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ミャンマー民主化の精神的シンボル
アウンサン・スーチーさんはニュースでもたびたび登場しますから、ほとんどの方が名前くらいは知っていると思います。
ただ、じゃあ何で自宅軟禁されていたのかとか、ミャンマーの人たちがなぜ彼女をそこまで熱狂的に支援するのかとかまではあまり知らないのではないかと思います。
今回はアウンサン・スーチーさんのこれまでの歩みと、彼女の行動の大本となっているその思想を、中公新書の「ビルマの歴史」を引用してまとめていきます。
1. 軍人が支配する国ビルマ
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ビルマ式社会主義
ミャンマーは旧国名をビルマと言い、1989年に国名を変更するまでビルマ連邦という名称でした。
独立の功労者であるアウンサン将軍は独立を見ることなく、1947年に暗殺されてしまいます。独立準備はウー・ヌに引き継がれ、ビルマ連邦は1948年にイギリスから独立を果たしました。ところが内乱や国内の少数部族問題が影響して政権与党のパサパラは分裂。国内政治は混乱をきたします。
1962年、ビルマ国軍によるクーデーターが発生し、ウー・ヌ政権は打倒されネィウィン大将を議長とする革命評議会が全権を握ることになります。
ネィウィンは自身をトップに据えたビルマ社会主義計画党(BSPP)を結党。シンパである国軍の将校を参加させ、一党独裁による国家開発を開始しました。
しかし急進的な社会主義政策により企業の国有化が行われたことに加え、軍人が経済活動に介入したことで経済は著しく停滞。1970年代半ばに危機的状況を迎え、日本や西ドイツからのODAによって何とかしのぎますが、再度1980年代半ばに大混乱に陥ります。
軍の力はあらゆる場所に及び、ビルマ社会は非効率で硬直した社会に陥ってしまいました。
1988年の民主化運動
きっかけは些細でした。
ラングーン工科大学の学生が、大学近くの喫茶店で自分が持ち込んだカセットテープを流してもらおうと店主に依頼しました。
しかし、店主は店に先にいた地元の有力者の息子が持ち込んだカセットテープを流し続けた。自分の聞きたい音楽がいつまでたっても聞けずに怒った学生は、有力者の息子と喧嘩を始める。騒ぎが大きくなり警官が駆けつけ、なんと学生の1人が警官に射殺されてしまった。
学生らは激怒し、その騒ぎは8キロ離れたラングーン大学にも拡散。
事件から6日後大規模な学生デモに発展し多数の死傷者を出すと、騒ぎは首都ラングーンから地方にまで広がっていき、学生のみならず市民や公務員まで参加するようになっていき、その規模は数十万にまでふくれあがりました。
デモは国軍による統治の反対から、民主化の実現、複数政党による総選挙の実施、人権の確立、経済の自由化といった主張に展開していきます。
政府も学生らの要求に応じ、3ヶ月以内の選挙の実施などを認めますが、暫定政権の発足はなかなか進展をせず時間だけが経っていく。
そうこうしているうちに軍が再びクーデーターを敢行。BSPPが率いる政府を解体し、全国各地の学生運動を徹底的に弾圧してしまいました。
政府発表によると337名、負傷者209名ですが、1000名以上が死傷したと考えられます。
アウンサン・スーチーはこの時の民主化運動のリーダーとして表舞台に登場しました。
2. 独立の父アウンサン将軍の娘
インド・イギリス・アメリカ - 青年期を海外で育つ
アウンサン・スーチーは1945年6月19日に、父アウンサン将軍が抗日闘争を続けている中に生まれました。しかし父は彼女が2歳の時に暗殺されてしまう。
看護師であった母キンチーは、スーチーを仏教徒として厳しいしつけの下で育てました。スーチーは周囲の者や母から亡き父のエピソードを聞き、「独立の父の娘」であることを意識して過ごすようになります。
1960年、キンチーが駐インド大使に任命されたため、スーチーも母とともにインドに移住します。ここインドでスーチーは当時の首相ネルーの家族と親睦を深め、かねて興味を持っていたガンジーの思想に多大な影響を受けたそうです。
1964年、イギリス・オックスフォード大学に留学し哲学・政治学・経済学を学び、後にニューヨーク大学の大学院に進学。国際関係論を専攻しますが、途中で応募した国連本部の採用試験に合格したため、3年間国連の財務スタッフとして働きます。
