スルターンは外交を結んでいたフランスやトルコに支援を求めますが、フランスはフランス革命真っ最中、トルコはイギリスとの同盟を遵守し援軍は来ず。
結局シュリーランガパトナ包囲戦に敗れたマイソール王国は2万もの犠牲者を出して敗北。マイソール王国は講話で巨額の賠償金に加えて、ケララ地方全域をイギリスに割譲するという屈辱に甘んじます。
第4次マイソール戦争、そして死
第3次マイソール戦争の敗北後、ティプー・スルターンは当時破竹の勢いでヨーロッパを席巻しつつあったナポレオンに興味を持ち、使節団を派遣してフランス軍をマイソール王国へ寄越してもらおうとします。
そこでフランス領モーリシャス諸島(マダガスカル島の東に浮かぶインド洋の島)に使節を派遣しますが、モーリシャスにフランス軍が駐屯しているというのは誤報で、目的を達成できずに帰途につくことに。
イギリスはこの事実を口実にして「フランスに援助を求めるのは条約違反である」とし、マイソール王国に侵攻。第4次マイソール戦争が勃発しました。
マイソール王国は、第3次マイソール戦争で受けた傷を癒しきれておらず、イギリス軍を相手に連戦連敗。
ついに首都シュリーランガパトナを包囲されます。
イギリス軍はティプー・スルターンに降伏を迫りますが、彼はきっぱりとそれを断りこう返答します。
不信心者のお情けで惨めに生きるより、軍人として死んだほうがよっぽどましだ!
ティプー・スルターンと彼の軍勢はその後1ヶ月に渡って首都を防衛するも、徐々に追いつめられていきます。
「もはやこれまで」とティプー・スルターンとその親衛隊は最後に捨て身の総攻撃を仕掛け、玉砕して果てました。
49歳でした。