キリストの再来と言われたコンゴの"救世主"
シモン・キンバングー(1887-1951)は、アフリカ・コンゴの宗教指導者。
ベルギーの過酷な植民地支配に苦しむコンゴの民衆の指導者となり、過激的な反ベルギー運動を展開。自らを「予言者」であると宣言して民衆の支持を集めると植民地当局によって逮捕されます。
しかし彼の逮捕と裁判は「キリストの受難」と「キンバングーの受難」を被らせることになり、植民地当局は悪役「ピラト」の役を演じることになりました。
このエントリーでは、アフリカ土着の文脈で展開されたキリスト教的抵抗運動と、そのリーダー、シモン・キンバングーについて述べていきます。
1. アフリカ人の文脈で捉える植民地主義
白人はウィッチ(邪術師)だ!
19世紀にヨーロッパ列強は次々とアフリカに侵攻して植民地支配の基礎固めを行います。初期の頃は、ギニアのサモリ・トゥーレや南アフリカ・ズールー族の王シャカなど地場勢力と列強の軍は拮抗し一進一退の攻防を繰り広げますが、1900年を分水嶺にして抵抗運動は沈静化。ヨーロッパ列強による植民地支配が本格化します。
住民は最初の頃は植民地支配とは何かを理解せず、支配者が変わるだけ、くらいに思っていました。
ところがアフリカ人たちは
- 都市化
- 貨幣経済の浸透
- 確実な法制度の履行
上記がラディカルにアフリカの「気安く生きる」伝統社会を破壊していく様を目の当たりにします。
なぜ以前より飢餓が増えたのか?
なぜ以前より働いているのに貧しくなったのか?
原因は大きく言うと社会システムの変容とそれについていけない住民の意識のギャップにあるのですが、
アフリカ人の文脈では「それはウィッチ(邪術師)が増えたからだ」という結論になりました。
ウィッチは不幸や禍をもたらす悪霊や悪霊を宿した人を指します。そこでウィッチ狩りの運動が各地で起こる。
その後彼らは気づきます。そういえば、白人が来てからウィッチの数が多くなった。そして白人たちはウィッチの摘発に反対している。そうだ、実は白人がウィッチだったのだ、と。
アフリカ人の抵抗運動は本質のシステムのあり方を問うものではなく、そういった寓話的文脈の中から生まれ発展していくものでした。
2. 反抗手段としてのキリスト教
ヨーロッパ人がアフリカを植民地化する過程において、「文明」と「キリスト教」はセットのものでした。日本にやってきた宣教師と同じやりかたですね。
魅力的な文明の利器や奢侈な品々を与えておき、それと引き換えにキリスト教の布教を許可してもらう。キリスト教は「野蛮な人々」へ「文明的な教え」を伝えることを奨励していますから、何の違和感もなく両輪で働くことができました。
もちろん、キリスト教は野蛮人たちを開化することが目的でなく、自分たちの従順な子羊に仕立てる手段としての効用が認められたに過ぎません。
キリストの「抵抗者」としての物語
ところがそもそもキリスト教には、「為政者への抵抗」という重要な物語を備えています。
この反逆や抵抗のコンテクストは元々彼ら自身の祭式の中に備わっており、アフリカ人がキリスト教を理解しする上で重要なファクターとなったのです。
千年王国的終末思想
1892年、ジョセフ・ブースという人物がアフリカにやってきて、アメリカやイギリスで展開されていた「ウォッチ・タワー」という終末論的キリスト教をもたらしました。
これは「1915年に世界の終末が訪れ、その後我々の教えを信ずるものだけが千年王国に導かれる」という類いのもので、一躍アフリカ人たちはこの思想を取り入れ、「白人の支配を排除した黒人の時代の到来が訪れる」という文脈に転換されていきました。
実際に、1915年にはニヤサランドで奴隷出身の大工チレンブエが白人追放を掲げて反乱を起こし、鎮圧されています。
3. キンバングー、民衆の指導者となる
シモン・キンバングー、予言者を名乗る