専業主婦から大学の研究員に
1972年、かねてより交際のあったイギリス人男性マイケル・アリスと結婚。
同時に国連を退職し専業主婦となり、1988年まで子育てに専念しながらも、ビルマ近代文学の研究をしていました。
ロンドン大学東洋アフリカ研究員の博士課程に進学し、同時に図書館の研究員も2年勤めています。研究の過程で、スーチーは父アウンサン将軍のことについて詳細な資料がある日本語を勉強する必要性を感じ、日本語をマスターして京都大学の研究員として約10ヶ月日本に滞在もしています。
その後オックスフォード大学に戻り、ビルマ文学とアウンサン将軍の詳細な伝記を書き上げる準備に入ろうとしていました。
3. 民主化運動のリーダーに
Photo by Htoo Tay Zar
民主化運動に参加、自宅軟禁突入
1988年3月、ヤンゴンにいる母キンチーが危篤との知らせを聞き、スーチーはすぐにビルマにかけつけた。
折しも先述のビルマの学生運動が展開していた時期と重なっていたのです。
人々は「独立の父アウンサンの娘が帰国中」のニュースを聞き逃しませんでした。
民主化の運動家たちがスーチーの家に出入りするようになり、スーチーは彼らとの交流を通じてビルマが大きく変化しようとしているのを感じ、民主化運動への参加を決意したのでした。
スーチーはその知名度を活かし、ヤンゴンのシェダゴン・パゴダで数万人規模の集会を開催。有名な「第二の独立闘争」宣言でまたたくまに民主化のリーダーとして人々の期待を集める存在になります。
ところが、国軍のクーデーターにより民主化運動は頓挫。
スーチーは元国防大臣のティンウーらと共に国民民主連盟(NLD)を結成し、政治家として活動を開始します。
1989年7月、ヤンゴン中心部で開かれた集会でスーチーはネィウィン批判を展開し、これが原因で軍政により国家防御法を適応されて自宅軟禁に処さされてしまいます。
電話線は切られ、訪問者も制限され、外部との情報の伝達手段はほぼ皆無でした。
解放、そして再軟禁
1990年、ミャンマーで30年ぶりの複数政党参加の総選挙が実施され、スーチー率いるNLDも参加。スーチー自身も自宅軟禁の身でありながら立候補します。
結果、総定数475のうち392をNLDを獲得。まさに圧勝。
しかし国軍が率いる国家秩序回復評議会(SLORC)はこの結果を無視し、政憲国民会議という別の議会を独自に作り、そこに軍政が選んだ人物を招集しました。
あくまで国は軍が率いるべきであり、在野の連中には任せられない、ということでしょう。それは
「国軍だけが母、国軍だけが父、まわりの言うことを信じるな、血縁のことだけを信じよ、誰が分裂を企てても我々は分裂しない」
というスローガンにその思いが込められています。
選挙後の1991年、スーチーは非暴力による民主化運動の指導が評価されノーベル平和賞を受賞。もちろん彼女自身は出席できなかったため、夫のマイケル・アリスが代わりに受け取りました。
その後、1995年に一時的に軟禁から解放されますが、国内外はおろか自宅前での政治活動すら極端に制限され、再び2000年から自宅軟禁に。
2回目の軟禁は2年後の2002年に終わりますが、2003年の地方への遊説の途中に軍政に連行され、3度目の軟禁に突入。この軟禁は2010年まで続きました。
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4. アウンサン・スーチーの思想
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軍政と対決し、ミャンマーの民衆から絶大な支持を受け、ノーベル平和賞も受賞したアウンサン・スーチーの思想は果たしてどのようなものなのか。
4-1. 恐怖からの自由
これはスーチー思想の根幹をなすもので、
「1人1人が恐怖に打ち勝つ努力をするべきである」
という強い意味を持っています。
独裁者は様々な手段で民衆を脅して自分に服従させようとする。民衆は恐怖し嫌なことでも独裁者に従うようになり、あまつ独裁者におもねるようなる。
この負の連鎖を打ち勝つには、社会に生きる人物全員が恐怖に打ち勝たねばならない。打ち勝って、行動を起こさねばならない。
誰かがやってくれるのを待ったり、趨勢が決まった後に乗るような腹づもりでは、特にミャンマーのような国では、いつまで待っても民主化は成し遂げられない。
