読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

【抵抗者】モンゴルに抵抗した英雄・ジャラールッディーン

イラン 中央アジア モンゴル

f:id:titioya:20150504132544j:plain

モンゴルへの抵抗に生涯を捧げた亡命皇帝

ジャラールッディーンは本名を、ジャラール=ウッディーン・メングベルディーといい、現在のイラン、ウズベキスタン、アフガニスタンを中心に栄えたホラズム朝の最後の皇帝

モンゴルのチンギス=ハンによって故郷を追われ、モンゴルへの復讐と抵抗に全生涯を費やした男です。

このエントリーでは、チンギス=ハンの最大のライバルと言ってもいいかもしれない、ジャラールッディーンの抵抗ぶりを追っていきましょう。

 

中央アジア最大の貿易立国・ホラズム王朝

f:id:titioya:20150504132559j:plain

ホラズム朝はチュルク系の奴隷軍人が建てた王朝で、現在のウズベキスタンの首都サマルカンドを本拠にしていました。

歴代の皇帝たちは周辺各地への遠征を繰り返し、現在のアフガニスタンの一部、イラン、トルクメニスタンの大部分、ウズベキスタンの一部を領土とする一大帝国を築き上げます。

当時のサマルカンドは、シルクロード貿易の中継地点として、中央アジア随一の商業都市。その周囲は16キロあったと言われ、城門は12、人口は50万は下らなかったと言われています。

 

モンゴルによる破壊と殺戮

f:id:titioya:20150504131823j:plain

1217年、チンギスハンはクリルタイ(大会議)を開き、ホラズムへの侵攻を決定。翌年春から、チンギスハンは長男のジュチ、次男のチャガタイと共にホラズム領へ侵攻。

ホラズム皇帝ムハマッドは爆発的に攻めて来るモンゴルの前に意気消沈し、軍勢を各都市に配備し守備をさせる消極策に転じ、自らは首都サマルカンドに逃げ帰ってしまいます。

ホラズムの各都市は各個撃破され、首都サマルカンドもほぼ無抵抗で開城してしまいます。職人は捕虜にされてモンゴルに連れ去られ、市民と守備兵の大半は虐殺されました。

皇帝ムハマッドは首都から逃亡し、逃げに逃げてカスピ海の孤島までたどり着きます。

 

ジャラルッディーン、反モンゴル抵抗運動を開始

f:id:titioya:20150504132622j:plain

皇帝モハメッドはカスピ海の孤島でむなしく死去(上記絵)。

復讐に燃えた息子のジャラールッディーンは、すぐに300騎を引き連れ、モンゴルの監視をかいくぐりアフガニスタンのガズニまで移動。そこで、ゴール族、カンクリ族、トルコマン族などの周辺遊牧民族に呼びかけます。

ホラズムの勇猛な戦士として既に名高かったジャラールッディーンの元に、6万人もの軍勢が集まったと言います。

手始めにジャラールッディーンは、アフガニスタンのパルワーンでモンゴル軍と激突。この会戦で1000人のモンゴル前衛部隊を殲滅し、勝利を収めます。さらには討伐隊を指揮した、チンギスの側近シギ=フトフクの兵3万の兵にも勝利を収めます。(パルワーンの戦い)

 

バーミヤンの大虐殺

f:id:titioya:20130130112932j:plain

事態を重く見たチンギスは息子たち、ジュチ、オゴタイ、チャガタイ、トゥルイの軍勢を集めて、ジャラールッディーンの軍勢が籠るバーミヤン城を囲みますが、断崖絶壁に建つ堅牢な城はなかなか陥落しませんでした。

 そんな中、チンギスがもっとも愛するチャガタイの長男モアトガンが戦死

怒り狂ったチンギスは、どんな犠牲が出ようと陥落させよと命じ、鬼のごとく襲いまくり、ついにバーミヤン城は陥落。チンギスは、

人間から動物にいたるまで、生きとし生けるものはことごとく屠りつくせ。捕虜にするなかれ。母の胎内の子をも容赦するなかれ。城内に生命あるものを残すべからず

と命じ、バーミヤンは徹底的に破壊され、人も皆殺しにされました(シャーリ=ゴルゴラの虐殺)。古代から続くバーミヤンの歴史は、この時点でいったん断絶していると言われています。

 

背水の陣の中、1騎でインダス川に飛び込む

f:id:titioya:20150504132656j:plain

バーミヤンから逃げ出したジャラールッディーンは、インドに向けて退却を始めていましたが、インダス川の手前でモンゴル軍に追いつかれます。

ジャラールッディーンは川を後ろに排水の陣を敷き戦いますが、モンゴル軍は3方から囲んで攻め寄せ、ついに追い込まれます。

そのときジャラールッディーンは、高い崖の上から1騎インダス川の激流に飛び込み、そのまま泳いで対岸に逃れました

これを見たチンギスは、ジャラールッディーンの勇敢さを賞賛したそうです。

 

インド・イランから再起を図る

モンゴル軍はその後インダス川の対岸には渡ってこず、アフガニスタンの各地のモンゴル兵を指揮しながら夏を過ごしていましたが、徐々にアフガンから引き上げていきました。

ジャラールッディーンは失地回復を目指し、インドからアフガニスタン南部を通過し、イランのケルマン地方に入ります。

そのままアッバース朝の諸都市を攻撃しながら勢力を広げ、アゼルバイジャンのイルデニズ朝を滅ぼし、キリスト教国であるグルジア王国も滅ぼし、カフカスからホラズムの再興を図ります。

 

広がるホラズム包囲網、モンゴルの追撃

ジャラルーッディーンはさらに、かつての大帝国アイユーブ朝の王侯アシュラフが守るアフラート(現在のトルコ東部)を包囲しますが、足下のアゼルバイジャンではグルジア人、キプチャク人、アラニ人などの反ホラズムの民族が連合し抵抗運動を開始

反対勢力を叩きつつアフラートを再び攻め、6ヶ月の包囲の後にこれを占領します。

しかし今度はルーム・セルジュク朝がアシュラフと連合しホラズムに侵攻を開始。準備不足がたたりホラズムは大敗。しかもその直後、大カーン・オゴタイが指揮するモンゴルの大討伐隊が東からやってきます。ジャラルーッディーンはこれにも大敗を喫し、かつての宿敵アシュラフと同盟を結ぼうとしますが、アシュラフはこれを拒否。

国内は反ホラズムの民族による抵抗運動が激しさを増し、軍内では裏切りや内乱が相次ぐ、まさに大混乱状態。

ジャラールッディーンはイランとイラクの間にある山岳地帯クルディスタンに逃亡し挽回しようとしますが、地元のクルド人に捕まって殺されてしまいました。

 

 

その後

ムスリムにとって反モンゴルの象徴だったジャラールッディーンの死去は、彼を英雄と慕う人々に大きな衝撃を与えました。

ジャラールッディーンは実はアナトリアでひそかに生きていて、反モンゴルのために挙兵の準備をしている、という噂が流れたり、自称ジャラールッディーンが現れたり、その勇名はしばらくイスラム世界に轟き続けたのでした。

 

バックナンバー

第1回:ジャラールッディーン(イラン)

第2回:ペラーヨ(スペイン)

第3回:ヴラド3世(ルーマニア)

第4回:チュン姉妹(ベトナム)

第5回:ラウタロ(チリ)

第6回:テカムセ(アメリカ)

第7回:スカンデルベグ(アルバニア)

第8回:シモン・キンバングー(コンゴ)

第9回:ティプー・スルターン(インド)

PR
電子書籍を読むなら、Paper WhiteよりFireがオススメです(絶対!)