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【抵抗者】アルバニアの戦争屋・スカンデルベグの最強伝説

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オスマン帝国に抵抗したアルバニアの英雄

スカンデルベグ(1405 - 1468)は、中世アルバニアの領主。

当時はバルカン半島の諸王国が破竹の勢いで北上するオスマン・トルコの軍門に次々と降っていた時代。

そんな中スカンデルベグはイタリア半島のキリスト教勢力の力を借り、ゲリラ戦術を駆使してオスマン・トルコに頑強に抵抗し、25年間もの間独立を維持

スカンデルベグの死後もアルバニアは約12年に渡って独立を維持しますが、結局はオスマン・トルコに併合されてしまいます。

しかしバルカン半島制圧に手こずったことでトルコの中央ヨーロッパ進出が遅れ、結果的にヨーロッパ・キリスト教世界を救ったとの評価を受けています。

現在のアルバニアでは民族的な英雄として、5000アルバニアレク紙幣に描かれています。

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 1. オスマン・トルコの人質として成長

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人質としてトルコで成長

スカンデルベグの本名は"ジェルジ・カストリオティ"。

父ジョン・カストリオティは中部アルバニアの領主。アルバニアに進出してきたムラト2世率いるオスマン・トルコに抵抗しますが敗れてしまい、ジェルジ含む兄弟は人質としてアドリアノープルに送られ、イスラム教に改宗されてしまいます。

「アレクサンダー」の称号を得る

成長するにつれ、ジェルジは他の兄弟よりも利発さを表し始めました。

アルバニア語とトルコ語の他にギリシャ語、ラテン語、ブルガリア語、セルビア語、クロアチア語をマスター。また、軍事戦略や兵器の知識にも長けるようになりました。 

トルコ人はそんな自尊心が高い青年に「アレクサンダー」の称号を与えました。スカンデルベグ(Skenderbej)はアレクサンダー(Iskender)にちなんだ名前です。

 

2. 戦線放棄、反オスマンに起つ

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ハンガリーの反乱軍と共謀

1443年、トランシルバニア(ハンガリー)のフニャディ・ヤーノシュが反オスマン・トルコの反乱を起こすと、トルコはスカンデルベグを鎮圧軍として派遣します。スカンデルベグはフニャディの軍と戦闘し敗北。ところがこの時点ですでにヤーノシュとスカンデルベグは「反オスマンで協力する」手紙のやり取りをしていたようです。

スカンデルベグ率いるトルコ軍は夜半に戦線を放棄し、帰途中にトルコ兵士を追い出す。

その上で、彼に忠実なアルバニア部隊300人を率いてアルバニアに帰還し、トルコによって占領されていた要塞を急襲し、すべて占領してしまいました。

スカンデルベグはクルエの要塞を占領後、トルコへの復讐を宣言しました。

今までのおれは自由なようでいて全くそうでなかった。おれは今故郷でそれを見つけたのだよ

3. 無敵のオスマン軍に対して破竹の勝利

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トーヴィオルの戦いでトルコ軍を打ち破る

1444年3月、スカンデルベグの裏切りに激怒したムラト2世は、アリ・パシャ率いる軍勢を派遣します。その数25,000〜40,000。 対するアルバニアは15,000ほど。

決戦場所はトーヴィオルの平原。

深い谷底に陣営を張るアルバニア軍を谷上から眺めて、アリ・パシャは戦う前から勝利を確信したそうです。そして全軍に突撃命令をかけます。

こうなることを予期していたスカンデルベグは、あらかじめトルコ軍のさらに後方の森に別動部隊を待機させていました。そして夢中で前方のアルバニア軍の陣営に攻撃をかけるトルコ軍の後ろから不意を突く攻撃を加えた

たちまちパニックに陥ったトルコ軍は、あやうくアリ・パシャの命までも危うくなるほど混乱し退却しました。

 1445年、トルコ軍は今度は15,000もの騎兵を派遣し、プリズレンで激突しますがこれすらスカンデルベグは撃破してしまいます。

時の教皇エウゲニウス4世は、トルコに頑強に抵抗するスカンデルベグに注目し、

「大胆不敵なキリストの擁護者」

と誉め称えたそうです。

 

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4. ヴェネツィア共和国との関係

当初ヴェネツィア共和国は、通商路を脅かすオスマン・トルコに抵抗するスカンデルベグを支援していました。

ところがヴェネツィアはその逞しい商魂で、敵であるトルコ軍に食料を売っていました。これを知ったスカンデルベグは激怒し、1447年にアルバニア・ヴェネツィア戦争が勃発。この時ヴェネツィアはオスマン・トルコに対し「両面攻撃」を打診し、事実上の協調作戦を敢行しました。

シュコダの戦いでアルバニア軍がヴェネツィアを破れば、ヴェネツィアとトルコはアルバニア軍の要塞を包囲して水源を断つ。

戦争は1年間続き一進一退の攻防が続きましたが、東部でスカンデルベグがムラト2世の軍勢と戦っている途中に、ヴェネツィアはスカンデルベグに平和条約を打診して戦線離脱しました。

スカンデルベグはヴェネツィアと平和条約を締結し、毎年1400ドゥカート、塩(馬200頭分で運ばれる量)、購買免税の権利を得ます。

さらに南イタリアに影響力を持つアラゴン王アフォンソ5世の軍事援助も得て、イタリア半島との協力関係を深くしました。 

 