4-2. 正しい目的と正しい手段
これはガンジー思想の影響が色濃い考えで、
「正しい目的のためには、倫理的に正しい手段をもって成し遂げられねばならない」
という考えです。
軍政は暴力をもって民衆を押さえ込もうとする。だが、これに対して暴力で対抗してはならない。もし暴力を用いて軍政を倒せたとしても、その後に出来る政府は民主的な形とはならないはずで、その過程で用いられた暴力が頭をもたげてきてしまう。
そのため、正しい政府を成すには正しい方法でないといけず、それ故の非暴力という手段となるのです。
4-3. 「正しさ」とは何か
では、その行動の源泉となる「倫理的な正しさ」は何を基準とするか。
スーチー思想ではその正しさは「真理」という言葉で表現されています。行動は真理に照らし合わせて是か非かを判断すべきで、そのためには人は日常生活の中で真理を追求し、常に自分の行動が真理に叶っているかを問い続ける必要があるとされます。
4-4. 「真理」とは何か
では、「真理」とは何か。
それは「主観性を克服し、偏見から自由になる」 こと。
誰しもおそらく完全に到達することはできないが、生涯をかけて追い求めるべき理想であるとされます。
人は自覚と客観性をおろそかにし、独善的に行動してしまう。すると他人に憎しみや敵意を抱きやすくなる。芽生えた憎しみは恐怖を心に増幅させ、結果的に堕落的な行動に陥っていく。
まずは落ち着き、相手のことを知ろうと思う。あるいは話し合ってみようとする。
すると誤解が解けたり、逆に相手が考える自分の過ちに気づいたりする。そうして両者は対立から和解へと転ずる。
究極の性善説ですよね。
これを全てのミャンマー国民が持つようになるなんて永久に訪れないのでは、と個人的には思うのですが、あらゆる思想の核はきっとこのようなピュアなものなのでしょう。
このような思想を土台にして、あるいは拠り所にして、スーチーとNLDはミャンマー社会の変革を成し遂げようとしています。
5. 「抵抗者」から「政治家」へ
2010年11月、スーチーは3度目の自宅軟禁から解放され政治活動を再開。
2012年3月に開かれた補欠選挙に立候補し当選しています。政府もこれを認め、スーチーはNLD所属の国会議員として活動中です。
なぜこれまで散々妨害してきた政府が、 スーチーの政治活動を認めるようになったか。
まず、2011年1月に連邦議会が招集されティンセインを大統領とする新体制が組まれたこと。
ここにおいて民主運動の時から23年間続いていた軍政は終了し、形の上では民政移管が完了しました。とはいえ、議席の75%は退役軍人が占めており、2008年憲法でも軍人が政権の中枢に居座り続けるように定められ、半永久的に軍人支配が続くように制度化されてしまっています。
それゆえ、スーチーを国会議員にして政治活動をさせようが、軍人支配体制に影響はない、と判断したことがその理由であると考えられます。
まとめ
現在のスーチーの政治活動のスタンスは曖昧で、2016年の選挙では「大統領にはならないだろう」と発言しています。
一方で、ムスリム難民のロヒンギャ族問題については一貫して沈黙をしており、それをスーチーが「権力を取りにいくため、仏教徒の支持を得るため」と捉える向きもあります。あるいは、現政権との妥協というのもあるのかもしれません。
これからスーチーは何を目指すのか。
少なくとも理想社会を目指す抵抗運動家から、スーチーは現実的な政治家に変わっているというのは確かなようです。
追記:2021年2月2日
アウンサン・スー・チーは2月1日にミャンマー国軍が起こしたクーデターにより再び拘束されました。
2020年11月に実施された選挙でスー・チー率いる国民民主連盟(NLD)が大勝し、国軍が母体の連邦団結発展党(USDP)は大敗。これを受け、国際的には「ミャンマーの民主化」の期待が高まりましたが、政治・経済のあらゆる箇所で既得権益を握る軍と軍出身者は、民主化によって多くの民間人がポストに参入して自分たちの利益が脅かされることを恐れていると考えられます。
スー・チー氏はどうなるか分かりませんが、国軍の再び軟禁状態に入る可能性があります。国軍のトップであるミン・アウン・フラインを中心とした暫定政府が設立され、再度の民主化「骨抜き」作業が時間をかけて行われるのかもしれません。
参考文献:物語 ビルマの歴史-王朝時代から現代まで 根本敬 中央公論新社