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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

【抵抗者】レコンキスタの始祖・ペラーヨ

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レコンキスタの始祖ペラーヨ

ペラーヨ(?〜737)は、スペインにあった西ゴート王国の豪族。

西ゴート王国がイスラム勢力に敗れさる中、山岳地帯に籠って唯一抵抗を続けます。

頑強に抵抗するペラーヨにイスラム勢力も手を焼き、投降することなくキリスト教勢力を維持させることに成功。後に現在のスペインの母体の1つとなる、アストゥリアス王国を建国しました。

その後もイスラムに抵抗し続けたペラーヨは、現在ではレコンキスタ(再征服)の始祖と位置づけられています。

 

 イスラム勢力のイベリア半島侵入

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混乱状態の西ゴート王国末期

 476年に西ローマ帝国が崩壊して以来、かつての西ローマの領土は蛮族たちの領土獲得戦争の舞台となります。

現在のスペインとポルトガルがあるイベリア半島では、西ゴート族がヴァンダル族など他のゲルマン系部族を差し置いて政治権力を握ります。

初期の頃は、宗教的にも寛容で穏やかな政治体制が引かれますが、8世紀になると王位継承権を巡る貴族同士の争いが庶民を巻き込みます

 度重なる内戦で土地や畑は荒れ、小麦や野菜などの生産高が急落し、流通はほぼストップ。各種の商業活動も滞ります。

にも関わらず庶民は重税を課されたため、流散民が相次ぐ混乱状態に陥ります。

 イスラム帝国の侵入

8世紀当時、アラビア半島から爆発的な勢いで拡大していたイスラム帝国は、北アフリカ一帯のヴィザンチン勢力を駆逐。

現在のチュニジアのカイロワンを拠点に拡大を続け、ついに北アフリカ大西洋沿岸(現在のモロッコ)まで到達します。

(※チュニジア・カイロワン訪問記はこちらをご覧ください)

711年、イスラム帝国北アフリカ総督ムーサの右腕である、ターリック・ブン・ジアードが率いる7000の軍隊が、現在のジブラルタルに上陸します。

すぐに近くのアルへシラスを攻略し、ここで5000の兵隊が増強されます。

ここにおいて、イスラム帝国軍はグアダレーテ河畔で、わずか1万2000の軍隊で西ゴートとの決戦に挑みます。(※ちなみにキリスト教徒側の資料によると、イスラム軍は19万いたことになっています)

 

グアダレーテ河畔の戦い

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対する西ゴート王国の将軍ロドリーゴは、 10万の軍勢でターリックを向かい打ちます。

戦いの詳細は伝わっていませんが、戦闘が始まるや西ゴートの軍勢はターリック率いるイスラム軍の攻勢の前にたちまち総崩れになり、総大将のロドリーゴは逃げる途中でグアダレーテ河で溺れて死亡。

ターリックは軍勢を4つに分け、コルドバ、マラガ、グラナダへと進撃させます。

 

西ゴート王国の崩壊

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西ゴートの圧政に苦しんでいた庶民は、イスラム軍を解放軍として向かい入れたそうです。戦意がもともとない諸侯も次々にイスラム側に投降。

北アフリカ総督ムーサは度重なる戦勝報告に良くし、さらに1万8000の大軍を送り込みます。こうなると西ゴート側はなすすべがなく、サラゴサ、タラゴナ、バルセロナなどの諸都市が次々に陥落。

 イスラム軍がジブラルタルに上陸し、ピレネー山脈にぶつかるまでの2年の間で、アストゥリアス山脈以外のスペインの地はイスラムの支配下に入ります。

 

ペラーヨの抵抗運動

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そんなイスラム軍の破竹の攻勢の中で多くの諸侯が軍門に下る中、唯一抵抗を続けていたのが、西ゴート王国の豪族であったペラーヨでした。

グアダレーテ河畔の戦いの敗退の後、ペラーヨは地元イベリア半島北西部・アストゥリアス地方で、イスラム軍に対してゲリラ的な抵抗活動を続けていました。

ムーサは最後の抵抗者を駆逐すべく、アストゥリアスに軍隊を進めます。

周囲に転々と要塞を築き、包囲網を作っては西ゴート残党軍の基地を落としていきます。ペラーヨの軍隊も次第に追いつめられ、山岳地帯に逃げ込んで散発的な抵抗を続けますが、兵糧も矢も底を付きはじめます。

 あと一歩、攻勢をかければ壊滅してしまう、というギリギリのタイミングで、何とウマイヤ朝カリフ・ワリド一世から、ムーサとターリックに帰還命令が届きます

続々と引き上げていくイスラム軍を前に、ペラーヨのキリスト教徒軍はまさにギリギリのところで命を救われたのでした。

 

アストゥリアス王国の建国

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 718年、ペラーヨはアストゥリアス王国を建国。王となります。

このアストゥリアス王国は後にレオン王国となり、1037年にカスティーリャ王国と統合。現在のスペインの母体となります。

 歴史にIFはありませんが、もしワリド一世の帰還命令がなく、ムーサとターリックがそのままペラーヨの軍隊に大攻勢をかけていたら、今のイベリア半島は違った地図になっていたかもしれません。

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コバドンガの戦いでの大勝利

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722年、フランク王国に攻め入ったイスラム軍はトゥールーズの戦いで敗れ、汚名を晴らしたいスペイン総督アンバサ・イブン・スハヤムはその残党群を率い、アストゥリアス王国に攻め入ります。

ペラーヨは手持ちの軍隊をかき集めて山岳地帯の細い谷に終結させて、イスラム軍をおびき出す作戦をたてます。 

イスラム軍が細い谷を攻め上ってきたところで、隠してあった軍勢を一気に解き放つ!

大混乱に陥ったイスラム軍は退却し、ペラーヨの軍隊は初めて大勝利をつかみます。

 これはキリスト教徒のイスラム教徒に対する初めての勝利と位置づけられており、ペラーヨをして「レコンキスタの始祖」と言われる所以となっています。

 

 

「抵抗者」バックナンバー

第1回:ジャラールッディーン(イラン)

第2回:ペラーヨ(スペイン)

第3回:ヴラド3世(ルーマニア)

第4回:チュン姉妹(ベトナム)

第5回:ラウタロ(チリ)

第6回:テカムセ(アメリカ)

第7回:スカンデルベグ(アルバニア)

第8回:シモン・キンバングー(コンゴ)

第9回:ティプー・スルターン(インド)

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