5. スカンデルベグ、無敵伝説

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スカンデルベグは負けない

1450年6月ムラト2世は、息子のメフメト2世に命じ10万の兵士でクルエの城を包囲させます(第一次クルエ包囲戦)。スカンデルベグは彼が最も信頼するヴァナラ・コンティ率いる1,500の兵に城を守らせ、自身はアルバニアの山岳地帯に籠もってトルコ軍相手にゲリラ戦を展開しました。

トルコ軍は3度に渡って大規模な攻撃を加えますが、ヴァナラ・コンティの軍は甚大な被害を受けながらもそれに耐え抜く。そしてスカンデルベグ率いるゲリラ部隊は、夜半にトルコ軍のテントを襲撃したり、補給部隊のキャラバンを襲ったりして、じわじわとトルコ軍の戦力を削っていきました。

そうこうしているうちに、トルコ軍内で食料や水の不足や疫病がはやりだし、 ムラト2世は同年10月に撤退を決定。その4ヶ月後にムラト2世は死亡しました。

アラゴン、そしてヴェネツィアとの関係

1452年、アラゴン王アフォンソ5世はナポリにスカンデルベグを招き、目下進行中のオスマン・トルコによるコンスタンティノープル包囲について相談しています。スカンデルベグはビザンチンに軍を派遣しようとしますが、トルコ軍に国境付近で妨害を受けて結局援軍を送ることはできませんでした。

1453年スカンデルベグは、トルコ軍からの攻撃を防ぐべくアフォンソ5世と教皇に資金援助を求めています。

海上輸送を担当するヴェネツィアは、自身とライバル関係にあるアラゴンがこれ以上影響力を持たないように、わざと輸送を遅らせたりして妨害工作に出ています。

激怒したスカンデルベグは何度かヴェネツィアと小競り合いになっており、両国関係はかなり不安定なものでした。

ヴェネツィアとの協力関係強化

1463年、ネグロポンテ島や周辺の島々を巡ってオスマン・ヴェネツィア戦争が勃発。ヴェネツィアはこの時からこれまでの態度を改めて、スカンデルベグを強力なパートナーと見なすようになります。

同年スカンデルベグは、オスマン・トルコ軍から送られてきた中規模な3度の攻撃をいずれも破っています(モルカの戦い、オフリドの戦い、スコピチェの戦い)。メフメト2世はこの結果を受けて、スカンデルベグに10年間の期限付きの平和条約を結ぼうと打診しますが、これを一蹴。対トルコ抵抗戦争を継続します。

おそらく、「イタリアからの支援金」と「戦争に勝つことでの権威の維持」は、アルバニア王国とスカンデルベグに必要不可欠になっていたのでしょう。

 

6. 無敵の男スカンデルベグ、最期の戦い

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第二次クルエ包囲戦勃発

1465年、バラバン・パシャとジャクプ・ベイに率いられたトルコ軍2大隊がアルバニアに侵攻。スカンデルベグはまずバラバン・パシャの軍を第二次バイカーリの戦いで打ち破り、次いでジャクプ・ベイの軍をもカシャリ平原で完膚なきまでに打ち破ります

翌年スルタン・メフメト2世が率いる3万の軍隊がアルバニアに侵攻(第二次クルエ包囲戦)。このとき、スカンデルベグはイタリアにいました。教皇に資金援助を求めていたのです。教皇はスカンデルベグの求める額を渋り、わずか2万ドゥカートしか与えませんでした。これは4人の兵士を雇うだけの金額しかない。

しょうがないのでスカンデルベグはアルバニアに戻り、クルエを包囲中のトルコ軍を縦横無尽に攻撃。城を包囲していたバルバン・パシャの兄弟ユヌスと息子のハイダールの軍を打ち負かします。結局、トルコ軍はバルバン・パシャの死を受けて撤退しました。

 

第二次クルエ包囲戦では、アルバニア側が受けた被害も大きく、町・田畑は荒れ、市民はあちこちに逃げて戻ってこなかったり、容易に立ち直れないほど大きな打撃でした。

スカンデルベグはアルバニアの領主とヴェネツィアと会議を開き、次の戦争と経済の立て直しを協議しますが、その途上で突如死去。62歳でした。

7. スカンデルベグ死後のアルバニア

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1477年、トルコ軍によって再度クルエが包囲されます。

スカンデルベグ無きアルバニア軍は精彩を欠き敗退を重ね、頼みのヴェネツィア軍もシュコダ要塞に撤退し、クルエはとうとう陥落。アルバニアの領主たちは恐怖に駆られ、雪崩を打ったようにアラゴン領ナポリに亡命。指導者がいなくなったアルバニアはトルコ軍の前に次々と城や要塞を開け放ちます

スカンデルベグの死から12年後の1479年、とうとうアルバニア軍とヴェネツィア軍が守るシュコダの要塞が陥落し、オスマン・トルコによるアルバニアの抵抗勢力の駆逐は完了。

ここから第一次バルカン戦争が終了する1912年までの433年もの間、アルバニアはトルコの支配下に置かれたのでした。

 

「抵抗者」バックナンバー

第1回:ジャラールッディーン(イラン)

第2回:ペラーヨ(スペイン)

第3回:ヴラド3世(ルーマニア)

第4回:チュン姉妹(ベトナム)

第5回:ラウタロ(チリ)

第6回:テカムセ(アメリカ)

第7回:スカンデルベグ(アルバニア)

第8回:シモン・キンバングー(コンゴ)

第9回:ティプー・スルターン(インド)

第10回:アブドゥッラー・オジャラン(トルコ)

第11回:アウンサン・スー・チー(ミャンマー)

第12回:マリア・ボチカリョーワ(ロシア)