シモン・キンバングーはコンゴ・レオポルドヴィルの出身。
父親も近隣住民から慕われた伝道師で、キンバングーも大工の傍ら教会で説教を行っていました。
1921年、34歳のある時からキンバングーの周りに突如として人が集まり始めます。自ら予言者であることを宣言したキンバングーの説教を聞こうと、近隣から続々と信徒が詰めかけ、鉄道当局は増車を行わなければならないほどでした。
キンバングーは村を「イェルサレム」と変え、十二使徒を任命。自らをキリストと見立てた組織の設立に乗り出します。
次第に組織の主張は過激化。
ベルギー人がコンゴから去る日は近い。その日には先祖たちがこの世に復帰するであろう
と予言し、信者にベルギーへの奉仕を禁止。その日のために墓の周りの雑草を刈り墓への道を広くするように指示を出しました。
ベルギー当局はキンバングーを逮捕しますが、すぐに彼は脱獄し信者に熱狂的に迎え入れられ自ら「不死身」であることを証明してみます。
その後ベルギー当局はキンバングーを再逮捕し、終身刑を言い渡し牢獄に幽閉してしまいます。
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4. 救世主再来を決定づける劇場型裁判
キンバングーが再逮捕され裁判にかけられたことは、かえってキンバングーが「救世主」であることを民衆に強く印象づけることになりました。
すなはち、「キリストの受難」と「キンバングーの受難」がパラレルとなったまるでドラマのような物語が展開され、必然的にベルギー当局は「キリストを裁くエルサレム総督ピラト」の役割を演じることになってしまいました。
非常に興味深いことに、この劇場型裁判は論理的立場の転倒が起こっていたのでした。
ピラトに代表される富める不信心のローマ人(ベルギー人)が、真の選ばれた民であるキリストとその信徒(コンゴ人)を弾圧しているという構図が完成しており、コンゴの民衆はその抵抗のための正当性を聖書によって得たし、ベルギー当局もそれを幻想として退ける根拠を持ち合わせていなかったのです。
5. キンバングー拘留後の抵抗運動
キンバングーの拘留以降もキリスト教文脈の抵抗運動は続きます。
1936年に救世軍が伝道を開始。この中にはコンゴ人シモン・ムパディという男がおり、彼を中心に「全アフリカ人教会」という黒人の独立教会を設立。
ムパディの教団は、「すべての住民が加わらなければミレニアムは実現しない」と説きます。それを拒否する者は「ウィッチ」であるとも説かれました。
ミレニアム=黒人による王道支配の完成
ウィッチ =悪の元凶、白人のシンパ、裏切り者
という分かりやすい文脈です。
このようなアフリカ的文脈と善悪二元論を組み合わせ、救世軍の組織原理から学んだ組織方法で信者を村落レベルまで組織し独自の釈義を有しました。
われわれは神に祈り、神は黒人に救世主を送りたもうた。それがシモン・キンバングーだ。彼はモーセ・イエス・ムハンマド・ブッダが他の人種の救済主であったのと同じ資格において全黒人の王で救世主なのだ
と。
結局キンバングーは1951年に獄中で死亡。
現在でもキンバングーを救世主と讃え復活を信ずる「キンバングー主義」と言われる一派が500万人ほどがコンゴには存在しているようです。
まとめ
短いですが、ここからもアフリカ人が非常に寓話的で物語的な文脈で物事を解釈することが分かると思います。
特に自分たちや自分たちの文化の生存が脅かされ、でも何をどうすればいいか分からないような時に、このようなコンテクストは非常に強く、PDCAとかカイゼンとか屁に思えるくらいの圧倒的爆発力を有するのでしょう。
しかし緊急時以外の平時は、このような発想は正直役にたたないどころか、物事の発展を阻害する害悪しかもたらさない気もするのですが・・・
参考文献:世界の歴史6 黒い大陸の栄光と悲惨 講談社 山口昌男